【安息の時】
朝。彼女の目覚めは至極最高だった。とてもいいことが起こる。吉報の気配だった。喜ばしく嬉しく好ましいものが実体をもって歩いてくる。そんな感覚だった。
「おはようございます、姉様」
「おはよう」
妹と挨拶を交わす。とても気分がよかった。
きっといいことが起きるだろう。その予感は程なくして当たる。裏口から誰かが入ってきたことを感じ、喜んで迎え入れた。
「ただいま」
それは、彼女の運命が結び付けられてしまった男だった。最愛の運命を決定づけられてしまった人間。彼の死は彼女の死に繋がる。
「リズベール」
彼女の種族で用いられる外界共通の名前ではなく、本名で彼女を呼ぶ。
名前を呼ばれた。それだけで彼女はたまらない気持ちになった。これが結び付けられた者の麻薬に似た幸福だ。自由と引き換えに得た麻薬的幸福。これを拒否すれば訪れるのは自由と永遠の枯渇。
「あぁ、お前たちも」
彼女の肩に這う黒蛇の頭を彼が撫でた。ひと撫ですると鱗の色が変わった。白蛇も撫でた。
彼女の従者たるこの蛇は、黒と白の2匹の蛇の魂がひとつの身体に同居している。どちらが表に出るかで鱗の色が変わる不思議な特性を持つ。呪術によって生み出された禍つ蛇だ。災厄の象徴であるということは、災いを呼び寄せるだけでなく跳ね除けることもできる。故に彼女の従者として生み出された。
「それで、ええと、君が……リグラヴェーダちゃん?」
手紙で聞いていた。妹が新しくできたこと、生まれたばかりの妹がヒトの世を習うために住みこみ始めたこと。
成程これが妹の少女か。彼女の種族の慣習をある程度知っている彼はすんなりとその概念を受け入れた。
「はい、はじめまして。姉様の運命の人」
ぺこりと頭を下げて挨拶をひとつ。姉の伴侶なのだから義兄と呼ぶのだろうか。しばらく考えた後、ヒトの世でヒトに混じったとき、そう形容した方がいいだろうと判断してそうすることにした。
「こちらこそ。リズベールは厳しくしてないかい? こいつらに意地悪なことはされてないか?」
「ちょっと。ひとを何だと思っているのよ」
「いやぁリズベールって教え子には厳しい性格だからつい」
教える立場になると威圧的になりがちだ。彼女の種族の慣習を教えてもらった時もそうだった。
そう指摘する彼に彼女はやれやれと肩を竦め、気持ちを切り替えて話を変えることにした。
「それで、今回は何を持って帰ってきたの?」
彼は各地を旅する行商人だった。彼女とこういう関係になってからはそれも引退したが、時折こうして冒険欲が抑えられなくて数日旅に出る。その先で珍しいものを手に入れては彼女に渡す。そういう生活をしていた。
「今回は"星の砂"と…人面草の若葉、あとはいわくがありそうなものだけど…血塗れの日記…の、灰だ」
全身から血を吹き出し絶命したという女がつけていた日記だ。永遠の若さというものへの執念が書き綴られた書物は供養として燃やされたものだ。その灰を少しいただいてきた。
小瓶に入れられた灰は一見すればただの灰だ。だがとんでもない執着を秘めた呪いの道具となる。もうすでに日記の処分に関わった者が死んでいる。どれもが若い女だ。
「あらあら」
なんとも恐ろしいものだ。そう感想を漏らした彼女は灰の小瓶を受け取った。確かに強烈な呪いの気配を感じる。だがきちんと扱えば災禍は守護に転じる。災厄の象徴である蛇が彼女の従者であるように。
「……血の日記って…」
心当たりがある。ぽつりと妹が呟きを漏らした。全身から血を吹き出して絶命する薬をついこの前姉が客に渡したような。
いやまさか、と思いつつ姉を見上げる。彼女は意味深に微笑むだけだった。
「あとは噂話なんだが…」
ついでに土産話をと旅の様子を語る彼が声を落とす。
曰く、まだ噂程度だが新種の亜人が発見された、と。淫魔に属するそれは驚異的な生命力と薬学知識を持つという。
「リズベールの知人だろう? 行っておいで」
彼女の種族について彼女本人から知らされている彼は、彼女を促した。
あれは歴史に埋もれて隠れるべき種族だ。知られてはならない。だからこそ彼自身も彼女のことを吹聴しない。人前では只の人間として扱う。
運命に結び付けられた者として生態を知るのは許されるが、それを吹聴するのはあってはならない。それを吹聴すると待つのは隠蔽による自身の死、ひいては彼女の死だ。
「…えぇ」
促され、彼女は立ち上がる。"蛇の魔女"と呼ばれる彼女は鐘を手に取った。
「おいで、シアンドール」
真名を呼んで妹を促す。滅多なことでは呼んではいけない真名を呼んだということは、滅多なことが起きたのだと悟り、姿勢を正す妹に外套と鐘を渡す。
「……知識にあるわね?」
これがどういうことか、誕生の時に刷り込まれているはずだ。はい、と緊張した面持ちで頷いた。
からん、からん、と何処からかベルが鳴る音がする。これは、同胞を呼び寄せる合図の鐘だ。滅びをもたらすための鐘。それが鳴るとどうなるか、知識にしっかりと刻み付けられている。
「それじゃ、行ってくるわ」
「行ってきます」
黒い外套をまとって彼女たちは外に出た。
からん、とベルが鳴った。




