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【獣王の角】

この店は砂漠の都にある。

人通りから離れた裏路地の先にあるこの店には誰もが立ち入れるわけではない。まるで闇に潜むささやかな息遣いのようにひっそりと佇む店は選ばれた者しかたどり着けない。何を犠牲にしてでも叶えたい願いがあると強く願った者の前にしか店の入口は現れない。それこそ、莫大な砂の山を掻いて登るほどの膨大な努力を惜しまない者にしかだ。

たゆたう蜃気楼の中にあるような店はまるで流砂のように足を絡め底に引き込む。引き込まれた者は二度と上昇しない。掻くこともできず、そのまま漠々たる流砂に飲まれて歴史に沈んでいく。

砂の都の薬店は今日も門戸を開いて待つ。砂を掻いて足掻く人間を待ち構えるために。


からん、とベルが鳴った。

どたどたと駆け込んできた少女は必死の形相で縋り付いた。

「助けてください! 死にたくない、死にたくないんです!」

「落ち着いて」

店主である彼女は少女をなだめて応接用のソファに座らせた。気分が落ち着くようにと妹が薬湯を差し出して少女に飲ませた。それでようやく落ち着いたのか、少女は改めて口を開いた。

「死にたくないんです」

少女の故郷は小さな島だった。そこで平和で平穏な日々を過ごしていた。だがある日、その安寧は壊れた。島には虐殺と破壊の災禍が降り注いだ。ついさっきまで世間話をしていた隣人の死体を振り切り逃げてきた。死にたくないとただそれだけを強く願いながら。

安全なところを求めてひたすら逃げた。島の裏手の湾口にある小船で島を離れて。だが島を脱出するだけではだめだった。この世界には死と危険が満ちていた。何処に逃げても安全など存在しなかった。

「だって、あの肉切り包丁が家畜ではなく私に振り下ろされないと誰が言えるでしょう」

もはや少女にはただの安全では安心できなかった。調理するための包丁でさえ少女には自分を害する凶器に思えた。

机に置いてある鋏が何かの拍子で滑って胸を貫くかもしれない。会話をしている相手が急に態度を変えて隠し持っていた凶器を振り下ろしてくるかもしれない。そんな強迫観念が少女に常に付きまとう。少女にとって身の回りのすべては恐怖の対象であった。

そんな恐怖に苛まれる日々はもうこりごりだ。何にも害されない圧倒的な安全がほしい。完全に保証された安心でなければならなかった。自分を害しうるものをすべて排除したい。それが少女の願いだった。

「わかったわ」

叶えましょう、と。彼女は言った。

少し席を外すと言い残し、ややあって彼女が箱を抱えて戻ってくる。

漆を塗り込めたように黒い重箱には持ち運びがしやすいよう取っ手が付けられており、そこに鐘が結わえつけられている。

その箱を机の上に置き、封として結ばれていた朱と紺の紐を解き、蓋を開けた彼女の指が滑る。ずらりと並ぶ中からひとつの小瓶を取り出した。中には白い粉末が入っている。

「これを飲めば貴方の願いは叶うわ」

獣王と呼ばれる、世界で最も強い生き物の角を削って粉にしたものだ。飲むなり吸うなり、とにかく体内に入れさえすれば獣王の力を得て何にも侵されぬ強靭な肉体が手に入るだろう。人が普段ものを食べ、その栄養を体内に取り込むように、強靭な生き物を食べれば強靭な肉体が得られるはずだ。

「ありがとうございます、あの、お代は……?」

「いいえ結構」

彼女はゆるりと首を振る。ひとと価値観の違う種族である彼女にとって、ひとの価値観の中のもののことなどどうでもよかった。

「注意点がひとつあるわ。この薬は微量で効果を発揮する」

小瓶ひとつぶん渡したが、実際はひとつまみ程度で十分。それで1週間もつ。来週になればもうひとつまみ飲む。それで望みは叶う。

「なくなれば取りにきてちょうだい」

「わかりました。…あの、本当にありがとうございます」


何度も礼を述べ、大事そうに小瓶を抱えて店を出て行く少女の背中を見送り、彼女はそっと微笑んだ。

「また何を仕込んだのですか、姉様」

「ただのテストよ」

咎めるような妹の口ぶりに肩を竦める。暇潰しに仕掛けたちょっとした試練だ。

人間がどれほどあの誘惑に勝てるだろうか。ひとつまみ程度を毎週などという手軽さに負けるだろうか。飲んでいるうちに力に慣れ、より力を求めようとするはずだ。飲んでいるうちに耐性がついてしまったのではと錯覚し、次第に量が増え飲む頻度が増える。あの粉末は何度飲んでも耐性がつくことはないのに。

耐性がついて麻痺していくのは身体ではなく心だ。激化していくのは薬ではなく欲望だ。

何にも害されないようにと望むままに少女は薬を飲んでいくだろう。1週間に一度、ひとつまみと言ったその服用量がどれだけ増えるだろう。頻度がどれだけ増えるだろう。

人間の身体では1週間に一度、ひとつまみが限界。多少は耐えるだろうが、その服用量を越えれば待つのは破滅。獣王の力に飲み込まれ、異形と呼ぶしかない化物と成り果てる。

そうなった元人間の異形の生首は闇の力を宿す素材となる。力を求め、飢える人間の執念が宿る大餓の口だ。

「楽しみだわ」

いつ堕ちるだろうか。楽しそうに店主は笑った。


足りない。

この程度では足りない。もっと力が欲しい。誰にも害されない力が欲しい。こんな1週間に一度程度では安息には足りない。安全とは言えない。薬が切れかけたその時に襲われれば死んでしまう。だから切れないように追加は早めに飲むとしよう。

5日に一度。それで安全だろうか。3日に一度。それで安全だろうか。2日に一度。それで安全だろうか。毎日。それで安全だろうか。半日。それで安全だろうか。

量はこれで足りるだろうか。たったひとつまみで。もう少し。それで安全だろうか。スプーン1杯程度なら。それで安全だろうか。瓶半分。それで安全だろうか。小瓶ひと瓶。それで安全だろうか。

足りない。もっと。もっと。足りない。死にたくない。足りない。もっと力を。死にたくない。無残な犠牲になりたくない。死にたくない。

圧倒的に。足りない。飢える。足りない。足りない。もっと。足りない。もっと。足りない。強く。足りない。強靭な。足りない。誰にも害されないよう。足りない。飢える。苦しい。

足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない。


不安恐怖症の獣は夜空に吠えた。

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