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第一章 六~十

 町は昨日の騒ぎでどこか騒がしい。

 どこに行っても人々が口交わすのはその話題だ。

「あ、失敬」

 また、ひそひそと話を交わす婦人の”うつしもの”という言葉に踵を返したところ、誰かにぶつかってしまった。

 相手は帝国軍人のようであったが、なぜか問い詰められることも無く、「失敬」と返された。やけに凛々しい眉毛と、丸い眼が印象的だった。軍人は、そそくさと林太郎を追い越し町へ消えていく。

――それにしても、どうしてこのような所に軍人がいるのだろうか。

日本は今、異国との戦争の為の準備が着々と進んでいる。よって、街中に軍人の

姿を見かけることは多い。しかし、いくらなんでも、このような外れで見かけるのは珍しい。このあたりには長屋などしかないというのに。その後姿をなんとなく見送っていると、誰かに声を掛けられた。

「林太郎! 林太郎ではないか!」

この、煩い声は――林太郎は元来た道を戻ろうとする。しかし、声はそんな林太郎を追いかけてきた。

「おい、林太郎、林太郎だろう、どうして無視するのだ!!」

――振り切れないか。

仕方なく振り向くと、そこには驚いたような花園梅丸の顔があった。

「おお! 吃驚するではないか、突然振り向くとは」

「町中で俺の名前を連呼するな」

そう言うと、花園は大して気にしていない様子ですまないすまない、と言った。思えば、花園にこの注意をするのは何度目かわからない。林太郎は憂鬱な気持ちで溜息をついた。花園はそんな林太郎の様子にも気にせず横に並ぶ。

「林太郎、今、見たか。軍人がいたな」

「ああ、いたな」

「どうしてこんな所にいるのだろう? なあ」

「さあな」

花園はこのように抜け目なく、常に人の周りをかぎまわっている。それにしても、同行を許可したつもりは林太郎にはない。それなのにどうして馴れ馴れしくついてきて、挙句の果てにはのんきに世間話をしようとしているのだろうか? 睨んでみても花園はそんなものどこ吹く風で歌謡曲を口ずさんでいる。

――こういう馴れ馴れしい所も、苦手だ。

林太郎は、花園が苦手だ。それは、性格的に合わないこともあるし、「探偵」という林太郎にはよくわからない家業を生業としているということもある。それに、大仰な物言いも気に入らない。そして、どうやら要人の子息らしく、天睛も花園がどのような所業を行おうと何も言わない。(元々、天睛はほとんど林太郎達に何も言わないのであるが)矢張り司令塔と言う立場上、能力者よりも一段高い位置にいる天睛に物怖じせず自分の意見を言えるのも、元兼、無亮、そしてこの花園しかいない。そういうところも気に入らないのだ。林太郎は矢張り年上で何かと世話をしてくれる天睛に不満を述べるのは少し躊躇してしまうし、影鴇などは拾われた恩もあるせいか崇拝しているくらいだ。公彦は――公彦もよくわからない人間であるが、少なくとも天睛に楯突いたりはしない。ただ、天睛の言うがままに仕事をこなしているという印象だ。

「林太郎はどこに行くのだ?」

「どこでもいいだろう」

「連れないなぁ、林太郎は」

「……」

「そうだ! 僕はこれからフラッペを食べに行くのだけれど、君もどうだい」

「……ふらっぺ?」

「そうだ。氷に甘いシラップを掛けたものだ」

「……いや、俺は遠慮しておこう」

花園は新しいものには眼がない。こうしていつも新しい物を追いかけている。林太郎はそういうものに興味がまるでもてない。その分稽古できるだろうと思う。

――町に出たのは、失敗だったか、と林太郎は思う。

そもそも、どうして町に出たのか。

――それは、昨日の拾い物のせいだ。

なんとなく、係わり合いになりたくないのだ。そうした気持ちが林太郎を町に向かわせたのだろう。林太郎は女人が苦手だ。それは、林太郎がこれまで女人と関わってこなかった上に、この国では男女のおおっぴらな交際をよしとしていないことに起因しているに違いない。接する女人といえば天睛の館のお手伝いの老女か、そうでなければ講談などで話に聞くばかり。それをかんがみると女人とは意味がわからなく、面倒臭そうでなんだか敬遠したい存在なのである。年中女人の話をしている花園に言ったら笑われるだろうが。……そんなことも林太郎を憂鬱にさせた。こんな日に限って花園につかまるのだから、花園は本当に間が悪い。

「そうか。詰まらないなぁ。昨日のことも聞きたかったのに」

その言葉に林太郎は花園を思わず見た。花園は相変わらずへらへらと笑っている。――感情が、読めない。

――俺は、探偵は、好かん。

林太郎はもう一度、そう思う。

「――昨日?」

思わず反応する。花園は、不審に思っていないだろうか……思い、横を見るも花園はそんな林太郎に気付く由もなく、鼻歌を歌いながら道行く婦人をジロジロと眺めている。キャアキャアと嬌声をあげた女性の一団に花園は手を振って見せた。まるで、活劇のスタアのようだ。林太郎は辟易して、今度は先ほどよりも少し大きな声で

「昨日?」

と尋ねた。

「アア、すまないね」

花園は振り返り、にっこり笑う。

――まったくすまないと思ってないな。

林太郎が溜息を吐くのも束の間、林太郎は朗らかに笑った。

「いやあ、ご婦人は本当に可愛いね。そう思わないかな、林太郎」

「!?……い、イヤ、俺は別に」

「そうかい?」

考えを見透かされたようで、林太郎は知らず溜息を吐く。

「だって、あんなに可愛らしいじゃないか……それにね」

あまりの不道徳さに改めて、花園と縁を切ることを望んだが、探偵はそんな気持ちとはお構いなしに、ニッコリと笑ってみせる。

「人間観察は探偵の基本だよ、基本」

林太郎がジッと見つめる、しかし探偵は変わらずにやにやと笑うばかり。一陣の風が吹いて、探偵の外套が揺れた。どこかの庭先の柳が揺れて、探偵の顔に影を投げる。それでも、花園の目線は揺るがず、笑顔は動かない。林太郎は思わず目をそらす。

 探偵は帽子を直し、林太郎ににっこりと笑いかけた。

「加えて、女の方はとても情報収集に協力的だ。甘味も奢ってくれるしね」

実はそれが目当てだったりして、とクフフと笑う花園。

 林太郎は、花園に矢張り得たいのしれない不気味さを感じるのであった。そして、三度、「昨日」と、確かめるように聞き返すと、花園はああ、そうだった、と笑う。

「無亮と喧嘩でもしたのかい」

「ああ、そのことか」

思わず力を抜く。まったく、これでこのことを聞かれるのは何人目だろうか。余程無亮と仲がいいと思われているらしい。どうしてだろうか。今度こそ違う人間と戦いに向かえるように天睛に頼んでみよう。そう考えていると、花園は林太郎の顔を覗き込んだ。

「で、”そのこと”じゃないほうは、何だい……先ほども、何か、気にかかっていたみたいだけど?」

――矢張り、探偵は、好かん。

林太郎はもう一度、そう思った。

花園は猫のように、目を細めてにやにやと笑った。


頭が痛い。

やけに浮き浮きとした天睛に呼び出されたのは一刻前。

「話は成立しましたから」

と、常日ごろから天睛の服を仕立てている反物屋に使いに出された。

――花丸の煩さに耐えかね、逃げ出してきた矢先のこと。

矢張り、それでも町に逃げていればよかった、と林太郎は反物屋までの道を歩きながら思った。反物屋があるのは壱地点――基、本郷。初夏の光は眩しく、風はやさしく柳を揺らす。その影を、日傘を差した着物を着た婦人と、袴を履いた書生風の男の連れが通りゆく。その向かいから車を引く車夫が、汗を拭い拭い駆けてくる。思わず林太郎は目を細めた。

平和な光景だ――いつもと何も変わらない。ここが黄昏時ともなれば、闇に覆われ、人も通らなくなるなど考えられないほどだ。林太郎は緩くなってしまった歩みに気づき、今度は何も考えず反物屋への道を歩いた。

 反物屋の主人は「若い男の普段着」という注文に影鴇のものと勘違いしたらしい。

「あのお坊ちゃんは玉のようですな。光源氏とやらがいたらあれほどのものだったのかもしれません」

そう言いながら、主人は影鴇に似合うであろう模様を次々と出してきた。

 林太郎は着物の柄には疎いので、主人に任せて館に持っていってもらうことにした。

主人が寸法を測るときに影鴇ではないことに驚くかもしれないが――

着物の柄など、誰が着ても同じだろうと思い、主人の勘違いを特に否定はしなかった。店から出ると、日差しはもうかなり強くなっていた。林太郎は被っていた帽子の庇をさげる。

――もうこんな時刻か。

今日は朝の稽古以来剣を握っていない。損をした気分だ。

――たまには元兼に稽古を付けてもらいたい。

元兼はその素性を一切明かさない。しかし、その太刀筋を見れば只者ではないことがわかる。

 以前、偶々元兼の太刀筋を見たことがあったのだが、その時はその太刀筋に惚れ惚れと見とれてしまったほどである。それほどに元兼の太刀筋は完成されている。きっと名のある人間なのだろうと思う。そんな人間がどうしてこんなところにいるのか――そのことに興味は無い。ただ、稽古を付けてもらいたいし、あわよくば戦って打ち負かしたい。

――そんなことを考えながら歩いていると、

聞きなれた声が聞こえてきた。

「――いい子にしていたか」

林太郎は思わず身を隠した。恐る恐るそちらを覗き見ると、そこには無亮が、数人の童と戯れているところだった。

「父様」

「父様」

童たちが口々にそう呼びながら無亮に群がる。父様、と呼んではいるが童たちの顔に共通点は見出せない、さらに、無亮とは似ても似つかない。

――大方、無亮が好きで世話をしている童たちだろう。

物好きだ、と思う。

 自分には関係ないことだ、と踵を返そうとしたところで足元の小枝を踏んでしまった。パキっと乾いた音がして林太郎は思わず眉を顰めた。無亮がそれに気づかないはずも無く、振り向き、林太郎に気づくと破顔した。

「林太郎、林太郎じゃないか」

「……」

返さず、歩み始めるとすまんな、という声が聞こえ、無亮の足音が追ってきた。

「林太郎、どうした。ゆっくりしていけばいいのに」

「用事の途中だ……俺にかまわずあの子供達の相手をしてやれ」

「ん。大丈夫だ、今日はどっちにしてもそろそろ切り上げようと思っていた」

うしろから、舌足らずな「ととさまぁ」と、無亮を呼ぶ声が聞こえて無亮は振り返って手を振った。

「向こうはそう思っていはいないようだが」

「ん……しかし、俺もいつまでも傍にいられるわけじゃないからな……」

無亮らしくはない、その冷たく思える言葉に驚いて無亮を思わず振り仰いだ。無亮は常に無いような、悩んだ表情をしている。

「――あの子供たちは、俺が金を払って育ててもらっている孤児なのだが」

孤児――先の戦争で孤児になった子供達だろうか。

「だが、俺がいつまでも面倒を見れるわけじゃないからな」

――”うつしもの”との戦いについて言っているのだろうか。しかし、今の状態ならば自分達に危害が及ぶという戦いは行われていない。簡単な代わりに手ごたえは無い。きっとまだ序盤戦なのだ、と思う。まだ自分達は敵に肉薄していない。敵はまだ別にいる――そんな気がするのだ。

しかし、それにしても昨日から今まで興味も無かった、共に戦っている人間の内情に触れることが多い。

――興味がないのだ。聞きたくない。

だから、そういうと無亮は何を勘違いしたのか嬉しそうに笑った。

「俺が稽古付けてやれなくて寂しかったか」

「馬鹿を言うな」

どこをどうしたらそうなるのか、理解できなくて林太郎は呆れて言う。しかし、無亮はますます勘違いしたのか、なぜか林太郎の頭を撫でた。

「そうかそうか!」

「おい、やめろ!!」

林太郎が暴れると無亮は豪快に笑った。

「ははは! お前、やっぱり、なんとなくあいつらに似てるな!」

「ふざけるな」

そう言うと、無亮は笑いながら謝った。

「大体、ここにきたのは偶然だと何度言えば解かる」

「ああ、そうだったな――ここだと、――んー、反物屋に使い、ってとこか」

「わかっているじゃないか」

――もしかしたらからかわれてるのか?

そんなことが一瞬頭を過ぎった。しかし、それは考えないようにする。

「まーた、影鴇坊ちゃんに新調か? 愛されてるなぁ、あの坊ちゃんは」

「そんな下衆な言い方はやめろ。それに、あいつじゃない……」

そこまで言って林太郎ははっと口を噤んだ。内緒にしろとは言われていないが、何故か言うのはためらわれた。

「? 林太郎?」

「……なんでもない」

「そうか。しかし、林太郎じゃないとしたら天睛か? どこにそんな金があるんだかなぁ」

「――貴族様には俺達にはわからない、金の入る場所があるんだろうよ」

そう上の空で言うと無亮はそれもそうだな、と頷いた。頷いた瞬間。ばっ、と後ろを振り向いた。

「? どうした」

「いや――今、なんか”うつしもの”の気配がした気がした」

「こんな真昼間からか?」

無亮が振り向いた路地の先を見ながら、そう、怪訝そうに言う林太郎に無亮は納得がいかないような表情のまましぶしぶ頷いてみせる。

「ああ――変だよな、しかし、確かに一瞬――」

いぶかしげに何度も何度も後ろを振り向く無亮の肩越しに、見たことのある軍服姿の後姿が見えた気がした。


 やってきた反物屋は日和を見ると巻物を落とした。天睛はその様子を見て後ろでくすくすと笑っている。

――とりあえず影鴇の服を借り、日和は自分の服を作ってもらうことになった。日和が自分の名前を名乗った後、天睛は

「では、少しお待ちください」

とにっこり笑って出て行ったあと、街の鐘が鳴った後ぐらいに再び天睛が顔を出した。

「日和君。君の服を作りましょう」

といい、着物を手渡してきたのだ。

「え! 服!?」

そんな、悪いです、と言うも、確かにこの姿では外に出ることも出来ないだろう。

(目立ちすぎるし、何より女性だと宣言しているようなものだ。)

「えっと、これではだめなんですか?」

渡された着物を示すと天睛はゆるく首を振った。

「ええ、それは影鴇のなので」

「かげときさん?」

日和の疑問には答えず天睛はにっこり笑う。

「ええ。彼も一応男子ですので、さすがに体型など違うでしょう」

広げてみると、確かに肩幅などが違うようにも見える。

「あとこれは晒しと――母のもので失礼ですが、こちらをお使いください」

晒し、と言われた包帯のようなものと何かの布切れを渡された。

「では、反物屋を今呼んでますので、お着替えがすんだら私に知らせてもらっていいですか。私は廊下にいますので」

そういうと天睛は珍しく慌てた様子で外に出る。日和はそんな後姿を見送ってから着物をベッドの上に広げた。薄い黄緑の着物にモスグリーンの袴。これを着ている人はセンスがいいのだろうと思わせる組み合わせだ。そして、晒し。これは胸のふくらみを押さえ、男子のように見せるためのものだろう。

もう一つは――

「何、これ?」

日和は掲げて首をかしげた。

どうやら巻いて使うようだ。形はパレオに似ていないこともないかもしれない。

しかし、真っ白なそれはパレオと呼ぶには程遠く、またそもそもこの時代にありえないものだ。

「これはどこに付けるのかな……」

聞いてみたほうがいいのだろうか……しかしなんとなく聞きづらい。日和はとりあえずそれは無視して晒しを巻きなんとか着物を着、袴をはいた。

「うーん、まぁ、こんなもんだよね?」

ちょっとよれよれしているが、見た感じ変ではないと、思う。

「そういえば……」

背中のほうを見て確認していた日和はなんとなく呟いた。

「下着とかってどうしてんだろう。――ふんどし、じゃないよね」

日和は知らない。さっき広げていた布が下着であるということなど――。


 天睛を呼ぶと、天睛は何も言わず帯を直した。

「――まぁ、どうせ脱ぐからいいでしょうけど」

――なんかやらしいです、天睛さん。

日和は心の中で突っ込んでみた。

「丁度反物屋も到着したので、こちらに通しましょう」

そう言ってあわただしく天睛は部屋を出て行った。間もなく、何ごとかを誰かとしゃべりながら廊下を歩いてくる。

「……というわけでね、今日は影鴇じゃないんです」

「あらま! 坊ちゃんに合いそうな柄ばかり見繕っちまいましたよ。林太郎さん、何も言わないから」

「ふふ、申し訳ありません」

「いやいや! 謝っていただく事のことではないでさぁ。ただね、坊ちゃんに合いそうな柄ばかりなんでね。その人に似合うかどうか。いい柄が入ってるんですよ」

「それは残念です。でもね、影鴇に負けず劣らず、なかなかどうして、美人ですよ」

「へぇ! そいつは楽しみだ。着物も喜ぶってもんでさぁ」

そうして、天睛が入ってきて、そして何か箱を持った中年の男性が続いて

――そして、話は冒頭に戻る。

反物を拾うのを天睛に手伝ってもらい、ぺこぺこしながら反物をかき集めてから男性はまじまじと日和を見た。

「ほぅ! へぇ!」

日和を見てその中年の男性は唸る。

「えっと……」

居心地が悪そうな日和。

「あぁ、失礼しました! これほどってんなら着物も喜ぶでしょう。

どれ、では採寸させていただきますよ」

「あ、えっと……」

早速巻尺を出してきた反物屋の主人に戸惑う日和。

しかし、天睛はにこりと笑って頷いた。

「じゃあ、お願いします」

「お任せください!」


「……どうでしょうか」

中に入ると、先ほど反物屋が見せていた生地で作られた着物を着た彼女がいた。

「どうです、なかなか似合っているでしょう」

のんびりと言う天睛に、林太郎は、

「あの反物屋は本当に仕事が速いな」

とだけ言った。

「はい、なにせ、今日中に準備しないと仕様が無いので。またいつうつしものが現れるかもわからないでしょう」

「……本当にやったのか」

「ええ、随分可愛らしいお坊ちゃんになってしまいましたが」

林太郎はその言葉に、天睛には何を言っても無駄だということに改めて気がついた。

 彼女は昨日天睛が言ったように男児の格好になっている。肩まであった髪は切られ、林太郎と同じくらいになっている。何よりも、その着物は男児のもの、その上袴まで履いている。馬鹿げたことが現実になってしまった。

「しかし、こうしてみると――本当に、とんでもないことをしてしまったな」

「そうですか、妙案だと思ったのですが」

天睛には嫌味は通用しない。にこにことしている。林太郎はもう一度溜息をつくと恥ずかしそうにしている彼女を見た。

「お前はそれで構わないのか」

「え? ええっと……よくないですけど、これ以外方法がないですし」

困ったように笑った彼女に林太郎は思わず天睛を見上げた。

――この人は、口だけは立つ。

林太郎が非難しているなど思いもしないのであろう、天睛はにっこりと笑ったまま、「では、林太郎君、彼女の手助けをお願いしますよ」と言った。

「え?」

林太郎は思わず間の抜けた言葉を返してしまう。

「え? じゃないですよ。だって、彼女が女であることを知っているのはとりあえず貴方だけですし男だってばれたらわざわざこんな格好している意味が無いでしょう。だから、貴方が手助けしないと」

――今日一日逃げていたのはこの言葉からだったのか。

自分の直感を恨んでももう遅い。

 ここで断れるわけが無い。基本的に天睛には逆らえないのだ。立場的には力を貸しているこちらのほうが優位に立つべきなのだろうが、なぜかそうではない。これも、天睛の弁が立つせいだ、とは思う。

「……わかりました」

納得はしていないが、とりあえず理解はした。そう答えると、天睛はよかったです、と笑った。

「では、本日早速皆さんにお披露目しないとですね」

「……土岐宗が騒ぎそうですね」

幾ら男装しても、腕の細さや、首周りの細さや――なんというか男の自分とはやはり作りが違うように見える。

(そこまで考えて日和が女であることに改めて気がついて思わず目をそらした。)

影鴇は男の中では随分と華奢だが、それでも、矢張り影鴇も男なのだ、と目の前の彼女を見せ付けられると思ってしまう。それほどまでにはっきりと、違っていた。影鴇に対してさえ土岐宗はものすごい可愛がりようなのだ。いくら男装をしているからといって、影鴇よりも女らしく華奢であれば自他共に認める女好きの土岐宗は大騒ぎだろう。

「そうですね。困ったものです」

あまり困ってなさそうな声で天睛は言った。

「……」

林太郎が何も答えられずにいると、天睛は林太郎は納得したものと思ったらしい、

話題を切り替える。

「では、彼女に剣術を指南してください。」

「……は、今、なんと」

「だから、剣術を指南してください、といいました」

「何故ですか? 彼女は剣を使いませんよね」

「ええ。そうなんですけど、一応使えるように見せたほうがいいでしょう。確かに彼女は剣を使わずに技を使う、摩訶不思議な技を使います。でも、そこからどんなぼろがでるかわからないでしょう」

言っていることには一理あるように――聞こえる。

「それに、いざと言うとき防戦できないとね」

聞こえるが、ああ、でも――

「それは、俺が彼女の出自を知っているからですね」

「そうです。物分りがよくなってきましたね」

全てを諦め、林太郎ははい、と頷いた。

「とりあえず、稽古は明日からでいいでしょう。とりあえず、

今日はお披露目ということで」

何故か天睛が楽しそうにしている気がして林太郎は見なかったことにした。彼女を見ると、矢張り恥ずかしそうに笑った。

――よく笑う人間だ。

林太郎はなぜか冷静に、そう少女を観察した。


 緊急招集されたことに不満そうなのは、土岐宗だ。大方、遊んでいる最中に呼ばれたのだろう。それを宥めるのはいつものとおり影鴇の役目である。元兼は常のように黙って壁際にいる。困ったようにしているのは公彦で、(背筋を伸ばせといいたくなる)嬉しそうに辺りを見回しているのは梅丸だ。(何がそんなに嬉しいのか理解できない)無亮はそんな二人に話しかけたりしている。

 林太郎は広間の入り口を開け、その面々を見ながらこれから起こる騒ぎを想像し、溜息をついた。


 基本的に全員、夜間は館内にいるように言われるものの、”うつしもの”さえ出現しなければ自由にしている。つまり前日に出撃した場合はうつしものが出現することも少ないので、皆好きにしていることが多い。今日は影鴇が今夜の集会を伝えていたのだろう。

 こうして集められると、別任務や、今日のように増員が告げられる。

 まぁ、後者はここのところ無かったので、全員前者だと思っているだろう。

 そう考えていると、普段天睛が現れるこの広間のぐるりを取り囲む欄干ではなく、林太郎の後ろから天睛が現れた。

「諸君。お集まりだね」

朗々とした声で天睛が発すると、全員とりあえず天睛を注視する。

「何の用です」

土岐宗が言うと、天睛は小首を傾げた。

「まぁ、落ち着きたまえ」

「落ち着いてられますか! 折角勝ってたってぇのに」

――今日は賭博か。

林太郎は溜息を吐いて、帽子を被りなおした。天睛はにやりと笑うと、大げさな身振りで手を体の横で広げた。まるで外人のような仕草だ。

「大丈夫、今日はすぐに帰してあげますよ」

「天睛様、ご用件は何なのです」

公彦が珍しく声を上げる。天睛はもう一度にやりといやらしく笑うと、百聞は一見にしかず、と呟いてから「おいでなさい」と自分の後ろを振り返って声を掛けた。

 おずおずと出てきたのは勿論件の彼女である。周りで誰かが息を呑む音が聞こえる。

「……天睛様」

口火を切ったのは影鴇で、それは非難するようないぶかしむ様な声だったのだが――それを確認しようと振り向く間もなく、林太郎は誰かに突き飛ばされた。

「!」

たたらを踏んで突き飛ばした主を探そうと視線を巡らせると、そこには異様な速度で移動したらしい土岐宗が彼女の傍に移動していた。

「お主! 名はなんと申す」

「え、えっと……」

「落ち着いてください、土岐宗」

どうでもいいが、相変わらず土岐宗の口調は時代かかっている。それを言うと花園もなのだが――

「うむ、女の子はいいな。女の子は歓迎だ。場が華やかになる」

――って、いきなりばれてるぞ、天睛。

林太郎は踏みとどまった格好のまま天睛を見る。しかし、天睛は慌てた様子も無くにこにこしている。

「嫌ですね、貴方がたは女日照りが続いているのでしょうか。よく見てください、彼は男児ですが」

土岐宗はぐいっと体を離して彼女を凝視する。そして、もう一度近づいて。彼女は困ったようにしている。それはそうだろう。

「ええ、男だって?」

花園もつられて移動する。

「ええ。男ですよ、だって、袴をはいているでしょう」

天睛は平気な顔をしているが、林太郎には段々無理があるように思えてきた。周りを見渡せば元兼は興味なさそうにしているが、無亮は面白そうにことの成り行きを見守っている。

 公彦は相変わらずどっちとも取れない表情をしているが、影鴇は驚きに目を見開いている。その反応に林太郎はもう一度違和感を覚えるが、それは二人の叫び声によってさえぎられた。


「う、うそだ!! こんなに愛らしいのに……!!」

「影鴇より余程女の子らしいではないか、どういうことだ、天睛!!」


二人はこの世の終わりのごとくそれぞれしゃがみ込み床をたたいたり何かぶつぶつ呟いている。

 何故か林太郎の頭に国敗れて山河ありという漢詩が浮かぶ。

――まぁ、信じたということだろうか……

天睛を見ると相変わらずにやにやしているが、林太郎を見るとにっこりと笑った。

――相変わらず、この人は鬼畜だ……。

少しだけ二人に同情した。


「というわけで、増員です」

「えっと、武藤日和です。よろしくお願いします」

日和と名乗った彼女はお辞儀をした。

「――まぁいいのだ、女の子らしい男の隊員が増えても場は華やぐ。それがたとえ男でも、だ」

「そうだな、女人らしい顔形が大事なのであって、それがたとえ男であっても女人

に見えるということが大事なのだ、珍しく意見があったではないか花園」

――五月蝿い。

二人は林太郎の横で何かしらぶつぶつと呟いている。しかし、影鴇が加入したときも二人は五月蝿かったように思う。思えば、騒ぎがこれだけすんだのは二人も少しは学習しているということだろうか。

 そう考えていると、天睛はいつの間にか話を纏めてしまっていたらしい。

「明日から彼女には君達と共に戦列に加わっていただきます。皆さん仲良くするように。では、今日はお開きということで――日和さん、屋敷内を案内しましょう」

「あ、はい」

そう言って二人は連れ立って出て行ってしまった。

 後に残された面子は、花園と土岐宗は珍しくつるみ、いかに日和が女人らしかったかということを語り合っている。元兼は今無言で部屋を出て行ったし、無亮は公彦と何かしゃべっている。そして、影鴇は何かを考えた後、部屋を出て行く。

――影鴇?

 林太郎はその様子が気になったので、その後を追った。




「えっと、屋敷の案内というのは」

日和が声を掛けると何事か考えていたらしい天睛は、日和を振り向いてにっこりと笑った。

「ああ、この場合貴方は新入りなのです。もう屋敷の構造を知っているのは可笑しいでしょう? それに、何か話してボロを出さないとも限らない」

(天睛さん、って見た感じもそうだけど、すっごく頭がいいのかも……)

日和はそう考えながらまじまじと天睛を見つめる。

 高校生の日和の周りにはまだ”大人”は少ない。その中で、天睛は、日和にとって飛び切り”頭のいい大人”に見えた。落ち着いた立ち振る舞い、よどみなく出てくる言葉……

(天睛さんに拾ってもらえて、ラッキーだったかも)

そんなことを考えて熱く天睛を見つめる日和。天睛はそれに小首をかしげ、日和に背を向けて歩き出した。慌てて着いていく。

 天睛に着いていきながら日和は屋敷の廊下を改めて見回した。少し古ぼけた屋敷、豪奢な赤いビロードのカーテン、装飾の施された壁。窓枠にも装飾が施され、足元のカーペットは真紅の絨毯。廊下はどこまでも続きそうだし、ところどころにこれも豪華な作りの証明が暖かい光を投げかける。

 見ているだけで天睛の館が、天睛の家がどれだけの金持ちかとわかるものである。ただし、そのどれもが少しずつ汚れている。日和にはもちろんわからないが、それは天睛がものの価値に余りこだわらないことと、お手伝いが一人きりの屋敷では、この広さでは掃除にまで手が回らないということである。

「そんなに珍しいですか」

いつの間にか日和の足は止まっていて、それに気づいたのか天睛は肩越しに振り向いて微笑んだ。

 日和は少し肩をすくめると天睛を追いかける。

「ええ、あの……すごいお屋敷ですね」

「祖父が見栄ッ張りだったのでね」

天睛は困ったように言ったが、その響きが冷たいものに聞こえたので日和は思わず首をかしげた。

 しかし、天睛は先と変わらず柔和な表情を見せている。気のせいだったかと日和はもう一度ぐるりと、屋敷内を見回した。

「お祖父さんが建てたんですね」

「そう。だから明治の初めと聞いています――もう築四十年にもなりますか」

「そんなに!」

日和は思わず驚く。

――だって、築四十年なんていったら、近くの今にも倒れそうな古いアパート……あれも築四十年って言ってた……

 日和の家のそばにあるアパートは今にも倒れそうで、破けた木の屋根、錆付いて外れそうになっている階段、などなど、この屋敷とは比べ物にならない。日和が驚いていると天睛はふっと笑った。

 そして、左手の大扉を指す。

「ここが広間です。ご飯は全てこちらでどうぞ。ご飯は六時、正午の鐘、五時に作られます。とはいえ、作りおいてあるだけですので、お好きな時間にどうぞ。ただし、配膳は御自分でお願いします。」

「あ、はい!」

つまり、基本的に言われた時間には用意されているがそれ以降であればいつでも好きな時間に食べに来いということなのだろう。

――お弁当とかそういう感じかな。

と日和は把握した。

「風呂、厠は二階です。階段を上ったところにある扉です。今、一応、案内しましょう」

「あ、はい」

「他に使うものはあるでしょうか……あぁ、一応、うつしものを倒した日には報奨金を支払います。お買い物などはそれをお使いください」

「え、お金がもらえるんですか?」

意外な言葉に日和は思わず驚いてしまう。なぜなら、そのようなものを与えられるほど天睛がお金を持っているように見えなかったからだ。

 天睛はそんな日和の疑問を察したのか日和に微笑みかけた。

「ええ、一応私にもパトロンがいますので。危険な戦いをして頂いてるのだから、当たり前というものです」

つまり、危険の代償ということだろうか。

(でも、意外……皆無償でやらされてるんだと思ってた……)

「まぁ、そんなに偉そうに言えるほどでなく、本当に微々たる金額なのですがね。」

日和の疑問を再度、察したのか、天睛は肩越しに振り向いて笑った。

「でも、労働にはそれに見合う報酬が無ければ、失礼というものです。やる気にも繋がりますし」

(大正時代にもこういう風に考える人って、いるんだ)

日和はそんなことを考える。ぼんやりと歴史の授業で「労働争議」などが昭和の時代で起こっていたことを思い出したからだ。

(もしかしたら天睛さんって発展的な人なのかもしれない)

そんなことを考えて見つめていると、なんですか? と返された。

「なんでもないです!」

日和が慌てて首を振ると天睛はそうですか、といい、それ以上追求はしてこなかった。

「ところで、うまくやっていけそうでしょうか?」

階段に一つ足を掛け、天睛はぽつりと呟いた。その声があまりに聞き取りにくいほど小さいものだったので日和はえ? と聞き返した。

「つまりね、」

階段に足を掛けたまま天睛が振り向いた。階段の電気は廊下のものと比べて更に薄暗く、天睛の顔は陰になってしまっていて表情がよく見えない。振り向いた瞬間階段が軋んでやけにその音が大きく聞こえた。

「あの中でうまくやっていけそうか、ということです」

何故か怖くなって日和は息を呑んだ。

「えっと、ちょっと暗かったし、よくわからなかったです」

日和が躊躇い躊躇い答えると、天睛はふっと笑った。

たぶん天睛からは日和の戸惑っている表情がよく見えるのだろう。そんなことを思った。

「心根の悪い者は居ません。それでも、貴方には嘘をつき続けてほしい」

(そっちのことだったんだ)

日和は思わず天睛をまじまじと見つめた。

 つまり、天睛は日和を案じたのではなく、日和の正体が判明してしまうことのほうを恐れているのだ。その事実が、さっきの突然感じた恐怖に繋がるのだ、日和は瞬間的にそう思った。日和を見ているのではない、ただ、組織が安泰に動くことだけを考えている。その上で聞いているのだ、「大丈夫か?」と。

 それは、日和が今まで直面したことのない緊張だった。

 たとえば、今までは個人の責任なんか問われることは無く、学校という集団の中で守られていた。有象無象の中でただそこに居ればよかった。

 しかし、今は――

 能動的に、組織の中で動くことを要求されている。もしも、自分の存在が組織を駄目にするのならすぐに切り捨てられる――いや、もしかしたら文字通りうつしものに「切り捨てられる」こともありうるのだ。

 日和はそのことを瞬間的に感じ――日和はもちろんそこまで明確にすべてを感じ取っていたわけではなく、直感的にそう感じただけなのであるが――背筋を伸ばした。

「私――いや、僕、がんばりますから」

日和の言葉に天睛は頷いた。

――それが満足そうなものであったかは、矢張り暗くて、日和には見えなかったのだけど。



10

 影鴇は屋敷の庭に出ていった。その後を追いかける。

 噴水までくると、彼は信じられないものを見るように、水面に映った月を眺めた。

 勿論、それは、月を見ているのではなく、何かを思い出しながら水面に眼を向けているからそうみえるだけなのだろう。

 林太郎は、急に動いたために乱れる息を正しながらそんなことを考えた。

 影鴇に一歩近づく。足もとの小石を踏んだのか、じゃり、という音がし、影鴇は驚いたようにこちらを見た。

――いい具合だ。

 声を掛ければ混乱している影鴇は最悪逃げてしまったかもしれなかった。それを考えれば足元の小石の音に気がついてくれてよかったと思う。

 林太郎は唇を一舐めすると影鴇に一歩近づいた。

 そして、林太郎は陰から、二階の電灯が光を投げかける位置に出る。これでようやく影鴇には誰が後を追ってきたのか解かるはずだ。影鴇は持っていた小刀を手早い動きで収め、「林太郎さん」と呟いた。

――この間だけでもう小刀を構えたのか。

さすが忍びだ、と余計なことを考え、林太郎は頷いてみせた。

「何か用ですか」

影鴇は小刀を構えたのを知られたくないようだ、わざと明るく声を発した。――影鴇にはそのようなところがある。親を亡くして以来身寄りが無く一人で居たせいなのかやけに共同体にこだわる。そして、天睛をはじめ、林太郎など屋敷に住むものを家族として思い込もうとしている節がある。つまり、たとえこんな時刻に背後から現れた”家族”に、用心していたとはいえ刀を出してしまったことを悟られたくないのだろう。

 そうして絶対の味方という顔をする。

 影鴇は”家族”を理想化しすぎている。たとえ”家族”であっても、事あらば刀を向け合うことがある――そこまで考え、林太郎は奥歯をかんだ。どうかしている。こんなことを考えに来たのではない。

「どうした。顔色が悪いようだが」

「心配してくれているのですか?」

月明かりの下で小首をかしげる影鴇はぞっとするほど美しい。

 色素の薄い髪はさらりと揺れて、怪しい陰影を顔に投げる。その顔は月の光の下では陶器のように冷たく澄んで大きく黒い眼は水を張ったように潤んでいる。

――俺にそんな趣味は無い。

林太郎は軽く頭を振った。

「珍しいですね」

少し嬉しさを含んだ声が耳に届く。林太郎が見ると、影鴇は月を見上げて言った。

「林太郎さんが他人を心配するなんて」

「俺だって、目の前で具合悪そうな者がいても無視できないさ」

憮然としていうと、影鴇は低く笑った。

「有難う御座います。――ねぇ、林太郎さん、聞いてくれますか」

「何だ」

普段影鴇は林太郎に相談事などしない。林太郎は何も聞こうとはしないし、影鴇もそんな林太郎にわざわざ言おうとはしない。だから、これは偶然が重なり合って起こったことなのだ。

 林太郎はなぜか息を呑む。

「彼は――誰なのでしょう」

水音が――

波紋を広げた気がした。気のせいだったかもしれない。少なくとも、それは林太郎に見える位置ではないし、光も届いていない。だから、それは幻だったのかもしれないし、それともただの幻聴だったのかもしれない。林太郎の背筋を汗が一つ、流れる。それは二つの意味を持っている。

 一つは、安堵。影鴇が彼女を”彼”と形容したことへの安堵だった。少なくとも、影鴇は彼女を”女ではないか?”と疑ってはいない。

 そして、もう一つは、疑念だった。なぜ、そんなことをいいだす? 何かに気づいたのか?

「誰、とは」

林太郎は嘘が付けない、だからここが暗くてよかったと思っている。ああ、でも屋敷から投げかけられる光で丸見えだろうか? 

 しかし影鴇は林太郎のそんな様子など疑わず自分の感情にしか興味が無いように、呟いた。

「少なくともね、この帝都の人間じゃないです。だって、天睛さんと僕とで、この

帝都は隈なく探したんだから」

林太郎は心の中で舌打ちをした。

――天睛、お前一番の身内に疑われているじゃないか。

「……ならば、帝都以外の者ではないのか」

とりあえず抵抗を試みる。

「それもありえないのです。先生のカラクリは帝都を範囲とします。」

ばっと顔をあげた影鴇の目は爛々としている。

「地方の人――だとしても、自分から名乗り出てくるでしょうか? 帝都にわざわざ来てまで? そもそも、ここ以外にうつしものが現れている場所はあるのでしょうか? それなら、力の発現は――」

影鴇の言うことは専門的に過ぎて林太郎には理解できなかった。しかも、最後は林太郎に尋ねるというよりも自分に尋ねるようになってきている。林太郎は段々と苛苛としてきた。

 だから、言ったのだ。

「天睛に聞けばいい」

――林太郎は嘘が苦手なのだ。或いは、ここまで言ってしまうことが、むしろ林太郎の気質にそぐうもので、つまり、結局疑われにくくなる。

 林太郎はそこまではとっさに考えられないが、頭の片隅で自分の行動の言い訳を考えていた。

 影鴇はそれもそうですね、と矢張り青い顔のまま頷く。

 それでもどこか吹っ切れたような顔で影鴇は頷いた。

「――もう早く寝ろ」

忠告をし、踵を返す。

「……はい」

どこか、嬉しさを含む声音を無視して館に戻る。

 館へ戻る道で、林太郎の目の前を大きな影がふさいだ。影は、のっそりと動いた。光の当たる場所まで出て、それが元兼だとわかる。

「あ……」

礼をすると元兼も頷く。

元兼は今まで何をしていたのか、どこにいたのかまったく不明だ。無亮よりも大きな体で、帝都の中に紛れればかなり目立つはずだがそれでも音に聞くことはないので、何か仔細ある人間なのかもしれない。

ただ、剣の腕だけはこの集団の中の誰よりも抜きん出ている。

――林太郎が興味があるのもそれだけで、いつか真剣勝負をしたいと思っている。

とはいえ、元兼はあまり喋らず何を考えているかわからないので頼みにくいのだが。林太郎も今まで頼んだことはなかった。

「失礼」

林太郎の横を通りすぎていく。それだけで圧力のようなものを感じ林太郎は首をすくめた。その序に思い出す。

 天睛から日和の稽古を頼まれていたことを。いや、正しくは型を教え実践で誤魔化せる程度まで仕立てろということなのだろうが。確かに、日和が刀を持たずにうつしものを倒したことは不可解だ……異様であり、彼らの興味を嫌が応にも煽るに違いない。それは少なくとも避けたいということなのだろう。あくまでも、”刀を使いうつしものを倒しているように見せかけたい”……意味はわかる。理由もわかる。それを行わなければならないのが自分であることだけが納得できない。しかし、それも”仕事”だ。林太郎は湧き出る愚痴を頭から追いやった。そして、急に林太郎は時間と場所を指定していなかったことを思い出し、首を鳴らすと日和に宛がわれた部屋へ向かった。

 この時刻に女性の部屋を訪れるのは気が引けるが、扉越しに時間と場所だけを告げれば大丈夫だろう――そう

思い、館への扉をくぐった。


11

 初日の夜、もちろん電波が通じるはずはないけれど、電池のまだ残っている携帯電話をぼんやりと眺めていた。

 夜になり、一人になってベッドにもぐりこむと急に寂しくなってしまった日和にとって唯一気持ちが紛れるものが携帯電話だった。

 過去友人から来たメールなどを眺める。その返事をいちいち見返しながら、日和は考えていた。

(もっとちゃんと丁寧に書けばよかった)

 例えば、依子から来た「明日の小テストの範囲なんだっけ!?」というメールには、「単語帳三十五ページだよ」だけじゃなく、もっといろんなことを書けばよかった。

 今になって、依子に話したいことがたくさんある。

 色々見返しているとなんだか悲しくなってしまった。

 今頃皆はどうしているだろうか、自分のことをみんな心配しているだろうか?

 依子などは責任を感じてしまっているかもしれない。

 ふと、母からの「今日は何時に帰るの? 心配だから早く帰ってきなさい」

 というメールが眼に入って、不覚にも泣いてしまった。

 日付は一週間前の日曜。母は休みで、日和は依子とどこかへ出かけていたのだ。

 メールの返信はされていない。日和は心の中で、今、返信を送る。「早く帰りたいよ」、と。

 今まで意識したことはなかったが、会えなくなるとこんなにも悲しい。母は、父は、自分のことを心配しているだろうか。母は自分のことを責めるかもしれない――父は、もしかしたら喜ぶかもしれないけど(日和の父は超常現象を研究している、と日和は聞いている)、いや、それでも心配でおろおろしているだろう。

 何故か色々な事を思い出した。例えば、日曜日母とお勝手に立ったこと、その時の母の笑顔とか、父が小さな日和をひざに乗せて不思議な話をたくさんしてくれたこと、日和が喜ぶと父も嬉しそうな顔をしたこととか――

 それは当たり前にずっと続くと思っていたから、忙しくなり始めた毎日の中で記憶の中に埋もれてしまっていた。

 それでも、こんな瞬間にふと浮かび上がってきて日和を悲しくさせた。

失くしてしまってから気づくことがある――そんな当たり前のことを初めて日和は

痛感したのだ。

――会いたい。

泣きながらそんなことを考え、嗅ぎ慣れない布団の匂いに包まれて丸まっていると、それでも疲れはあったのかそのうち眠ってしまっていたらしい。


だから、次の日少し寝坊したって仕方がないことなのだ。


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