【空結晶】
愛は水に似る。過ぎれば溺れ、損なえば乾く。
親が子へ与える愛は海のように深く広い。
しかし忘れるな、凪いだ水面が海だけではないということを。波もあれば海底もあるのだ。
貴殿の愛が、底に引き込み圧で潰す深海になることなかれ。
―― とある海兵士の手記より
からん、とベルが鳴った。
薄暗い部屋に差し込む光は希望の光明か。それとも、光満ちる空の下の絶望か。どちらだろうか、と店に立ち入った少女は思う。
どちらでも構わない。願いが叶うのならば。
「いらっしゃい、お嬢さん」
奥から静かに、何処か艶めいた動作で店主である彼女が現れる。彼女は少女を応接用のソファに導き、座らせる。
「リグラヴェーダ。おいでなさい」
店の奥で掃除をしている妹を呼んだ。ややあって、ぱたぱたと軽快に足音が駆けてくる。ひとつに結っていた長い髪をほどいてから、客である少女に軽く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。見習いのリグラヴェーダと申します」
見習いのため同席を許してもらってもいいだろうか。そう少女に許可を求める。構わないと少女が答えると、ありがとうございます、と微笑んで定位置のソファの端に座った。
机を挟んで客の少女と店主が向かい合い、店主である彼女の横に見習いのリグラヴェーダがいる配置が落ち着いた頃、それで、と本題を切り出した。
「それで、叶えたいことは何?」
「お願いです、蛇の魔女さん。私に毒を。父を殺す毒をください」
――母は私が15の時に亡くなりました。
強くて美しくて優しくて、母としても女としても最高の人でした。そんな母を亡くしたのが父にはとてもショックのようで…。
父は変わってしまったんです。私に母を重ねるんです。そして、自分の愛する妻の代わりであるが故に、私は父に――
「……えぇ、もういいわ。それ以上は結構」
片手を挙げて彼女は少女の話を遮る。
酷なことを語らせることに心を痛めたわけではない。話を遮った理由は客の内情など興味がないからだ。
彼女にとって、事情も動機も必要ない。大事なのは目的とそれをなす手段だ。
「毒が欲しいのね、わかったわ」
叶えましょう、と。彼女は言った。
少し席を外すと言い残し、ややあって彼女が箱を抱えて戻ってくる。
漆を塗り込めたように黒い重箱には持ち運びがしやすいよう取っ手が付けられており、そこに鐘が結わえつけられている。
その箱を机の上に置き、封として結ばれていた朱と紺の紐を解き、蓋を開けた彼女の指が滑る。ずらりと並ぶ小瓶の中から青紫の小瓶を取り出した。ラベルにはいかにもそれらしい髑髏の刻印が刻まれていた。
「これを飲ませればあなたの願いは叶うでしょうね」
代金は必要ないわ、と微笑んだ。
金など意味もない。ヒトならざる彼女らはそんなものに拘らない。
「いいんですか!? うわぁ、夢みたい!」
やっと解放される、と嬉しそうな少女を店の外に送り出した。
からん、とベルが鳴った。
やってきた男は来るなり心情を吐き出した。
「父として最低ですよね。でも本当にそっくりで、どうしても重ねてしまうんです」
娘に妻を重ね、そして愛する。父としてではなく男として。そう告白する男の話を彼女は興味なさそうに聞き流していた。
懺悔のような未練のような告白など、聞いてやる意味も意義もない。心の中で冷淡に突き放す。
「……で、どうしたいの?」
話を聞き流していた彼女が結論を急ぐ。手段と目的だけを聞きたいというのに、どうして人はこうも理由を語りたがるのだろうか。どの客もだいたいが聞いてもいない動機や理由を語ろうとするのだから困る。
「娘を殺そうかと思うんです。魂だけを殺して、肉体は残す」
そんな芸当ができるのは彼女だけ。
蛇の魔女はあらゆる願いを叶える。どんな不可能でも相応の対価を払えば可能となる。それがこの店だ。故に彼女の店には連日客が並ぶ。
「だから、ね、リグラヴェーダさん。俺に薬をください」
その愛情は狂気だとこの店主も言うのだろうか。
どうして誰もこの狂おしいまでの愛を理解しないのだろう。娘はどうしてあんなにも嫌がるのだろう。妻を亡くした俺の痛みに比べれば些細なことだと男は信じて疑わない。
「妻を取り戻したいんです」
美しく聡明だったナタリアを俺に返してくれ。そのために娘よ、その身体をナタリアに明け渡せ。空いたその身体にナタリアを刷り込んでやるから。そうしてまた幸せの日々をやり直すのだ。
狂気をはらんだ男は願いを舌に乗せる。それが叶うと信じて。事実、ここなら叶えられるのだ。
「承知したわ」
叶えましょう、と。彼女は言った。
少し席を外すと言い残し、ややあって彼女が箱を抱えて戻ってくる。
漆を塗り込めたように黒い重箱には持ち運びがしやすいよう取っ手が付けられており、そこに鐘が結わえつけられている。
その箱を机の上に置き、封として結ばれていた朱と紺の紐を解き、蓋を開けた彼女の指が滑る。ずらりと並ぶ小瓶の中から赤紫の小瓶を取り出した。ラベルには古ぼけた台紙を塗り潰すように白い塗料が塗られていた。
「これを飲ませればあなたの願いは叶うでしょうね」
代金は必要ないわ、と微笑んだ。金など意味もない。
「あぁでも、妻を刷り込むのはあなたが自分でやりなさい」
世間で言われているほど万能でもない。
その妻とやらの人となりを知っていれば代行できなくもなかっただろうが、全く知らない人物をやれと言うのは無理がある。
「それでいいなら、受け取りなさい」
沈黙の後、ややあって男は薬瓶を受け取った。
「あぁ。娘よ。今解放してやるからな…」
そしてその空いた場所に妻を刷り込むのだ。仄暗い決意を抱く男を店の外に送り出した。
そして、その後に起きる結末は。