第一章 一~五
第一章
1
闇夜に紛れて現れる”うつしもの”は、刀で切りつけると、陽炎のような体躯から、ちゃんと血を流し、切った感触を与えて果て、消える。しかしこの”うつしもの”は普通の刀、普通の人間では切れないのだ。ただの人間が刀を振るえば、うつしものは怯むだけで攻撃を続ける。だから、一度出現したうつしものを消滅させるためには”力”を持った林太郎のような人間が必要なのだ。
林太郎たちが終結する前までは、うつしものは夜毎、どこからかその姿を現し人を襲った。
幸いなことに、うつしものは毎夜現れるわけではなく、不定期に増えていった。だから、林太郎たち人間が反撃を始めたときでもまだ手遅れにはならなかった。
とにかく、どんな名刀でも倒れない”うつしもの”は林太郎達”力”を持つ人間が刀を振るうとその体から血を噴出し、倒れる。そして、さらさらと消える。
――”うつしもの”とは何なのだろうか?
そう思わないことも無いが、林太郎はとりあえずは、目の前の”うつしもの”を切ることしか興味がない。
最初はそれに戸惑ったが、段々それも慣れてきた。
そして、その日もいつものようにあらわれたうつしものを退治しに来た日だった。いつもと何も変わらず、無亮とうつしものが現れた場所に来た林太郎は、いつものようにうつしものを退治し、慣れた手つきで血を払い、刀を鞘に収めたところだった。
帰ろうとした瞬間、ドサ、とあらぬ方向から何かが落ちるような音がした。
(……?)
――まだ残りがいたのか。
そう考えて、少し身構えた。うつしものはあまり気配を感じさせない。ただ、うつしものが現れ、その場所に向かうときは数だけを言われる。
――しかし、もう全部倒したはずだが?
林太郎は思わず首を傾げた。
音の出所は、どうやら左手にある路地裏のような狭い空間のようだった。街灯の光も届かない、まさしく闇の世界。
林太郎は警戒し、刀を構えたままその路地を覗く――
すると、そこには。
「!……女?」
そう、そこには女性の白い肌が浮かび上がっていた。
「この辺りの人間か?」
つぶやいてみるが、女性からは返答がない。どうやら気を失っているようだった。
「……だとしたら、なぜこんな時間に? うつしものが出現しているときに出歩いたりしたんだ……?」
疑問を口にしてみるが、人間であれば助けないわけにはいかない。
「女は苦手なんだが」
しかし、自分が助けないせいで死んでしまったとなれば寝覚めが悪い。
「おい」
とりあえず傍で声をかけると、う、と小さく呻いた。
死んではいないようだ、と安心する。
「お前、なんでこんなとこにいる? 怪我は」
相変わらず呻く女の後ろに、林太郎はありえないものを見た。
うつしものが静かに、だが確かにずぶずぶと消滅していく。
「お前……これは……?」
声がかすれる。
うつしものを倒せるのは”力”を持つ人間だけ――
女が怪我をしているという可能性すら忘れて林太郎は女の肩を揺さぶった。
「う、……!」
女が、ばっ!と顔を上げた。その目は脅えたように見開かれている。
女は林太郎をうつしものだと勘違いしたらしく、倒そうと思ったのだろう。しかし、この”力”は残念ながら、人間には効果がなく、それに気づいたのか、気づいてないのか女はさらに混乱したように両手を翳して呻く。
「馬鹿、人間には効かない!」
その腕を掴んで怒鳴るといやいやをするように首を振った。
(うつしものに襲われた? しかしこの反応は――)
不可解だ。
それに、こんな時間に外にいた理由がわからない。
「おい、女――」
呼びかけると、女は意識を手放した。
「お、おい!!」
今度は慌てて呼びかけても、女は目覚めない。
林太郎は舌打ちをした。
このまま、能力者を放っておくわけにはいかない。それに、この”力”――林太郎は違和感を覚えていた。それを確かめるためにも、この女性をここに置いていくことはできない――
林太郎は迷ったけれど女性を担ぎ上げた。
とりあえず、処置は天睛に任せよう――
「オイ! 無亮! 先に戻っているぞ!」
この区画のどこかにいるであろう無亮に呼びかける。
いまだ交戦中らしい無亮は慌てた声で制止するがそんなことを気にかけていられない。
女を抱え上げ、館への道を、闇の中、走った。
丁度いいことに、まだ皆出払っているのか館の中には誰もいない。林太郎は誰にも見られなかったことにほっとした。何故か、見られるのが躊躇われた。何か重大な秘密を抱え込んだ気持ちだった。
天睛の部屋に急いで向かうと、天睛はその扉から出てきたところだった。
「林太郎? どうしたのです、うつしものは――」
「天睛! それどころじゃない。こいつを見てくれ」
あくまでのんびりとした天睛に担いでいた女性を指す。
天睛はにわかに顔色を変えた。
「ム。……どうしたのです、その娘は?」
「わからない。ただ――能力者だ」
思わず無意識に声を潜めた林太郎の言葉に天睛はさすがに驚いたように目を見開いた。
「そうですか……とりあえず、こちらの部屋へ」
天睛は、彼の部屋の隣、使われていない部屋の扉を開くと、中へと入っていった。電気をつけるジジジという音。林太郎は急いで部屋に入った。そしてベッドに寝かせたところで、改めて女の姿を見ると、林太郎はびっくりした。
彼女はまだ少女で、そして何よりもその格好に違和感があったためである。
天睛もそれに気づいたらしく、眉をしかめた。しかしそれも一瞬のことですぐに林太郎に向き直った。
「それで……なぜ能力者だとわかったのです?」
「簡単だ。力を使った、うつしものを倒していた。それ以上に証拠なんてあるはずがない」
「そうですか……」
天睛はなおも何か悩んでいる。彼は林太郎の混乱とはまったく別の問題で頭を抱えているようだった。林太郎はさっき感じた違和感について問おうとしたけれど、それよりも先に天睛が口を開いた。
「林太郎さんは本日は零地点ですよね」
「ああ」
「……」
「何だ」
相変わらず何かを考え考え言葉を発する天睛に苛立ち、林太郎は乱暴に先を急かした。天睛はそれでも、何かを考え込むように一言一言言葉を刻んだ。
「林太郎さん、私はね、あなた達能力者を探すとき、手落ちがないように東亰内は隈なく探したのですよ」
「ああ、そう聞いている」
ある者はそうやって誘われたり、うつしものに襲われているときに覚醒し、天睛の館に集ったのだ。
何故か天睛には能力者の位置がわかった。
「だからね、おかしいんですよ」
「何がだ」
「つまり――まだ、能力者が残っていることはありえない」
「……漏れがあったのではないか?」
林太郎の言葉に天睛はそんなはずはないのですが、と首を傾げた。
「それに、もう一つあります。彼女の装束ですが――」
「……ああ」
天睛の言葉に改めて女性を見た。よく見れば、女性はまだあどけない顔立ちで、林太郎よりも年下に思えた。髪を周りの女性がしているように結っていないため、なぜか大人の女性に見えたのかもしれない。
まるで海兵のような装束の下に、太ももまでの袴。改めてみないまでも、少女の格好は常軌を逸していた。じっと不気味に見ていた林太郎に天睛が声をかける。
「おかしいですよね。東亰にそのような人間がいればすぐ人の口に上るのではないですか」
確かに、と林太郎は納得した。太股までの袴。
このような格好の女人がいたらすぐに人の口に上るだろう。肌を見せるなど、ありえない。異国ではもしかしたらそんなこともあるかもしれないが、それでも絵や瓦版で見る絵はここまで肌を見せていない。よもや未開の地の? とも考えてみたが、どう見ても日本人だ。
「それにしても貴方は――運ぶ際に気がつかなかったのですか?」
「……女人の格好など注視しないので」
林太郎の言葉に天睛は、呆れたような顔で少し、笑んだ。
2
高校の近所に古い洋館があるって知ったのは高校の入学式で。
隣の席にいた子が意味ありげにねぇねぇ、と耳打ちしてきた。
その子はそういう廃墟、とか超常現象、が好きな子みたいで、随分興奮していたのを覚えている。
その時はそれで聞き流したけれど、その洋館が今度はクラス、いや、学年、いや、学校全体の話題になったのは5月のこと。
その噂によると、洋館の周りに人の身長以上のぬるりとした人影があったとか、刀を振り回す男の人がいたとか。
とにかく、そういった話でクラス中が盛り上がっていたのだ。
それはもう、毎日毎日。
昨日は友だちの友だちがぬるりとした人影を見て、今日は弟の後輩が刀を振り回している人影を見る……
毎日繰り返される噂に、私は――
「ねぇねぇ、知ってる? 今度はさ……」
「ああ~~! もう、うんざり!」
また”新しい目撃情報”を運んできた依子に叫ぶと、依子は不思議そうに私を見た。
「なになに、どしたの?」
「どしたのもなにも、何その噂! 誰が見たかもわからないのに、どうしてすぐに信じちゃうの!? 見た人をすぐに連れてきてよ!」
「だーから、それは友だちの友だちが見たから……」
「友だちの友だちって誰!?」
思わず頭を抱えた私に、依子は笑った。
「あはは、相変わらず真面目だよねぇ」
むすっと顔をあげると、クラスメイトがざわざわと私たちを見ていた。
「なんでもないで~す!」
依子が声をあげると、皆なーんだ、とそれぞれの話に戻っていく。「また何か新しい情報かと思った!」そんな言葉が聞こえて来てうんざりとしてしまう。
「ほらほら、ねぇもう機嫌なおしてよ~! 今度のは今までのマユツバな噂と違って、リクエストどおり! ちゃんと、見た人をここまでつれてこれるからね!」
「本当でしょうね?」
「うん! 今度こそ、本当だよ」
「なら、いいけど」
「日和って本当に真面目、だよねぇ」
「ごめんね、そういうの信じることができないんだ」
「そうか、日和のシュツジはそうだったね~」
ニヤニヤと笑う依子に、日和はふざけて頭をこづく真似をしてみせた。
もともと、日和は「不思議なもの」が嫌いだ。それは依子の言うように”シュツジ”が関係しているのだろうけど……とにかく、日和はそんな曖昧な物、この世に無いと信じている。見たことがものを信じることは出来ない。
いまや科学は進歩して不可思議な現象と言うのはすべて解明されているに決まっている、と日和は思っている。それは父の影響が多分にあると思っている。
日和の父は寧ろ、”不思議なもの”にどっぷりとつかっており、大学でそういう研究をしている。そんなあるかどうかわからないものに振り回されている父が愚かに見えて、それから日和は”不思議なもの”の存在を認めることが出来なくなった。
そんなものに振り回されるなんて馬鹿げている。
大体の”怪奇現象”は説明することが出来る。
……それに、日和を何よりもいらだたせるのは、説明できる怪奇現象というだけではなく、すべての目撃談が「人づての話が多い」ということである。
つまり、「誰々君の弟が見た」とか、「隣のクラスの女子が見た」という、本人から聞いた例が今までないということだ。
(だから、些細な事実も大げさになって伝わっているんじゃない?)
そう考えると、最初は話をあわせることが出来ていても、段々毎日毎日同じ話を聞かされるのは苦痛でしかなくなってきていたのだ。
三日前、あまり噂話に乗り気ではない日和はその理由を聞かれ、依子と語り合った。夕暮れの教室で、周りのクラスメイトがいなくなっても、語り合った。依子が提示する噂話の内容を日和はことごとく粉砕した。「刀を振り回してる男性は、」「剣道とかの鍛錬してただけなんじゃない?」「ぬるりとした表面の」「暗い中でどうしてぬるりとしてたってわかるの?」「影のような」「影じゃないの?」
日和としても、高校に来て初めて出来た友達をくだらない噂話でなくしたくなかった。しかし、話し合いは平行線をたどって、依子は最後に熱く熱く拳を握りしめたのだった。
「わかった! じゃあ日和が納得できる噂話を探してくるから! 待ってて!」
(依子はいい子なんだけどちょっとずれてる気がする)日和がその話を信じないのはそれだけではなく、そもそも怪異そのものを信用しないということからなのであるが、依子はそれをうまく理解できないようなのだ。
日和もそのことはうまく説明できない。何せ、いまやこの噂話はこの春日高校に蔓延しており、いまや挨拶の代わりに新しい情報を交換するくらいなのだ。この噂を信じず、ましてや疑っているクラスメイトがいるなんて夢にも思わないのだろう。
日和がこっそりと溜息をついたことにも気づかず依子はうれしそうに情報を提示する。
「なんと! 同じクラスの柴又さんが昨日の夜塾の帰りにみたそうで~す!」
柴又さん。
日和は記憶をめぐらせる。
柴又祐希。めがねを掛けたおとなしそうな女子。
(嘘をつくとは思えない。でも、もしかしたら、目立つために嘘をついたのかも……)
そこまで考えて日和は自分に嫌気が差した。
信じたくないあまり、あまり会話したことのないクラスメイトのほうを疑う自分……
(やだ、私、なんか嫌な子になってる……そんなに嫌な人間だったっけ……)
いや、十五年間、日和は目立ちはしなかったけど、なるべく嘘はつかないように、人を傷つけないように、普通に生きてきた。
「今日は休んでるから、話を聞けないんだけどねー。明日こそ!」
依子が無邪気に言っている。だけど、日和はそれを見ながらぼんやりと考え込んだ。
(ふぅ、だめだ、私……しっかりしないと……ん?)
その瞬間すばらしい閃きが頭をよぎった。未だ自分の反応を探るように顔を覗き込む依子に言う。
「そうだ! 私が自分で確かめてくる!」
いつも変なことが起こるわけじゃないから、と必死で止めた依子に大丈夫、何もなかったらすぐに帰るから、とそんなやり取りを何度もしていたら放課後になり、家に帰った。
怪異が起こる(と噂されている)のは、夜。それまでに必要そうなものを集める。懐中電灯とデジカメ。そこまで用意して、それだけでいいか、ととりあえず早めの夕飯を食べることにした。
日和の家は両親共働きで夕飯は一人で食べるのが常である。
いつも母が出かける前に作っていく夕飯をテレビなどを見ながら食べる。
その後風呂などに入った後、漫画など読んでごろごろしている間に日和は眠ってしまう。
どうやらその後に両親は帰ってきているらしい。(父親は帰ってきているかわからない――時間をあまり気にしない人だ)
両親が帰ってくる時間まで起きていることはほとんど無い。
それも――慣れたことだ。
日和はレンジの中にあったおかずを見る。ハンバーグ。日和の好物だ。
母は仕事で忙しい人だけれど、ちゃんと日和のことも考えてはいるのだ。
なぜかそんなことを考えながら、いつもぼんやりと見る夕方のニュースを見ながら夕飯を食べた。
夕飯を食べ終えて、あの屋敷へと向かった。
(あ、よく考えたら制服のまま着ちゃった……補導とか大丈夫だよね?)
辺りを見回しても、あの館は少し路地を入ったところにあるためか誰もいない。外灯が照らしているはずなのだけれど、何故かこの道はいつも暗い。うっそうと茂った木が表の通りからの光を遮断しているようだった。
風が唸って、日和は身をすくませる。
(だ、大丈夫大丈夫……)
言い聞かせて歩道を進む。
ひたひたと足音が聞こえる。自分のもののはずなのに、何故か反響しているように聞こえた。
(それにしても、本当にこの辺りって人がいないんだなぁ……)
確かに、この道の先にはあの館しかない。また、この先の団地に通り抜ける抜け道であるためにたまに利用する人間もいるらしいが、今は塾の終わる時間でもなく中途半端な時間のためかそういう人影も見当たらない。ジジジ、という音がして上を向くと大きなカナブンが外灯に戯れていた。辺りを見回すと自分の影が真っ白な壁に、やけに大きく映って見えた。
キンと空気が澄んで、呼吸音すらうるさいくらいだ。壁に囲まれた薄暗い路地。壁の向こうには誰かいるはずなのに誰もいないように感じられた。それに、自分が来た道には大通りも繋がっていて、車も通っていたはずなのだが、今はそんな音は少しも聞こえなかった。
(やだ……なんか気味悪い……早く行ってみて今日はもう帰ろう……)
(こんな気味悪い場所なら確かに”何かを見てしまっても”不思議はないかも……)
……そう考えながら、日和は足早に館の門にたどり着いた。
白い壁はこの館のものだったらしいが、そうであれば相当に広い館だと考えらる。何故かその反対側の壁はこの奥にも更に続いていて、何があるのか全く検討がつかなかった。
話によると明治時代から建っているらしい大きい屋敷は、確かにこうしてみると不気味で、お化けが出てもおかしくないように見える。屋敷の表面は蔦が絡まり、あちこち黒く変色してしまっている。またある場所では風化してしまったのだろうか、部屋の内部を晒している。夜風に、部屋の中のカーテンがはためくのが見えた。
(それにしても、古い館……どうして取り壊しや建替えの話が持ち上がらないんだろう?)
廃墟となってしまったのなら、取り壊されるはずなのだが、何故かこの館はその姿を闇夜に晒し続けていた。
(やっぱりやめておけばよかった、かも……)
何の噂がなくても怖い。物陰から何が飛び出してきても不思議ではない。そう考えると、あながちあの噂は全く根拠のない噂ではないのかもしれない。
ザザザ……
強風に煽られて、木が揺れる。
「ひっ……!」
その瞬間、白い壁に映った木の葉が一面に揺れた。それは刀を振りかざしている男性に見えなくもない。
何故か夏も近いというのに、寒気がしてきた。
「……ど、どうしよう……」
思わず来た道を振り返る。
(でも……)
不意にここにきた目的を思い出した。
このまま依子の話に乗ることが出来ないのも、一生懸命話す依子に悪い。噂はいずれ消えてしまうかもしれない。しかし、真面目な日和にとってはもうこれ以上依子に対して誤魔化しながら話をするのはもう嫌だった。
(よし……)
覚悟を決めると、日和は門に手を掛けた。
「……っ!」
と、日和は手に静電気が走るのを感じた。
(なんでこんな季節に……?)
その時だった。
もやのような白い霧が立ち込め始めた。
(こ、これなんだろう……)
デジタルカメラを取り出すと、構え、そして一歩一歩敷地に入っていく。
庭が見えた。
広い庭で、真ん中に噴水があった。住人がいる時は整えられていたのだろうか、今は伸び放題葉の茂った背の低い木が整然と並んでいた。その隙間を埋めるように生える、夏草のむっとする匂い。
日和は夏草を掻き分けて、一歩進んだ。
進んだ瞬間羽虫が一斉に闇夜に羽ばたいていく。
その羽虫の行方を目で追って――そこで、ありえないものを見た。
噴水のある辺りにぼや、っと黒い影がみえたような気がした。いくら遠いからといってどう見積もっても二メートルはある。異様に大きな黒いもやのようなもの。その表面はぬるりと光っている。
日和の胸がどきんと高鳴った。
見た。見てしまった! あれが噂の”お化け”……
(まさか、本当にいるなんて……!)
どくんどくんと心臓はうるさく耳元で鳴るが(こんなに心臓の音がうるさいとは知らなかった)、向こうは日和に気付いていないようだった。
巨大な体をくねらせて何かをしているようだった。
日和はデジタルカメラを構えて――
シャッターを押した。
その瞬間、白い光が目の前を覆う。
「――え!?」
だけど、その光はいつまで経っても止むことはなかった。
画面を覗き込むと、日付がすさまじい速度でさかのぼっていくのが見えた。
「え、ど、どうしたの!?」
慌ててあたりを見回すと、さっきの影がこちらに向かってきているところだった。
心なしか、さっきよりもはっきりと見える。
「……!!!」
体を動かそうとするのに、何故か電流が走ったときのように痺れてしまって動かすことが出来なかった。
日和は拒否をするように首を思いっきり振って……
それから、何の意味もないと知りながらも、それでも何も出来なくて、シャッターを押した。
落ちていく。
日和はなぜか、屋敷の入り口でどこかに落ちていく感覚を味わった。
*
落ちていく。
目が覚めると、路地だった。
どうしてこんな場所で?
とぼんやりと考える。
そういえば、どうしてこんなところにいるんだっけ?
まだ体は痺れているようだけど……
痺れて?
なんで、痺れているんだろう。
ぼんやり考える。
(アレを追ってきたのに……)
アレ?
自問自答するけれど、答えがわからない。
そんな風に意識を混濁させるほどの電気が”彼女”の体を流れたのだ。
「……アー」
言葉ではないような、そう、まるで赤ん坊のような言葉を発して振り向いたのは、さっき(さっき? と頭で自問した)見た影だった。
それが先ほどと違うのは実態を持っているということだった。
(やっぱりいた! め、メール! メールしないと……!)
慌てて携帯電話を探すけれど、見つからない。
影はにたりと笑って手を振り上げた。
ああ、殺される、とぼんやりとした頭で考えた。
あの手が、止まればいいのに。
そんなことを考える。
「や、やめて……!」
思わず手を振り上げると、ぱりっと体の表面が鳴る。
「?!」
それはコンセントを間違えてさしたとき体に電気が通るような不快な感じだった。
怖い。よくわからない。消えて。痛い。
いろんな感情がぐるぐるとめぐる。それと同時に電気が体を熱く走る。
「……!」
その不快感に目をぎゅっと閉じる。
そして、いつまでたっても拳が自分を直撃しないことに不審を感じ目を開くと、そこにはあのぬめぬめした巨体が沈んでいく姿が見えた。
「あ……わた、し……」
それを見て安堵したのか、
「わたし……」
意識を手放した。
大きな手に揺さぶられて目を開く。
……視界がぼやけている。
何があったのだろう?
顔を擦る。異常は……見当たらない。
だから、自分の意識がぼやけているだけなんだと思った。
「目は覚めたか?」
ぼやけた視界の向こうで誰かが口を開いた。
「はい、あの、貴方は誰?」
「私は……」
男は軍服のようなものを身に纏っている。
*
もう一度目を覚まして、そして全てが夢だったのだ、と思った。きっとそうで、また代わり映えのしない毎日で、学校に言ったら依子がいて、そうしたら何も起きなかったと笑おう。
そこまで考えてから身を起こし、部屋を見渡す。
しかし、期待とは裏腹にそこはなぜか自分の部屋ではなかった。
豪奢なベッド、ごてごてとした装飾と、壁紙。レースのシーツ。
日和は溜息を吐いた。
そして、自分の置かれた境遇を思い出そうとした。その時。
「あ、もしかして丁度お目覚めですか?」
柔らかな声音の、聞きなれない男性の声が聞こえてきた。
「え、あ、貴方は……?」
男性は慌てる日和を全く意に介さず、花瓶をテーブルの上に置いた。
そして、花の向きを整える。
「よく眠っていましたね……もう気持ちは落ち着いたでしょうか?」
(誰……?)
メガネの男の人。
頭の中には誘拐、拉致、ストーカー、という言葉がぐるぐると渦巻いている。
落ち着いた薄い紅色の着物を着て、長い髪を横に流している。眼鏡は見たことのないような形をしている。優しそうな雰囲気だけれど、日和は思わず身構えた。
……俯くと男はにこりと笑う。
「大丈夫なようですね。それでは、ご挨拶させていただいてもよろしいでしょうか? お嬢さん」
日和が不審を感じながらも頷くと、男の人はベッドサイドの椅子に優雅な所作で腰を落ち着け、もう一度日和に笑って見せると口を開いた。
「申し送れました。私は夏野の館のものです。夏野天睛と申します」
「夏野の館?」
館。その言葉に急に日和は街の館のことを思い出した。
「え、もしかしてあの館?」
「そうでしょうね、”あの館”で間違いないでしょう。この辺りには他に館はありませんから」
男性はにこにこと笑っている。
「……人が住んでいたんですか!」
「ええ……」
男は不思議そうに頷く。
「だ、だってあんな外見なのに……」
「あんな外見」
男はきょとんと日和を見ると、吹き出した。
「いやですね、確かに手入れは行き届いてないかもしれないですけど。人が住まないような場所ではないですよ」
「え!? だって、壁だって穴が開いて……」
男はそれを聞くと笑みを引っ込めて真剣な面持ちで日和を覗き込んだ。
「なんですって? それはどこです。すぐに修繕しなくては。」
「……」
その言葉に今度は日和が面を食らってしまった。
(からかっているのかな……。それとも……?)
日和は、狐が化けて襤褸小屋を屋敷だと惑わして村人を引き込む……という昔話を思い出していた。
日和はその話を聞いてその村人を、楽しそうに話す父に対して、「そんなのありえない、普通すぐにわかるでしょう?」といったけれど、この状況は……
日和は思わず自分の頬を抓った。痛い。
とりあえず、夢ではないらしい。
「どうしました?」
さすがに不思議そうな男性に今考えたことを話すと、男性は微笑んだ。
「ふふ、それはとっても面白いですけど。でも、このご時世そんな迷信を信じている人はいませんよ」
「あ、あはは、そうですよね……!」
いつもとは逆の立場になってしまった日和は何故か恥ずかしくなってしまった。男性はそんな日和を優しく見つめている。日和は居心地の悪さを感じて、話を変えた。
「えっと……とにかく、この館……とっても古いですよね?」
さすがに穴が開いているということをはっきり、もう一度言う気にはなれなかった。
遠まわしに言うと男は可笑しそうにうなずいた。
「随分はっきり言う方ですね。確かに屋敷はちょっと古びていますがこのとおり、とりあえず夜露は凌げますよ」
もちろん、妖怪も出ません、と言うと男は笑った。
日和もついつられて愛想笑いをしてしまった。
(だとしたら、本当に穴に気がついていないのかな? あんなに大きかったのに? 遠くから見ただけで、わかったのに?)
「それにしても、穴とは……本当にどちらです? 規模は大きいのですか、小さいのですか」
(……)
真剣な様子の男性に、日和はなんだか気味が悪くなってきた。あんなに明らかにあいているのに、気がつかないとはどういうことだろう。
「えっと……かなり、大きいですけど」
「本当ですか。……また無亮の仕業でしょうか」
「むりょう?」
日和は聞き返すが、男の耳には届いていないようだ。男は何やらぶつぶつ言ってから
(たぶんお金の成る木ではないのですよ、とかいったことだった気がする)日和を見て再度微笑んだ。
「仮にも爵位のある人間の屋敷です。穴なんて開いていたら笑われますよね」
男は日和を笑わせようと言ったらしいが、日和は首を傾げてしまった。
(しゃくい。しゃくい……)
(どこかで聞いたことのある気がするんだけど、なんだったっけ……)
記憶を探る日和を男が始めて不審そうな目で見ていることに気がついて日和はにこっと笑って見せた。
「まだ記憶が曖昧なんですね……少し聞きたいことがあるんですけど、大丈夫でしょうか?」
日和は慌てて頷く。
とにかくどうやらあの屋敷の主人はこの人であるらしい。そして、”夏野”という名前らしいということはどうにかわかった。
それならば不法侵入した日和に聞きたいことは山ほどあるだろう。
学校のことが気になったが、とりあえずはこの男の言うことを聞くことにした。
「その前に、林太郎にも同席してもらいましょう」
そう言って男が出て行ってから、日和はゆっくりと床に下りてみた。赤いカーペットはちょっとくたびれているがほとんど汚れも無く、あの屋敷の中とは到底思えない。
心なしか壁も、想像していたより白っぽい気がする。
日の光の中で見るとこんなに印象が違うものか、と思いながら日和は何気なく窓際に寄った。
その時、目に飛び込んできた光景――
日和は絶句し、後ずさり、もう一度ベッドに座り込んでしまった。
顔色は蒼白で、瞬きを繰り返す。口はなにかを言葉にしようと動こうとする。
しかし、なかなか思うようにいかないようで、日和は一度唾を飲むとかすれた声で呟いた。
「どうして……」
目の前に広がる光景が信じられなかった。
庭に広がる緑、飛び回る小鳥たち。
そして、向こうに広がるあばら家、それほど高い建物はひとつもなく遠くには修学旅行で見るような、日本の古い城が臨める。
「な、何これ……」
もう一度立ち上がる。
昨日歩いてきた道は舗装されておらす、土がむき出しになっている。
その上に時代劇で見るような人力車が止まっている。その前には煙草を(それも紙包みのものではなく、煙管だったのだが)吹かして男が笑っている。
そして往来をゆくのは、制服姿の者やスーツの者ではなく、着物や、歴史の資料集などでみるようなどこかアンバランスな洋装の人間たちだった。
「あはは……、何これ」
あまりに理解できないことが起こると、人間というのは笑ってしまうのかもしれない。
力なく笑う日和。
(もしかしたら私が気を失っている間に時代を過去に戻そうといってビルを壊し、コンクリートを剥がし、人々は服装を改めたのかもしれない……)
そんな非現実的なことを考えて、否定して、日和は呆然とした。
しかし、それなら、もしかしたら、館についてかみ合わない会話も、天睛の態度も、理解できる。
(あ、もしかして……!)
その時、さっき夏野との会話に出てきた不思議な言葉に思い当たった。
(”しゃくい”……ってきっと”爵位”っていう意味だ!)
それなら聞いたことがある。大昔にあった階級。
そう、それこそ、明治、大正時代にあった、階級。
説明がつく。説明がついてしまうのだ。
「もしかして……タイムスリップ?」
口にしてみたら、それはまったく違う気もしたし、正解のような気もした。
頭がついていかない。その時、日和の耳に誰かの話し声が聞こえ、なんとなく日和はベッドに戻った。
3
先に帰った林太郎に不満そうな無亮以外は特に何の変わりもなく、お開きとなった。
女性のことは天睛に口止めされていた。
曰く、考えても仕方のない、とのことである。確かにその通りなので林太郎には異論がなかった。天睛のほうでうまく対処してくれるだろう。林太郎はそう考えて、違和感を覚えていたものの、半ばそんなことは忘れていた。
しかし、その翌日、庭でいつものように鍛錬をしていると天睛が呼びにきた。
「目が覚めましたよ」
その意味を少し考え、それから昨日拾った少女のことだと分かった。
「俺には関係ない」
鍛錬の続きをしようとする林太郎に天睛は首を振る。
「林太郎君にお願いしたいこともあるのです。さぁ、こっちに来てください」
その言葉に汗を拭いて、林太郎は昨日の部屋へと向かった。天睛には逆らうことが出来ないのである。
目を覚ました少女は不安そうに辺りを細かく注視していた。
天睛が後ろから入ってきて扉を閉める。
林太郎と天睛、二人に目をやるとさらに脅えたように身をすくませた。
「お待たせして申し訳ありません」
天睛の言葉に目を瞬かせてから、少女は答える。
「はい……大丈夫、です」
その声はか細く、今にも消え入りそうだ。
天睛は小さく首を傾げると、ぎし、と音をさせ天睛は寝台の横の椅子に座った。林太郎は所在無く、その後ろに立つ。林太郎を見て、少女はなぜか脅えたように身を引きつらせた。
「……」
「あぁ、林太郎が何かしましたか」
「ば……」
馬鹿野郎、といおうとしたのに、肝心の少女が身を震わせては説得力もない。
「……」
「ああ、大丈夫です。この男はこのように顔は厳しいですが、それはあくまで彼の内心が顔に表れてるだけです。ほら、いるでしょう? 自分に厳しく、他人に厳しい。そういうのが顔に出ちゃっているんですね。大丈夫、悪人ではないですし」
がくりと肩を落とす林太郎とは逆に、天睛はにこにこと続ける。
「お前、本当によく喋る男だよな」
「あはは、口から先に生まれたとよく言われます。――そんなことより、林太郎、ほら、笑って」
振り向かれ、頬を引っ張られる。
「やめろ!」
振り払うと、天睛はにこやかな表情のまま少女に話しかけていた。
「全く、困った反抗期です」
そのやり取りを見てか、少女がクスリと笑う。それだけで、部屋の空気が変わったようだった。
林太郎は襟を正しながら、ほんの少しだけ天睛を見直した。
「彼は顔は怖いけれど”うつしもの”ではありませんよ」
しかし、天睛のその言葉をきっかけに、少女は再び目に脅えの色を戻してしまう。
「うつしもの……”うつしもの”っていうんですか、”あれ”は……」
(?)
林太郎はまた違和感を覚えた。
この町に住んでいる人間で”うつしもの”を知らない人間はいない。林太郎が口を開こうとすると、天睛に柔らかかく制止された。
天睛は変わらず笑んだまま、少女に向き直る。
「はい。私たちの敵です」
「敵……? あ、私、襲われそうになって、手を、手を翳したら」
「落ち着いて」
堰を切ったようにしゃべり始める少女を天睛は手で制する。
「落ち着いて――貴方が誰かと言うことから話してくれますか」
「その前に」
少女は何かを考えるような顔をしていたが、きっ、と顔を上げた。
「今は、いつです」
「いつ、といいますと」
「天皇は――ああ、西暦? いや、元号はなんですか?」
「元号は……大正ですが」
「大正!」
少女は顔を上げ、そして泣きそうな顔をした。
「そう、もしかしたら、って思ったんですけど。そうですか――」
少女はなぜかショックを受けたようだ。
林太郎はその意味を掴みかねた。天睛も、理解できない、という顔をしている。
「私はこの時代の人間じゃない……」
少女の言葉に二人は目を見合わせた。
もしかしたら、精神を病んでいるのではないかしらん、と林太郎が思った瞬間、少女が弁明するように口を開いた。
「信じてもらえない、と思います、から、信じなくてもいいです。でも……私はここで生まれ育ったわけじゃない。それだけは確かです」
言いながら少女は泣きそうに顔を歪ませた。
「……」
天睛は何かを考え込んでいる。林太郎はそんな二人を見比べたけれど、何を話しているのか理解できなかった。
――遠方からきたということだろうか?
林太郎はぼんやりとそう考えた。長い沈黙の後、天睛が口を開いた。
「……なぜ、そうなったか覚えていますか」
「……私の住んでいた近所に……古い……お屋敷があります。そこには変な噂があって……それを確かめようとしていたんです。そして、気づいたらあの路地にいました」
「古いお屋敷……」
「ええ、もうかなり昔に廃墟になったと聞きました」
「……」
「でも、私は、私の住んでいた場所には”うつしもの”なんていなかった。これは、どういうことなんでしょう……」
「……残念ながら、私には全く分かりません。」
天睛は力無く首を振った。少女はまた悲しそうな顔をする。
「しかし、もしかしたら理解は出来るかも。ちょっと心当たりがあります」
天睛は何らかの可能性に思い当たっているようだ。天睛の横顔が生き生きとしている。それは、彼が何かを思いついたときに見せる表情だ。
――天睛は本当に天賦の才をもつのだろう。
林太郎は妙なところで納得してしまう。
「とりあえず、貴方もお疲れのようですし、今日はこれで最後にしましょう。
――貴方の名前は?」
「日和、です」
「天睛、どういうことだ」
扉を出た瞬間、林太郎が天睛に尋ねた。
「……まだはっきりとわかりません。しかし、能力者であることは事実です」
「……」
「だから、出来るなら戦力に成って欲しい所ですが」
「しかし、女人など!! しかもあのように破廉恥な……」
「わかっています」
林太郎が吐き捨てるように言ったので、天睛が困ったように笑った。
「元兼君なんて、卒倒してしまいますよ」
天睛は笑ったが林太郎は笑うことなく、天睛をじっと見た。天睛は困ったように笑みを引っ込める。
「だからね、彼女には男の振りをしてもらいたいです」
「! そんな、馬鹿なこと……」
「それ以外に君たちと肩を並べさせることはできないと思います」
急に真面目な顔になった天睛に林太郎はたじろいだ。
「それは確かにそうですが……」
「林太郎君。とにかく君は私の指示に従ってください。いいですね」
天睛にそう言われると林太郎は何も言えなくなる。
静かに頷き、そのまま礼をすると天睛がどこかにいくのがわかった。林太郎は顔を上げ、その後姿を見送った……。
その後、林太郎は鍛錬の続きをし、いつもより遅い朝食を食べた。
その間も頭に引っかかるのはあの少女のことだった。
違う年代から来たと言う少女、そしてその力、戦列に並べるという天睛……。
自分が悩んでも仕方ない、仕方のないことであるが、自分が拾ってきた手前、放っておくこともできない林太郎だった。
「お早ようございます」
急に話しかけられてびくりと肩を震わせてしまった。見上げると、影鴇が不審そうな顔でこちらを見ている。
何もない、と首を振ると、影鴇は首をかしげながらも席に着いた。
食堂はこの館に住んでいる者なら自由に使うことが出来る。ただし、この館にはお手伝いが一人しかいない為、食事を作ると彼女はすぐに別の仕事に取り掛かってしまう。
(このような変人の華族の家には誰も手伝いに来たがらないらしい――いくら天睛が活躍しようとも、矢張り先入観は払拭されないのだ)
だから、早く来れば暖かいご飯が食べれるというわけだ。
それにしても、同じく館に世話になっている影鴇と時間が同じになるのは珍しい。
林太郎は横でご飯を口に運ぶ影鴇を注意深く見た。
(いつもこんな遅い時間に起きてくるのか……)
日はすでに高く上っている。常の林太郎であれば、既に出かけている時刻だ。
――館に住むもの――力を持つものは身寄りの無いもの、理由がある者だ。
影鴇は先の戦争で親を亡くし、路頭に迷っていたところを天睛に拾われているし、林太郎自身は、”力”があるとわかった日に封印されていた”煌光丸”を奪い家を飛び出した為、済し崩し的に天睛の館に世話になっている。夜さえ館にいれば構わないというこの館は意外と居心地がいい。
「昨日は――」
皿とスプーンが触れ合う音がしていた広い食堂に急に影鴇の声が響いた。
昨日、という言葉にまた反応してしまう。
「珍しいですね。口ではどうのと言いながら結局相方と帰ってくるのに」
この寄せ集めの集団の中では固有名詞が一々決まっていなくて困る。
一緒に組んで戦う相手を相棒と呼ぶ人間もいれば、影鴇のように相方と呼ぶ人間もいる。
「ああ、それは――偶にはそんなこともある」
誤魔化すと影鴇は静かに首をかしげた。
影鴇の役目はその身軽な体と彼自身の力――自分の気配を抹消できる、というものを利用して天睛の欲する情報を集めているようだ。江戸時代にあったといわれる、”忍び”が一番その役目を表すことが出来る言葉だと林太郎は思っている。
”うつしもの”が現れた時、彼に仕事が入っていなければ天睛の代わりに、昨日のように広間で統率をすることもある。この影鴇がそのように仕事に当たっているときは感情を面に出さないのに、普段こうして相対していると少しぼんやりしている、抜けている少年、という印象しか持たない。首をかしげた仕草には幼さが残るし、その際に流れる髪はさらさらと金糸のように滑るし、その顔は女といえないこともなく、土岐宗などが気に入ってしょっちゅうからかってるし――
もしもこのような組織に拾われなければ華族の養子にでも取られたか、好事家の家に引き取られたかしたかもしれない。どれが彼にとって幸せであったかはわからないが。
「それより、いつもこんな時間に飯を食うのか」
勘が鋭い影鴇とこれ以上はなしたくない。単に話題を変えたかったのだが、林太郎が珍しく話を振ったことに影鴇は驚いたらしい。大きく目を見開いた。
「ああ、今日は、むしろ早い方です。僕の仕事は夜のほうが動き易いので」
「そうか」
そう言ってしまうと林太郎は黙った。影鴇も言葉を発せず、林太郎はスープの最後の一滴を飲む。早くこの食堂から抜け出したい、そんな考えで飯をかきこんだためあまり味はしなかった。林太郎は影鴇を残し、席を立つ。
今日は町に出るか――そんなことを考えながら。
*
日和の部屋を辞して林太郎の姿を探すが、ふと、門を見ると、今、林太郎がどこかへ出かけるところだったようだ。
学生服の後姿を見送る。
何かと都合がいいから与えた高等学校の学生服を、最初は嫌がっていたが、最近では文句を言わずきっちりと着込んでいる姿を見るとなぜだか笑いがこみ上げてくる。それはいかにも生真面目な彼らしいからであろう。
そんなことを考えながら、同時に天睛は組織の長としての考えを纏めている。
まずは彼女に話を通さなければならない。彼の力を借りたいのはそのあとのことだ……その方が話を通しやすいだろう。
日和については心当たりがあった。
天睛は、ここ数日で屋敷で見るようになった映像を思い出した。退廃したこの屋敷、石が敷き詰められた館の前の道、彼女のような服を着た、幾人もの人間――それはすべて、未だ来ず先――未来の映像だったのかもしれない。それならば説明がつく。エレキテル、彼らが使う力にはまだ解明されていない箇所がありすぎる。
それを解明し、元の時代に帰すと偽り、協力してもらう。夏野はそう決めていた。エレキテルにそういう力があるのか、ないのか、それはわからない。しかし、天睛はこうも思う――ないものは証明できないのだ。「無い」ものは、何がどうであれ「無い」ということを証明できない。証明する対象そのものがすでにないのだから、今無いものを証明しようというのは道理に合っていない。
とにかく、彼女にも戦ってもらいたい。戦力は常に不足しているのだ。それに、この条件は彼女にとって悪いものではないだろう。
戦う代わりにここに住まわせる。いや、彼女には選べない選択肢のはずだ。選ばせない。
――それにできれば……
天睛には更に野望があった。彼女を利用したい気持ちがあった。
――”刀を使わずにうつしものを倒せた理由”の研究をしたい……。
そのためにはやはり彼女を手放すわけにはいかない。
――ただし、これも全て彼女が協力し、男として生きることを承諾してくれれば……ですけどね。
彼女が”女”である、ということで現在の能力者の間では任務が滞る可能性があるのは否定できない。それはつまり女が戦うことを好まない人間がいる、ということだ。余計なことに時間を割きたくない。天睛には常に時間がない。まだ相手の正体すらわかっていないのだ。
そのために、林太郎に協力してもらいたい。
林太郎も「任務が滞る能力者」の一人であるが、(それは昨晩の反応からみても明らかだ)拾ってきたのは林太郎である。
つまり、既に乗りかかってしまっている上、彼女が女ということを知ってしまっている。少なくとも現在、彼以上に彼女を手助けできる人間はいない。
――少しだけ、面倒なことになりましたね。
天睛は基本的に”能力者”には干渉しない。人間関係が面倒だからだ。ただ、”うつしもの”を倒してくれるならそれでいい。
――まぁ、それと館を壊されるのは別ですが。
どうも、無亮は林太郎を可愛がり過ぎるきらいがある。
だから屋敷を壊すほどの本気を出して稽古を付けるのだろう。
――帰ってきたら怒らないといけませんね。
彼女のいうのが本当ならまた無亮が穴を開けたらしい。
林太郎にちょっかいを出さなければいいのだ。しかしそれが無亮なりの可愛がり方なのだ。しかし相性が悪いのか、林太郎が生真面目すぎるのか林太郎はそれを真面目に受け止め全力で押し返そうとする。だから屋敷が壊れるほどの本気の稽古になるのだ。
――結果的に林太郎は強くなっているのでいいんですけどね……
稽古なら稽古でそう言ってそのつもりでやってほしい。林太郎などはちょっかいを出されて、喧嘩をしている気持ちでしかないだろう。しかし、だからこそ甘やかしていると思うのである。実戦さながらの稽古を仕掛ける無亮――
――今度こそ修繕費を請求しましょう。
そう思いながら、天睛は運んできた盆を左手に持ち替え、彼女の部屋の扉を叩く。
「起きていますか」
「……はい」
扉を開け、彼女の寝台に盆を持っていった。盆の上の食事を見て彼女はそれを天睛を見比べる。
「朝ごはんです……もっとも、遠い未だ来ず先――未来の人間のお口にあうか解かりませんが」
5
「!!」
夏野の言葉に、思わず身を強張らせた。
「はい。そうじゃなければ説明がつきません。それに、エレキテルは、現在では人間が利用できますが、そもそも、それがどういう力かまだ解明できていないのです。ならば、そういうことがあっても可笑しくないでしょう」
「そう、ですね……」
(夏野さんの言うことは最もだ……)
それを自分よりも過去の人間がわかるというのが不思議だけれど、日和はそうも言ってられない。目の前の人が理解してくれる――それだけで、日和は救われるような気持ちだった。
「そして、未来と言うのは簡単です。あなたの装束は今までの書物には有り得ない。西洋にはそのような召し物があるようですが――それでもその下布は可笑しいです。貴方は同じ日本人であるようだし」
どうです? と自分の推理を無邪気に公開する夏野に思わず笑ってしまう。
「物知りなんですね」
「道楽ですよ」
「私の時代にもこういうご飯ありますよ」
そう言って日和は盆を受け取った。
「……ご馳走様です」
日和が箸を置いたと同時に夏野が口を開く。まるで、ずっとこの言葉を考えていた、とでもいうように。
「昨日のことですが――貴方の知っている東亰にはうつしものはいないと言っていましたね」
日和は小さく頷く。
「はい――そのようなものいたという記録も、ないです」
「ということは、貴方のいた所ではうつしものに関する文献を残していないということでしょうか」
「わかりません――でも、もしいたならそういう話をする人がいてもおかしくないとは思いますけど」
「なるほど。お話はよくわかりました。それで、私の方でも少し調べてみましたが残念ながら、貴方のような前例はありません。そして、元の世界に帰る方法も残念ながらわかりません……でも――帰る方法を探してみましょう」
「お願いできますか!?」
願ったり叶ったりの言葉に、日和はぱっと顔を輝かせた。
「それまで、ここに住むというのはどうです。貴方にはとりあえず、帰る家が無いでしょう」
「――はい」
「その代わり、貴方にしてほしいことがあります」
「して、ほしい、こと」
確かめるように一語一語繰り返す。夏野は頷く。
「それは――単刀直入に言います。貴方には”うつしもの”と戦う力がある。
できれば、”うつしもの”と戦ってほしいのです。
――それが、ここに住む条件です」
「……」
「悪い条件ではないと思います、そうでしょう? 貴方は行く場所が無いし、そんな貴方に衣食住の保障はする、と言っているのですから」
「……」
それは、そうなのだ。結局、自分にはこの時代で生きていく術などないのだ。どのように生計を立てればいいかわからないし、どうやって暮らしていけばいいかわからない。
どこに住めばいいかわからないし、買い物は? 衣服は? 水道は? 考え始めたらきりが無い(歴史の授業を真面目に聞いておけばよかった)。もしもこの目の前の男性が面倒を見てくれるというのならそれは願ったり叶ったりなのだ。
日和は一瞬悩んだけれど、頷いてみせる。夏野の目が妖しく光った気がしたけれど、もう戻れなかった。
「そして、可能なら――貴方には戦闘に参加していていただきたいです」
「!!!」
「驚くのもわかります。そして、できれば男として参加してもらいたい――」
*
研究と、男は言った。
正直言って怖い。
それでも、男の言うとおりにしなければここでは非力な自分ではどうにもできないことがわかっている。
怖い。怖い。怖い。
その恐怖を紛らわすように彼女は自分で自分の体を抱く。
暗闇が部屋を支配する。夜が再び訪れる……。