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【努力の血反吐】

「ごめんねぇ。いつもいつも」

「何言ってるんだよ母さん」

申し訳なさそうにする母に笑って薬を飲ませた。母は不治の病気を患っていて、その薬は非常に高価だった。収入のほとんどが薬代で消える。そのせいで生活はよくならない。そのことを気にして母はいつも謝るのだ。

だけど僕はそんなこと気にしない。今まで女手ひとつで育ててくれた恩に比べれば、このくらい。それにこんな困難など努力で乗り越えられる。生活は確かに苦しい。だが昼飯を抜くという努力をすれば食費が浮いて他の生活費に回せる。努力をすれば困難は乗り越えられるのだ。そして困難を越えた時、その経験は力になる。僕はそう信じているのだ。


からん、とベルが鳴った。

店内には不思議な煙がたゆたっていた。白い煙は不思議な香りを放って空間を満たしている。花の蜜のような香りが鼻をついた。

いらっしゃい、と店主である彼女は客を出迎えた。応接用のソファを勧めてその対面に座る。妹が茶と茶菓子を机に置いた。

「本当にこんな店あるだなんて……願いを叶えるというのは本当ですか?」

「えぇ。さぁ、あなたの望みはなぁに?」

ここなら全てが叶う。その代償に何を差し出してもよいのなら。目的のためにそれ以外のすべてを捨てる覚悟があるのならば。この声は破滅への誘惑だ。その問いに、客の青年はゆるりと首を振った。

「対決がしたいんです」

「対決?」

「はい。こんなものがなくても人は願いを成就できるのだという証明がしたいんです」

努力すればどんな困難でも乗り越えられる。そしてその経験は力になり、新たな困難を乗り越える。願いが叶わないと嘆くのは努力が足りない証拠だ。この店では何でも願いが叶うというが、願いの達成のためにこの店を頼るのは堕落である。

そう持論を展開する青年を彼女は表情一つ変えずに聞いていた。この手の理論を口にする人間には過去何百人と会ってきた。今更その論についてあれこれ議論するのは飽きた。

こういう輩の鼻っ柱を折るのが楽しいのだ。粋がってこちらを否定して調子づいた後にふとしたことで絶望し、自分が否定したものに縋らなければならない状況に追い立てるのが。とても。

「それで、どうやって対決するというの?」

「簡単です。僕にこの店のことを認めさせてください」

持論を肯定しこの店の存在を否定する青年に、持論を否定しこの店の存在を肯定させる。それで決着だ。それができれば彼女の勝ちで、彼女が根負けするまで認めなければ青年の勝ち。根比べだ。

「えぇ。わかったわ」

なんと単純な決定方法だろう。だがシンプルな分、いかさまを差し挟む余地がない。彼女が困難を仕掛け、そしてそれを青年が越えられるかだ。

頷いて了承した彼女は青年を店から送り出した。さぁ、どう運命をさばいてやろうか。


それから数日。青年の日常に別段変化はない。何か物事が仕組まれているという気配もない。何も変わらない日常だ。病気の母を気遣いながら、その治療費のために真面目に働きに出る日々。職場は小さな荘園だ。そこで庭師として働くのが彼の仕事であった。

「よぅ、新しい職場には慣れたか」

「グレイブさん」

薪割りの雑夫に声をかけられ、青年は花壇と向き合っていた手を止めた。新しい職場というのはここのことだ。以前は小金持ちの太った男の豪邸で働いていたのだが、どういうわけか没落して多額の借金を負ったために賃金が払えないということでクビになった。無職の困難は長かったが、それに立ち向かい努力し続けた結果、美しい貴婦人に雇われることとなった。しかしながら雇い主である貴婦人はある晩に全身から血を噴いて怪死した。地下室には凄惨な拷問器具が並び、夜な夜なそこで怪しげな儀式をしていたことが判明して事件となった。雇われていた使用人たちは散り散りになり、青年もまた同じく職を失った。再びの困難にも負けずに彼は努力を重ね、玉の輿となった寡婦の元でまた新たな職場を得た。だが、それも長くはなかった。次々と使用人がいなくなるという現象に耐えかねて寡婦の元を自ら去った。その現象の真実を突き止めていこうとした結果、寡婦の恐ろしい真実とそしてあの店のことを知った。

そこから、彼は人のつてをたどってこの荘園に庭師として雇われることとなったのだ。まったく、自分の人生には苦難が多い。だがその困難は努力で乗り越えられるのだ。きちんと力を尽くせばこうして報われる。

「奥様からだ。日没までにこの庭を整えれば賃金を上げるとさ」

意地悪な女主人は時折こうして使用人に難題を出す。とうてい達成できないような難しい課題だ。達成できなければ罰が待っている。難題が達成できない使用人に厳しい罰を与えることが女主人の趣味なのだ。

この庭を整えきるのにあと6時間はかかる。日没まではあと4時間ほど。手伝いを募ることは不可能。この達成は非常に難しい。だが、努力をすれば乗り越えられる。

「わかった、日没ぴったりに奥様を呼んでくれ」

確かにすべてを整い切るのは不可能。だが女主人がどこを点検するか、その癖を青年は理解していた。調べそうなところを優先してやればいい。調べないようなところは見た目だけ繕えば十分間に合う。

他の人間ならば一瞬で庭を整える術を求め、きっとあの店の扉を叩くはずだ。女主人の意地悪に耐えかね、女主人そのものをどうにかする手段を要求するかもしれない。なんと怠惰なことだろう。努力もせず、人に頼るとは。自分のように解決のための手段を講じればよいものを。

「さて、薔薇の植木から始めようか。奥様はまず薔薇をチェックするからな」


「姉様、あれだけ大口を叩いた人間に何もしないのですか?」

妹は彼女を顧みた。妹の肩に乗る蛇もまた、同じような表情で飼い主を見た。呪法で生まれた蛇は店主の忠実なしもべだ。主人に寄り添い、その人生を見つめながら同じように数百年を生きた。だから主人の思考などとてもよくわかっている。ああ言われて大人しく引き下がるほど、この"蛇の魔女"は穏やかではないことを。

だというのに、何も仕掛ける様子がない。あの鼻っ柱を折るために嬉々として困難を浴びせかけるかと思えば、ただ黙って安穏と日を送っている。一度、どこかしらに外出しただけで、それ以降は店にこもっている。

「大丈夫、もう終わるわ」

ゆるりと彼女は首を振った。たった一度きりの外出で行ったのは調べ物だ。調べたのは青年の名前であり、それを知ったその足で、彼女は山に訪れた。

そこは、世界に生きるすべての生物の寿命が記されているという山だった。山をくり抜いて作られた洞窟には無数の蝋燭が灯されており、そのひとつひとつに名前が刻まれている。蝋燭の長さは残りの寿命を表し、火の勢いは体調を示すという。彼女はそこからひとつの蝋燭を見つけ出した。

「それがあの青年の蝋燭で……ですか?」

「いいえ?」

それはあの青年の蝋燭で、それに仕掛けをしたのかと妹が問うた。

妹のその問いを彼女は否定する。あの蝋燭は絶対のものであり、折って短くすることや水をかけて火を消すことは不可能。蝋を継ぎ足して擬似的に延命する呪法は存在するが、相応の代償が伴う。

確認したのは青年の蝋燭ではない。あの男の母親のものだ。病気がちの老人の蝋燭は非常に火勢が弱く、そして指の厚みより小さかった。見立てでは、もってあと数日。

それから数日が経っている。つまりあの蝋燭は燃え尽きていてもおかしくないというわけだ。蝋燭が消えるということは、死を意味する。

「生きがいでもある母の死……それですら、努力で乗り越えられるかしら?」

ほら、と彼女は笑みを深くする。駆け込んでくる音が聞こえてくる。だが応じる気はなかった。術でもって戸に鍵をかけ、客を締め出す。

対決が始まってまだ10日にも満たない。だというのにもう終わらせてしまうのか。しかも負けという結果で。ほら、これくらい大好きな努力とやらで乗り越えてみせればよいではないか。

「幸いにも私は人間の努力が大好きなのよ」

絶望に対してあがく姿を見ることがが何よりも。店に縋ることを怠惰と切り捨てるくらいだ。見せてもらおう、努力で困難を乗り越える様を。流れ落ちる砂に抗い、流砂を掻いて登るようなおびただしい努力を。


「人間の価値なんてそれくらいしかないんだから」

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