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【黒の香】

からん、とベルが鳴った。


彼女の店に訪れたのは、小太りの男だった。

金と欲の腐臭が嗅覚に訴えてきそうなほど醜悪な男だ。思わず顔をしかめてしまいそうになる。

素直に顔をしかめた妹に、それは失礼なことだから止めなさいと視線でたしなめる。小さな妹は顔面の歪みを隠そうとし、さりとて隠しきれず、たまりかねてたまらず奥の部屋に引っ込んだ。

気持ちはわからなくもない。これはよほど訓練しなければ本音を隠して接するのは無理な相手だ。

「薬はできましたかな?」

平たくいうと穢らわしい。心中で男の容姿を吐き捨てる彼女を余所に、男はにやにやと笑いながら問う。

えぇ、と彼女は頷き、先程作ったばかりの薬瓶を机の上に置く。ラベルには黒い香と書かれていて、その名の通り、黒い粉末が詰められている。

「これが今日の分よ」

「いただきますよっと」

それを受け取った男は狂喜に笑う。よく肥えた腹が揺れた。

「いやはや、魔女様は怖いですなぁ。こんな薬を作ってしまわれるとは」

その膨れた腹を裂いてやろうか。思索する彼女をよそに、男は続ける。

「どんな願いも叶えるとか。いやぁまったく敵に回したくないですな、はっはっは」

愛想のつもりか何なのか。早く帰れこの豚めと言いたげに彼女は目を向ける。男は一向に気付かない。かなり露骨な視線であるのにこの態度。このふてぶてしさならば、妹が顔をしかめていても。一切気にしないのではないか。

「ふふふ、楽しみですなぁ。あの女が腐り落ちるのを見るのが!」

男が腹を揺らすたびに、腐臭のする何かが飛び散るようだと思った。金と欲はここまで人間を腐敗させるものだろうか。

「あの女め! 私の話を何度も断りおって! この私の! ありがたい申し出を!」

男は、地方でも有力な貴族であった。欲望のままに生きてきた男はある日の夜会で見かけた貴族の娘を見初めた。

娘を手に入れようと、男は娘の家に見合い話を持ちかけた。いわゆる政略結婚というやつだ。男の家と娘の家の身分の差は歴然であり、娘の家からすればまたとない話である。

しかし肝心の娘は平民の青年と結ばれるなどと言って、権力も財力も豊富な男の見合い話を断った。それは非常に強固で、両親が説得しても泣き落としても怒鳴り付けても曲げることはなかった。しまいには娘は青年と駆け落ちさえ計画していた。

それならば、いっそ。手に入らないなら壊してしまえばいい。そうして男はこの薬屋を訪ねたのだ。願いを叶える蛇の魔女の元へ。

「おっと…失礼。少し機嫌がいいものですからつい」

「気にしないで。早く行ってちょうだい」

彼女が手を払う。嫌そうな彼女の様子に気付かず、男は満足そうに店を出ようと足を向け、はたと止まる。

何の用だ。もう用はないだろうに。嫌な顔を浮かべた彼女に構わず、そういえば、と男は切り出した。

「そういえば蛇の魔女よ。これの代金を伺っていないのですが? いくらですかな? 金ならいくらでも…」

「あぁ…別にいいわ。もうもらったから」

代償はもうもらっている。金など不必要なものだ。

そう言った彼女はちらりと棚の上の砂時計を見やる。逆さにしても砂が落ちない不思議な砂時計だ。物理法則を無視した砂時計を珍しがった男が触れて以来、そのままだ。

しかしその砂時計は男が触れた時よりもいくばくか砂が落ちていた。砂時計の下部では星の形をした砂が小さな山を作っている。

「そうですか。…ま、そう言うならいただいていきますよっと」

一体何をもらったというのだろう。金を払ったわけでもないし、何かを差し出した覚えはない。しかし、それでいいのだと言う。

いったい何を代償にしたのか、まったく心当たりがない。首を傾げつつ、男は取り出した札束をしまう。

「しかし太っ腹ですなぁ、魔女様は」

肥えた腹を揺らして男が笑う。その瞳に好色が宿る。下種が。内心で彼女は吐き捨てた。

その感情を感知したのか、彼女の肩に這う黒蛇が小さく口を開く。それを撫でて宥めて彼女はただ黙する。

今現在彼女がひっそりと仕組んでいる物事の成り行きを見守るのは面白いが、この男だけはどうしても受け付けられない。

「私のものになりませんか? 財も夜も満足させてあげますぞ?」

そうのたまう男に殺意を剥き出しにして身を乗り出す黒蛇を抑える。彼女が強く制さなければ、この人の身丈ほどもある巨大な蛇は男を締め上げて殺してしまうだろう。

ここは少し脅して静かにさせるとしよう。

「…ドゥルネウス卿よ」

ふと、彼女のまとう雰囲気が変わった。

その鋭さは、彼女の肩に乗っている蛇が思わず怯んでしまうほど。

「貴公はもう少し歴史を学んだ方がいい」

その凍てつく視線を正面から浴びることになって、それでようやく醜男は言葉を引っ込めた。

がらりと口調を変え、厳かな言葉遣いで威圧する。

「一夜にして滅んだ王国。あれが私の仕業であると貴公はご存知か?」

数年前、大陸に覇を唱えた巨大な国があった。何処の群よりも強大なその国がたった一夜で灰に帰した。その跡地である領土には化け物と呼ぶべき生き物が跋扈している。

原因は知れない。だが、それは人間がなせる仕業ではないというのは明らかだ。世界中に知られている魔法でもこの現象は起こせない。世界に生きる亜人のどれもそのようなことをなせる技は持っていない。

否。ひとつだけ、それをなせるものがある。それがこの薬屋だ。それ故、彼女は狙われる時がしばしある。彼女が持つ技術を求めて。その国もまた、彼女を求めて愚かにも手を伸ばした。

「私に手を出して無事であったものは一つもないということを」

だから報復された。だから滅びた。彼女に手を出したが故に。

「それでもなお私を求めるかしら?」

怒りに触れるとわかって地雷を踏み抜くか、と。

凄む彼女が問うと、醜男は蛙が潰れたような声をあげ、まろぶように駆け出した。

「し、失礼しましたぁ!!!!」

どたどたと外へ飛び出した醜男が迎えの馬車に乗るのを見送って、彼女は呟いた。

「少し脅しすぎたかしら」

ふふ、と笑う。軽口に対する仕返しと言うには少しきつすぎたかもしれない。

「……もう行きましたか?」

店の奥からひょこりと妹が顔を出す。えぇ、と頷いて手招きすると、妹は安堵したように息をついた。労いのように慰めのように黒蛇が肩に乗り、鼻先を寄せる。

「ありがとう。心配してくれているのね」

今回は逃げてしまったが、ヒトの世に交じる以上、ああいった相手とも向かい合わなければならない。その時のために本音を隠す術を訓練しなければ。

大蛇と触れ合う妹を撫でて激励し、さて、と彼女は改めて砂時計を眺めた。

「……幸せはないものと思いなさい」

彼女の視線の先で、さら、と砂時計から砂が落ちた。

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