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(3)‐2


 ゲネプロ終了後、悦嗣達はステージに呼ばれた。仏頂面のユアン・グリフィスがピアノの前に座っていたが、二人の姿を確認するとピアノの前を空けた。無言で座れと促している。

 悦嗣はため息をついた。

「俺がここで弾く理由はなんだよ?」

 英介が悦嗣の言葉を伝えると、「僕が聴きたいからだ」とユアンが一歩踏み出し、悦嗣の前に立った。

 自重しているのか、先ほどのようにすぐには噛み付いてこない。ただ悦嗣を見下ろすかのような青い目と、引き結んで紅くなり時折り震える唇は、彼の心中を代弁している。

「サクヤがどうしても僕の申し出を受けない。最初は感性が違うと言われた。その次は移ったオケでの専念を理由にされた。最近はエツシ・カノウだ。彼以外のピアノで弾く気はないと言った」

 彼の眉間に悔しげな縦線が入る。

「ここ一年、オフ・シーズンには日本に行ってばかりで、やっと捕まえたと思ったら答えはいつも『No』だ。聴いたことのないピアノと比べられる気持ちがわかるか? どうして聴かずにいられる!? 僕のどこが君に劣っているんだ!?」

 どんどん語調が強まり、声も大きくなり始める。頬が紅潮するに至って、マネジャーがいつでも抑えにかかる態勢をとった。通訳のためのタイム・ラグが、辛うじて歯止めになっている。

 どうして自分の周りには、レベルの違うものを比較しようとする輩が多いのか――悦嗣は英介を見やる。その意味を知ってか知らずか、彼は笑んだ目を返した。その目は「弾いてやったらどうだ」とも言っている。

「やれやれ」

 悦嗣はピアノの前に座った。

「なんで劣ってるってなるんだ。プロとアマチュアじゃ土俵が違うし、俺の本職は見ての通り調律師なんだぞ」

 イスの高さを調節しスケールを弾いてみる。ユアン・グリフィスのオーダー通りなので、鍵盤の重さは一般向きではない。このテンションでは、細かい音符やアルペジオを多用した曲をイメージ通りに悦嗣が弾くのは、まず無理だ。

 指が鍵盤を叩いた。調律後の試し弾きや指慣らしでよく弾く曲の中から、和音が中心のエチュードを選んだ。卒業以来、暗譜でクラシック曲を弾いたことがなく、今弾いているのだってうろ覚えで、楽譜通りかと言えば怪しかった。曲は技術的、音楽的解釈上で言えば中級と言ったところ。その程度の曲をとりあえずそれっぽくは弾いているが、アレンジだらけのいい加減だと、ユアンほどの弾き手であればわかるだろう。

 ユアンが期待したものとは開きがあったらしく、弾き終わるや否や高音域の鍵盤に指を叩きつけた。甲高い不協和音がホールに響く。

「馬鹿にしてるのか!?」

「だから言ってるっつーに。プロじゃないんだ、スラスラ暗譜で弾ける曲なんてあるもんか」

 悦嗣が立ち上がる。すぐ目の前に首まで赤くしたユアンが立っていた。十数センチ上にその目がある。言葉を出すための短いブレスが鳴ったが、悦嗣の方が早かった。

「それに感性に優劣はつけるってのはどうなんだ」

 日本人としては高身長の悦嗣は、見下ろすことはあってもその逆に慣れていない。右手の甲で軽く彼の胸を押し距離を取った。

「さっきゲネを聴かせてもらったけど、デュオや伴奏には向いてない」

 ピアノについた掌形に気づき、悦嗣は商売道具の入ったバックの中から布を取り出して、その部分を拭いた。

「自己主張が激しすぎる。きっと曲が進むにつれて自分の音楽を優先する…っつうか、出てくるんだ、抑えても。そういったピアノだ」

 揺るぎない自信――ユアン・グリフィスのピアノは、そんな音で成り立っている。挫折を知る必要のなかった才能が、服を着て演奏している印象だった。

「中原もそう言ったところがある。オケやアンサンブルの時はそれなりの弾き方をするけど、ソロやデュオじゃ容赦がないからな。似たタイプとは演りにくいんだろうよ」

 中原さく也の『容赦のない』音が、悦嗣の耳に蘇る。

 最後に聴いたのは去年の年末の、月島芸大での模範演奏と、野外で悦嗣の為に演奏された『シャコンヌ』だった。懐かしくてぴくりと指が反応した。

「そんなことはない! サクヤほど息の合うヴァイオリニストは、今までいなかった」

 ユアンが反論する。過去一度、さく也と組んで演奏した際、どれほど息が合っていたか、気分良く演奏出来たかを悦嗣にたたみかけた。言い終えるまで口を挟む余地を与えないところなど、妹の夏希を想起させた。彼女のマシンガン・トークは愛嬌たっぷりだが、ユアンのそれは相手を疲れさせる。

 英介が気を遣って簡潔に訳してくれるので、悦嗣は雑音だと思って大人しく聞いていたのだが、

「…って、言ってるけど?」

英介の方はさすがにうんざりした表情だ。

「中原が自分と同じに思ってるって、どうして言えるんだ」

 道具が入ったカバンを、肩に掛け直した。

「二度目以降が拒否られてるのは、よっぽど合わなかったってことだ。感性が違うって最初にはっきり言われてるんだから、俺に責任転嫁するなってんだ。行くぞ、エースケ。これ以上話してると、説教くさくなっちまう」

 英介が訳し終わるのを待たずに、悦嗣はステージを降りた。訳された内容に一瞬怯んだユアンは、あわてて背中に向かって声を飛ばす。

 それを遮るように、悦嗣は振り返らずに手を振った。


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