(5)
ユアン・グリフィスから再び仕事の依頼が入っていると悦嗣が知るのはリサイタルの翌日――自分の寝言で図らずも早起きをした日の午後だった。英介が確認の電話をかけてきたのだ。
「二十二日のオケ・コンの調律も、エツに頼むからって昨日の電話で言ってきたの、覚えてるか? 寝惚けてるみたいだったから、念のため電話したんだけど」
英介の話にまったく覚えがない。帰りの車中、彼が電話を終えて席に戻ったことすら、記憶にはないし、その電話の相手がユアンだったことも、現実では知らなかった。戻って以降は夢の中に続いていたはずだった。
(夢じゃなかったのか、あれ?)
それにしてはリアルだったと思い返す。
英介が二十二日の日程について引き続き喋っていたが、悦嗣の意識は別の方向に向いていた。昨晩の帰りの車中へと。
「エツ?」
悦嗣の反応がないので、英介が話すのを止めた。
「俺、何か変なこと、言ってなかったか?」
悦嗣が尋ねる。
「フニャフニャ答えてたよ。起きてるのか寝てるのか、わからないような感じ。なんだ、やっぱり寝惚けてたんだな?」
受話器からの彼の声は、笑い含みだった。
「こんどはまともな曲、弾いてくれって言う話をOKしたのは?」
その内容も夢に出てきた。いったいどこまで現実だったのか、だんだんと『問題発言』に近づいてくる。血の気が引く思いがした。
「覚えてない」
「ふーむ」
英介が意味深に相槌を打っただけだった。その様子は気になるところだが、外れて突っ込まれるのも困るので、悦嗣はそのまま口を噤んだ。あの言葉を現実には言っていなかったとしても、彼は何かを感じ取ってしまうかも知れない。意外と英介は鋭い男だった。
悦嗣の反応がまた鈍ったことに今度は構わず、英介は話を続けた。
「とにかくユアンにはもう返事したから、二十二日はそのつもりで行ってくれよ。俺は明後日帰るから、ちゃんと通訳は頼んでく。弾くならチャイコかラフマニがいい。得意だろ? 逃げるなよ、エツ」
「エースケ」
「これはユアンのためでもあるんだ。ソリストとしての自覚を持たせるためにも」
「おまえはよく周りを見てるな? 高校も大学でも、俺なんかより、よっぽど部長に向いてた」
英介はカラカラと明るく笑った。
「欠点を探して論うのが得意なだけだ。人をグイグイ引っ張る力はないよ。人をまとめるような面倒くさい事はご免だし」
それに今回の事は彼のマネジャーからも頼まれている、と英介は付け加えた。中原さく也のヴァイオリンに固執するあまり、彼本来の音が損なわれるのではと心配しているのだと言う。ショパンを獲ったユアンではあったが、彼のベートーヴェンを知る人間の評価は分かれたらしい。ユアンの申し出を受ける意思がないさく也を、さっさとあきらめてほしいのだ。
「ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう。今、ボストンにいるはずだから」
いい事を考えたとばかりに、英介の声が弾んだ。
「え!?」
「そうしたら通訳もいらないし、エツもやる気出るだろう? ユアンに聴かせてやればいい。きっとその方が納得する。連絡してみるよ。だからデュオって事も考えておいてくれ。それじゃ」
「ちょっと待てよ、エースケッ」
返答などお構いなしに電話は切れ、無情な電子音が悦嗣の耳に残された。
悦嗣は心の一隅に生まれた熱を自覚する。「さく也を呼ぼう」と英介が言った時に受けた感覚――あのヴァイオリンの音を聴ける、合わせられる。彼に会える。
「なんだ、そりゃ」
電子音に向って呟くと、クシャクシャと頭をかいた。