【魂の主観】
からん、とベルが鳴った。
「つまり……他人に、なりすます……ってこと、ですか?」
「乱暴に言うとそうなるわね」
列車では空を飛ぶことはできないことはもうわかっただろう。
それなら、列車を捨て、空を飛ぶものになればいい。
理想の人生を自分が歩くことは不可能だとわかったのなら、理想の人生を歩んでいる者にすりかわればいい。
異性に囲まれたいのなら自らの美貌を磨くより、すでに異性に囲まれて暮らしている者に成り代わればいい。
地位を横取りすることでも、奪うことでもない。まるでぬいぐるみの綿を入れ換えるかのように中身をすげ替えるのだ。
「そんな…ことが…」
「できるのよ、この店ではね」
他人に成り代わる。この店ではそれができる。体は他人のものだが、魂と呼ぶべきものは自分のもの。肉体の着替えとでも例えればいいだろうか。
「自分の魂と呼ぶべきものをコピーして他人に植え付ける。体の中で魂の喧嘩が起きてしまうから、事前に獲物の魂は消してね」
魂と呼ぶべきものを完全に消去して空っぽにする。その後に自意識をコピーして植え付ける。それで成り代わりは完成する。
「マーナリカさん、あなたにとって、理想の人生を歩んでいる人を連れてこられる? それなら処置はすべてここで終わらせられるのだけど……」
それができれば、獲物から魂を抜き取って空にすることも、魂を移しとり植え付ける作業もここで済ませられる。
できなければ、魂を消去するための薬を獲物に投与し、自分の魂を移しとってから植え付けることを自分の手でしなければならない。
作業自体はそう特別難しいことではない。薬を飲ませたりさせるだけだ。
「理想の……」
妥協のない、幸せな人生。私がそうなりたかったもの。そう歩みたかったもの。
そう言われ、ぴんとひらめいた。仕事の上司だ。職場で実質的な最高権力を握り、部下をいいように扱う。美形の婚約者もいるとのことだ。上司の人生は自分の理想そのものだ。
その人に成り代わる。できるのか。なれるのか、理想に。
「ええ。……連れてこられるなら、連れてきて」
からん、とベルが鳴った。
後日、客は一人の女性を伴って再来店した。
話を聞かされていないのだろう、女性は不思議そうな顔で店主を見た。
「よく効く薬店ってマーナリカから聞いたんですけど……ええと、薬師さん?」
「ええ、まぁ、そうね」
女性の悩みによく効く薬を扱ってるのよ。たとえば生理不順とか。適当なことを言って彼女は2人の来客を応接用のソファに座らせた。
悩みを聞き、その問診を元に薬を処方する店なのだと口裏を合わせつつ、獲物となった女性に一杯の茶を差し出す。妹がぱたぱたと走ってきて茶菓子を机に置いた。
「私にだけ?」
「ええ。体内から体を清める効果があるの。……というとよく騙せる、ただのお茶」
「面白い人ですね」
初見客の緊張をほぐすための冗談か。白湯のような透明なぬるま湯に口をつける。ふわりと花の香りがした。
あぁ、いい匂いですね。そう言いかけた女性の言葉は声になる前に混濁し、どさり、とソファにくずおれた。
「……さようなら。アンジェリカ」
もう貴女の魂はそこにはないのだけど。
「それで、私はどうしたらいいんですか? 確か私の魂みたいなもののコピーを取って、それで、移植するって言ってましたけど、要は中身を移し替えるってことで理解は合ってます?」
「ええ」
未知的で神秘的で恐ろしげな存在にだんだん慣れてきたのか、元の冗長でまとまりのない話し口が戻ってきた。
固唾を飲みながら話すような、緊張しながらの話し方のままでいてほしかったのだが。
それはいい。さて、作業に進もう。魂を複写し、移す。そのための準備は済んでいる。
「それじゃ、こっちの寝台に寝そべって」
目を閉じて、軽く仮眠するくらいの間で終わっているわ。
意外と簡単なのだ。そう言って寝台に誘導する。それに従い、女は寝台に寝転がった。
完全に横にではなく、上半身側に角度がつけてあって、リクライニングができるようになっている。
心地いい角度になるよう調節してもらい、それから目を閉じた。再び目を開ける時、理想の人生を手に入れられるのだ。
「じゃあ、始めるわね」
からん、とベルが鳴った。
どこかで鳴ったその音に耳を傾けているうちに意識が曖昧になっていく。鉄が焼かれて熔けていくように、意識が融解する。
額に手を置かれたように知覚したが、曖昧になっていく意識の中で感じた錯覚かもしれない。
寝ているのか、それとも起きているのか。それすら曖昧のまま、たゆたう感覚に身を委ねる。からん、からん、とベルが鳴る音が曖昧な意識の中で唯一知覚できるものだった。
このまどろみが終われば、マーナリカ・ユルリエの妥協の人生は消える。マーナリカ・ユルリエはアンジェリカ・トレイシーの体を乗っ取って理想の人生を歩むのだ。
「はい。おしまい」
はっとして目を開ける。まどろんでいた意識が覚醒する。浮上した思惟を拾い上げて女はあたりを見渡した。
いつの間にか、小さな部屋にいる。部屋には自分が今寝そべっていた寝台以外、何もなかった。
扉すらない。体を起こせば部屋の外が見えた。さっきまでいた応接用のソファらしき背があった。
そこに店主はいて、誰かと話しているようだった。会話の中身は聞こえない。距離があるからだろうか。
「……それじゃあ、マーナリカ……いえ、アンジェリカさん。良い人生を」
「ありがとう、蛇の魔女さん。……あ、元の体は処分してくださいね」
「ええ」
からん、とドアベルを鳴らして誰かが店を出たのが見えた。否。あれは誰か、とてもよく知っている。うまいこと騙して連れてきたはずの上司だ。その上司が、朗らかに挨拶して帰っていった。
これはどういうことなのだろう。上司を見送った店主がこちらに向かってくるのを認め、拳を握る。
そして店主が口を開くより先に怒鳴り付けた。
「どういうことなの!?」
「どういうことなの!? 私は、アンジェリカに成り代わるって、ねぇ、まさか、騙したの!? 騙したのね、やっぱりそうなんだわ、この詐欺師!」
詰め寄る女の剣幕に動じた風もなく、肩に這わせた蛇の頭を撫でつつ彼女はゆるりと首を振った。
「理解力不足を私のせいにしないで。……ちゃんと依頼は達成したわ」
きちんとアンジェリカとやらにマーナリカの魂を複写して移し替えた。望み通り、マーナリカはアンジェリカの体で理想の人生を歩むだろう。
そう、"複写した"のだ。魂をまるっきり移し替えるわけではない。コピーはコピーで存在し、オリジナルはオリジナルで存在する。だが、どちらも同じマーナリカだ。記憶も意識も思考も、まったく同じ。
「たまたま"あなた"がオリジナルに残ったのね」
魂の主観とでもいうべきか。その視点は魂を複写した際にコピーへと移らず、オリジナルに残った。
だが嘆くことはない。安心するべきだ。コピーはマーナリカ・ユルリエの望む通り、アンジェリカになりかわることができたのだから。これからコピーがアンジェリカ・トレイシーとして理想の人生を歩むだろう。ただ"あなた"がそれを観測できないだけで。
「さて。……オリジナルは処分してと言われているよのね。大丈夫、貴女はこの店できっと活躍できるわ。この店は"人が足らない"もの」
ゆるりと蛇が肩から降りる。するすると床を這って静かに迫る。ひとの胴ほどもある巨大な蛇だ。人間などひと飲みにできるだろう。
「…そん…な…やめ、やめて……!!」
からん、とベルが鳴った。




