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【白の香】

あぁ、あぁ、世界が崩れ落ちていく。否。崩れ落ちていくのは。


元々病弱で、ほとんど床に伏せている記憶しかない。何人も主治医を変えて環境を変えて、歯がゆさと諦めを何回も繰り返して。

でも、それももう終わるのだ。

異変が始まったのはいつからか。ある日、足首に痒みを感じた。異常な痒みを変だと思って触れてみた。そうしたら、ずるりと皮が剥けたのだ。まるで、腐り落ちるように。足首だけだったそれは時を経るにつれ面積を広げ、半年と少しが経った今、それは全身に及んだ。


ずるずると皮膚が剥けていく。否、これはもう肉だろう。膿がシーツを汚す。真っ白な布に赤茶の滴が散った。

化け物と父が話しているのを聞いた。母が泣くのを見た。侍女は気味悪がって宿下がりを頼み、皆誰も近寄らない。全身爛れた醜悪な私を世話してくれるのは婚約者のみであった。

でも、彼もめったに来なくなった。来たと思えば最低限のことをして、そして足早に去っていく。

彼は財産目当てだったのだろう。だってもう、愛してるも言わなくなった。私の元には彼しか来ないから、両親の前でだけ愛想を振りまけばいい。婚約は成立して、式は挙がるよう手筈が住んでいる。だからあとはもう、どうとでもなる。何があっても入籍すると約束し、そうなるように手を回した私が馬鹿みたい。もっと早く彼の意図に気付けばよかった。でも、それも、もう、終わるのだ。


からん、とベルが鳴った。


もはや常連となりつつある青年を、彼女は迎え入れた。

「今晩和。…はい、今日の分」

彼女がすでに用意してあった小瓶を青年に渡す。ラベルには白の香と書かれていて、その名の通り、白い粉末が詰められていた。

「ありがとうございます」

感謝の言葉を告げる青年に、彼女が青年の頭を軽く小突く。額に人差し指を押し当て、すっと離す。かちん、と砂のような宝石のような粒が床に落ちた。

「………っ……!」

くらりと青年が目眩に襲われる。思わずよろめいた彼を横目に、床に落ちたそれを彼女が拾う。拾った粒を丁寧に箱にしまい、箱を棚に収める。箱の中には、同じ色の粒がぎっしりと詰まっていた。

「代償は受け取ったから、もう行っていいわよ」

「はい……」

ひとつ何かが抜け落ちたような、そんな顔で彼は小瓶を受け取る。

ふらふらと誘われるように出て行った彼の手にきつく小瓶が握られているのを認め、彼女は店の扉を閉めた。

「姉様。あの人は?」

客ですか、と妹の問いに頷く。

奇病に侵された娘を救うため、青年はこの薬屋に助けを求めた。その代償に彼の記憶を求め、彼はそれに応じた。好きな女のために彼は記憶を差し出したのだ。

「薬ひと瓶につき、記憶ひとつ」

薬と引き換えにして青年の額から落としたあの砂のような宝石のような粒は彼の記憶だ。

恋人を救うため、薬の代償として彼は少しずつ色んなものを忘れていく。

「彼は、救おうとしている娘が自分の婚約者であることを覚えているんですか?」

記憶を粒として渡している。粒は箱にしまわれている。箱には粒がぎっしりと詰まっていた。だとすると、彼はもうほとんどのことを覚えていないのではないだろうか。

ただひとつ、願いを叶える唯一の手段である"娘に薬を届けること"しか覚えていないのではないか。

あの粒が記憶の断片ならば、かなりの記憶を明け渡している。生まれや育ちすら忘却しただろう。自分の名前すら怪しいのではないか。

「そうかもね」

だとしても、それは彼女に関係のないことである。ゆるりと彼女は首を振った。

薬を得るために記憶を明け渡す。何のためにそうしてまでしているのか彼は覚えているだろうか。薬を渡す相手が自分の婚約者だと認識できているだろうか。

答えは否。その理解のための知識でさえ記憶として差し出したのだから。何のために、誰に、どうやって。それすらもう覚えていない。

ただ彼は、最後に残った一欠片の記憶に従い、この店に来て薬を受け取り、婚約者の娘に渡す。それだけを繰り返している。

「なんて……哀れな……」

「えぇ。そうね。だけどあの青年はこう言ったのよ」

これらのリスクはすでに最初に言ってある。どうなるかも懇切丁寧に説明してやった。

しかし、その条件を告げた時、彼はこう言ったのだ。

「大丈夫です。だって、彼女への想いは魂に刻んでいるんですから」

それにもし忘れてしまったとしても、彼女が愛を覚えているなら平気だと。そう自信満々に言ってのけたのだ。

だが、現実は。滑稽なことに説明の通りになった。魂に刻んでいるから忘れないと言っていた彼は娘への想いを忘れ、娘は娘で恋人を認識しない青年に愛想を尽かして愛そうとしない。語った夢物語とは真逆の結末だ。

「でも、治るのでしょう?」

ここは願いを叶える薬屋。代償が必要だが、どんな望みでもその通りになる。青年はあれほどの代償を払っている。ならば、娘は治るはずだ。

言い募る妹に、いいえ、と首を振って否定する。

「残酷なことに、娘の病は治らないの」

あれだけの代償を差し出しても、娘の病は治る気配を見せない。それは仕方ないことなのだ。

「どうしてですか、姉様」

本来なら治っているはずだ。ここは願いを叶える薬屋なのだから、治らないわけがない。

それなのに治らないとは矛盾している。それはどうしてなのか。さらに言い募る妹に彼女は答えを提示してやることにした。

それは、少し前の依頼に遡る。

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