【始まりの卵】
からん、とベルが鳴った。
自分が何者であるか、生まれた瞬間に理解した。目を開けると同時に、自らの種族とそれにまつわる生態と文化、知識を得た。
そう、だからここが"暗い"場所であることを知っている。ここは我らが生まれ、そしていずれ逝く場所なのだ。
闇の中を進むと何があるか。始めから頭に刷り込まれている知識をなぞって進む。記憶している情報の通りに、闇の出口にはベルを持った女がいた。
彼女は闇の中からまろび出た自分を抱き締め、柔らかな布でくるりと包んだ。この布は服だというものだと知っている。どう着用するものかも常識の手の上だった。
「あぁほら、ずっと下肢を晒すものじゃないわ」
ヒトのものに慣れておかないと。そう言われ、自分が蛇の下肢でいることに気付く。
これは我らとして自然な姿であるが、その生態上、ヒトのものに擬態する必要があるのだ。
こくりと頷き、地面を蹴るように足をひらめかせる。蛇の下肢ではできようもないことだが、ヒトの足の形を想像すれば"そう"なる。
頭で想像した通りに、ひと振りでヒトの足に変わる。この変化の方法も理屈もまた、目を開けた時に理解した物事のひとつだ。
我らはヒトではなく、亜人である。ヒトならざる存在である。種族としての名称はなく、ただ便宜的に我らは我らと呼称する。
その生態はヒトを餌とする淫魔である。長命を持ち、卓越した知識を持つ我らはヒトに見つからぬよう存在を隠さねばならず、それでいてヒトと交わらなければならない。
「名前は……そうね、何か"知って"いる?」
自らの名前と定義される単語を覚えているだろうか。そう彼女は問うてきた。
誕生の際に刷り込まれる知識の中に、自己の名前が入り込むことがある。肉体ではなく魂そのものに名前が定義されるとそうなるのだ。強い自我を持つと、まるで焼き印のように鮮やかに魂に名前が刻まれる。
我らは魂を保持したまま肉体を替えて転生する蛇であるがゆえに、そういうことが稀に起きるのだ。
「いいえ、ありません。クァウエル姉さん」
彼女はクァウエル。姉である。名前も関係もすでに知識の中にあった。姉といっても血縁はない。我らは分娩によって繁殖する生物でないので血縁は存在しない。姉妹という呼称は単に年上か年下かを示す符号だ。自分は今しがた生まれたばかりなので、同胞はすべて姉になる。そしてこれから生まれてくる同胞を妹と呼ぶことになる。
彼女をクァウエルと呼んだが、そう呼んではいけない。真名は伏せておくものだ。人生を委ねてもいいと思える運命の相手くらいしか呼んではいけないのだ。だから呼ぶときは二つ名に似た別称に姉か妹をつけたもので呼ぶ。目の前の彼女ならば、魔淫の女王、もしくは至姉と。
「そう。じゃあ名を与えましょう」
真名を。そして通称になる別称を。それらの定義により、改めてこの世の誕生を迎える。それが我らの誕生である。
「そうね。外では雪が歌っているから…」
吹き荒れる氷雪による風の音を歌にたとえ、別称には詩の文字を入れよう。そう彼女は言った。この名付けにより、自分はこれから詩姉ないしは詩妹と呼ばれることが決定した。
「真名は……シアンドール。シアンドール・ミーズル」
いつかできるであろう運命の相手に呼んでもらいなさい。そう言われ、頷いた。
運命の相手というのは単なる例えではなく、長い生の中で遭遇する試練のことを指している。その試練が何であるかということも、取れる選択肢が何であるかということも言われずとも理解していた。
いつかその試練が訪れるのだろう。それがいつかは未定であるが。その時が来るまで真名の存在はしまっておくべきだ。
今しがたつけられたばかりの真名を記憶にしまい、改めて生を受けた肉体と魂で歩き始めた。誕生の名付けが終わったらここから出なければならない。ここは魂が肉体を替えて転生するための場であり、これから誕生するもののための空間だ。とっくに誕生を迎えたものがいていい場所ではない。
だから歩く。進んだ先には同胞が新たな妹を迎えるために待っている。そうして姉たちからの歓迎を受けた後、ヒトの世に混じって生活している姉のもとに向かうのだ。
ヒトの世で生活している姉のもとで、ヒトの世で生活するための技能を学ぶ。それだけでなく、誕生と同時に刷り込まれた知識以外のことも学習する。
刷り込まれた知識は刷り込まれただけで体験に伴う実感がない。火は熱いということを知っていても焼かれる感覚は知らない。知識と実感を一致させるためにも姉のもとで生活することは必須なのだ。
「至姉。私の受け入れ先は何処なんです?」
あくまで刷り込まれた知識は基礎的な情報だけだ。名付けの儀式をするためにやってきた至姉のことは知識の中にあったが、それ以外の姉のことなど知らない。ましてや、ヒトの世を学習するまでの受け入れ先になった姉など知るはずがない。
生まれたばかりの妹を眺めながら道を行く姉は形のいい唇を持ち上げた。
「"蛇の魔女"よ」
からん、とベルが鳴った。
妹が一人増えたと報せが届いた。その報せを告げる手紙には、妹がヒトの世に慣れるまで世話してやってほしいと書き添えられていた。
姉の言うことならば従おう。そう言って彼女は新たな同胞を歓迎することにした。手紙を読み終え便箋にしまったタイミングを見計らうかのように、とんとん、と扉が叩かれる。
「蛇の魔女の姉様」
成程これが新たな妹か。彼女はゆるりと扉を開けて妹を迎え入れた。
「ようこそ。リグラヴェーダ」
リグラヴェーダ、と。真名ではないそれは我らがヒトの世に交じる際に用いる仮の名だ。
真名は大切なものであり、そして姉妹の呼び方は同胞間のみのもの。同胞以外から呼ばれる場合の名前として用いるのが、リグラヴェーダという名前だ。例えるならば偽名に相当する。
「これからよろしくお願いいたします、魔女の姉様」
「えぇ。よろしくね、詩妹」
さぁ、新たな妹を迎え入れたところで始めよう。そう言って彼女は妹を室内に導き、扉にベルをかけた。
室内は暗く、壁には天井まで届くほどの高い棚がある。棚は大小様々な引き出しやガラス戸が取り付けられていた。棚に囲まれるようにして部屋の中央には応接用のソファと机がある。
「姉様、ここは何をするところなんですか?」
「ここはね、薬屋よ」
ぐるりと中を見回す妹に答える。ここは何でも願いを叶える薬屋だ。砂を掻くような無限の努力に身悶え、血反吐を吐いて絶望の底で慟哭するような人々に差し伸べられる救いの手である。
妹にはこの薬屋での生活を通してヒトの世に慣れてもらうつもりだ。ヒトとは何かと、知識だけでは理解できないモノを感じてもらう。かつて彼女も同じようにたどった道だ。
「ほら、早速お客様よ」
歓迎しなければ。出迎えの用意をする彼女の肩に黒く巨大な蛇が這った。慣れるまでは後ろで見ているだけでいいと言うと、妹は素直に頷いた。そして、ちょこんと縮こまるようにソファの片隅に座る。
からん、とベルが鳴った。