(7)
「もう帰るけど」
さく也はホールの壁に設置された時計を見上げ、次に悦嗣を見て言った。今しがたまで音を紡いでいたヴァイオリンは、すでにケースに収められている。
曲の終わりは確かに自覚していた。ピアノに指紋をつけてしまった時、一旦は我に返ったはずだった。なのにいつの間にか頭の中を音楽が満たし、思考をさらわれてしまったらしい。自分はまた、あの音に中ったのか――悦嗣は浅く息を吐いた。
「ここからはどうやって帰るんだ?」
「新幹線で東京に出る」
「仙台駅までは?」
「地下鉄」
「調律し直す間、少し待てないか? せめて地下鉄まで送るよ」
本来の演奏者以外が弾いたピアノは、フルとまではいかなくとも調律し直す必要があった。本番もトラブルがあった場合を考え待機するため、一緒に帰ることは無理だが、地下鉄の乗り場までは送っていける。その言葉に軽く頷いたさく也は、演奏前まで座っていたヴァイオリン席に腰を下ろした。
悦嗣は演奏中除けておいた調律道具を取り、仕事を始める。ちらりと客席の方を見やると、ユアンはあの席に、うつむき加減で座っていた。表情は見えない。彼の人となりは知らないが、前回と今回の、少なくとも悦嗣とさく也の演奏する前までを見れば、今の静かさに違和感を覚える。
ユアンの耳にさきほどの演奏は、どのように聴こえたのだろうか。
ややもすると演奏の余韻が悦嗣を包み、目の前のピアノではなく、新しい記憶の中のヴァイオリンの音を追ってしまう。今、調律しているのはソリストのためのピアノであるのに、中原さく也のヴァイオリンにふさわしい、パートナーとしての音に仕上げてしまいかねなかった。
(集中しろ)
悦嗣は首をぐるりと回し、さく也の音を散らした。
予定よりかなり押して始まったゲネプロを、ユアンは軽く通しただけで終えた。調律のクレームはなく、オーケストラに対して演奏上の要望もない。タイミングも何もかも指揮者主導での演奏だった。オケや指揮者との相性が良いと言えばそうなのだろうが、「はたして」と悦嗣は思った。プロの演奏家は多かれ少なかれ癖が強い。初めて合わせるオーケストラに注文がないのは珍しい。
(それともユアン・グリフィスのコンチェルト・リハーサルって、いつもこんな感じなのか?)
ゲネプロ終了時点で午後五時、開演までは一時間あった。その間に悦嗣はさく也を駅まで送ることにした。
ステージを降りたユアンが、帰り支度の悦嗣とさく也の方へためらいがちに近づいてきたが、座席二、三列ほど手前で立ち止まった。横一文字に結んだままの唇が、彼の複雑な胸中を表して見えた。さく也はおかまいなしにドアへと向かう。気になった悦嗣が振り返ると、その目はさく也を追っていたが、結局、一度もユアンは彼に顧みられなかった。
「いいのか? あいつ、何か言いたそうだったけど」
さすがに気の毒になってホールを出たところで悦嗣が言うと、さく也は「何も言わなかった」と答えた。明快でそっけなく悦嗣は二の句を継げなかった。
地下鉄への道を並んで歩く。時刻は夕方だが傾いた陽は、まだ強く地上を照りつけていた。ただ街路樹やビルが作る長く広い蔭では、幾分、秋を感じられた。
すれ違う人間はほとんどさく也を振り返る。ヴァイオリニストの中原さく也と気づいているわけではなく、端正な容姿に惹かれてだ。当の本人はまったく意に介さず、相変わらず冷たい頬を向けるだけだった。
「口で言ってもわからないから、だからここに来たんだ。『メロディ』もそのために選んだ」
その『冷たい頬』が、珍しく自分から言葉を発した。脈絡無く始まった話に一瞬戸惑った悦嗣は、「え?」と短く返す。
「『メロディ』はユアンと合わせた曲だから、何も言わなかったんだと思う」
先ほどホールを出た際の話の続きらしかった。
「じゃあ、俺は比べられたのか?」
「言葉よりも、音楽の方がわかりやすい」
「そりゃ、おまえはなぁ」
(喋らないから)
とは、悦嗣の心の声である。
「でもユアンはわかったみたいだ。だから何も言えなかったんだろう? ユアンのピアノは、俺を押さえつける。あんたのピアノは解放してくれる。独奏でないかぎり、音楽は相乗作用で成立してる。だから楽しいし、面白いんだ」
アルコールも入っていないのに、滑らかに言を繋ぐさく也を、悦嗣は不思議そうに見たので、「何?」と彼が顔を向けた。
「今日は、よく喋ると思って」
さく也の頬が一瞬にして紅くなった。フイッと前を向くと、その口は閉じられてしまった。
「だからって、黙らなくていいのに」
悦嗣が続けると、さく也の歩調が速くなった。彼自身が作る風に髪が揺れて、頬同様に紅くなった耳を見せる。あきらかに照れているその様が微笑ましかった。
地下鉄の駅が見えた所で立ち止まるまで、さく也の口は開かなかった。
「俺は、加納さんと弾くの好きだけど、それはユアンと同じなのかな?」
横断歩道の向こうに地下鉄の駅、信号は赤。蔭は切れた。走り過ぎる車の排気ガスとエンジン音に、暑さが戻る。さく也のぽそりとした呟きは、そんな『残暑』に紛れそうだったが、辛うじて悦嗣の耳に届いた。
「あんたに弾くことを強要してる」
「そんなことはないさ。俺は、その、素直じゃないだけなんだ」
信号が青に変わったが二人は渡らなかった。
「おまえと弾くと思うだけで、わくわくする。その才能に釣り合わないとわかっているのに。気後れもするけど、そんなの弾いてしまえばわからなくなる。ただ弾きたくなる。その前後に迷いと後悔があるだけなんだ」
信号がまた赤になったので、悦嗣はさく也の腕を引いて近くの蔭に入った。
「俺も、おまえと弾くのは好きだよ」
悦嗣は笑った――そういう事なのだ。どんなにその差を思い知らされても、弾かずにはいられない。
「どうしよう、戻りたくなくなってきた」
駅の方に目をやって、さく也が独りごちた。彼はこれから東京に出て、羽田発の夜の便でボストンに戻るのだ。仙台での滞在時間は四時間足らず。ずいぶんな強行スケジュールであるのは悦嗣のためだった。せめて飛行機代を出すと申し出たが断られた。
「すぐ帰らなきゃならないのか?」
「リクが、弟が独りで待ってるから」
信号が青になり、二人は蔭から出て今度は渡った。
「じゃ、ここで」
悦嗣は、地下への階段を下りかけるさく也に言った。
二、三段目に掛かっていた足は止まり、彼が振り返る。同時に左手の細い指が悦嗣の左腕を掴んだ。それは一瞬で離れ、自身の背後に回された。
「中原?」
「なんでもない」
さく也は階段を下り始める。いつものように別れの言葉もなく振り返らない。
下って行く後姿に、「なんでもない」と言った時の彼の表情が被った。わがままを言おうとして、我慢する子供のような。掴まれた感触が残る腕が、悦嗣に問う――別れ際に、あんな顔を見せたのは初めてだろう? そのヴァイオリン同様、さく也のささやかな感情表現は、悦嗣を確実に捉えた。
「仙台駅まで送る」
「え?」
「まだ時間に余裕があるから」
悦嗣はさく也に先んじて階段を降り始めた。
後日、仙台でのユアン・グリフィスの『皇帝』は、彼のベートーヴェンを知る批評家に酷評された。
“ユアン・グリフィスの『皇帝』は、精彩を欠いていた。技術的には完璧。ミスタッチはないものの、速度は指揮者任せ、強弱は発想記号通りで、ベートーヴェン弾きと評されるほどの彼の個性は、片鱗も見られない平凡なパフォーマンスだった。日本の地方都市と侮って、手を抜いたと取られても仕方ないだろう”
記事をwebサイトで読んだ悦嗣は、あの場で聴いた彼の演奏を思い起こす。確かに面白味のない演奏だった。ショパン・ファイナリストとしてよりもベートーヴェン弾きとして有名を馳せる演奏を、少なからず悦嗣も期待したのだが、物足りなさは否めなかった。
きっとあの日の午後の出来事が、彼の演奏に影響したのだろう。中原さく也が『日帰り』してまで仙台にやって来たのは、悦嗣のピアノのためであり、ユアンを拒絶するためだった。本来の目的であった悦嗣の演奏よりも、そのことが彼を動揺させた。マイナスの感情をコントロール出来なかったのだ。
(それでもミスタッチなし。教科書通りとは言っても完璧だったんだから、何とかコントロールしたってことだよな)
そして、さく也がその三日前に母親を亡くしていたことを、悦嗣は仙台から戻った翌日、英介からのメールで知った。彼の『メロディ』の演奏こそ、ユアンとは正反対の意味で完璧だった。その感想は肉親を亡くして間もなかったと知った今、思い返しても変わらない。悦嗣はさく也を新幹線に乗り込むまで見送ったのだが、彼はいつも通りだった。もっとも違っていたとして、わずかな変化に気づくことは難しい。悦嗣はさく也をさほど知らないからだ。知っているのは唯一無二の音と、自分に向けられる想いだけだ。
新幹線に乗るまで送ると言った時の彼の顔が、いまだに脳裏に残る。赤く染まった頬で口元を綻ばせた。
その表情を見た時の、自分の気持ちも忘れられない。言葉では表せない。はっきりと表現出来ない。その気持ちを忘れられずにいる。
『ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう』
英介がそう言った時、悦嗣の心の一隅が熱くなったのは、またあのヴァイオリンと合わせられるという高揚感と、それから――