由良透子は、そこに居る
トラブルで今年も間に合わなかった……とほほ。
裏野ハイツ203号の私の部屋に、刑事を名乗る女性と男性の二人組が訪れたのは六月の半ば頃だった。
その日は朝から部屋で大学の課題を片付けていたが、随分と表が騒がしい、とは思っていた。
しかし、まさか警察が来ていたとは思いもしなかった。
お決まりのように彼らの身分証明を見せられたあと、上司らしい女性刑事が私にその事実を告げた。
「隣の部屋の住人が、貴女の部屋を盗撮していたようなんです」
隣の部屋の住人。
顔も見た事が無かった。
大学進学の為にこの街にやって来て、住み始めたのが三月の末。家賃は月約五万と少々高めだが、交通の便が良いのと、部屋の広さと水回りの設備が良いのが気に入った。
他の四室には挨拶で顔を見ていたが、隣である202号室だけは出会えなかったのだ。
それから三か月弱。大学での新生活に振り回されていた事もあって、隣の事はすっかり忘れていた。
「……盗撮、ですか?」
「はい」
「そう言うのって、刑事さんが担当する事件なんですか?」
「……実は、数日前に隣の住人である男性が違法薬物所持の疑いで署に拘留されました。それで、鑑識と共に家宅捜索を行っていたんですが。その過程で、PCの中に画像フォルダがありまして、調べてみると貴女の部屋の中を盗撮していたらしいんです」
思わず顔をしかめる。
「盗撮って、ベランダの窓からじゃないですよね」
「ええ。手の込んでいる事に、隣接する壁から埋め込まれています」
もしそうだとすると、とんでもない手間だ。
築三十年。防音も断熱も一応入っている。それに穴を開けるなんて結構な大工事だ。
「貴女が入居したのは三月末、ですよね?」
「はい」
「その前に、空き部屋だった時に仕込んだようなんです。鍵はどうやったのか前に合鍵を作っていたようです」
……何て事だろう。まだ羽目を外すような事はしていないものの、部屋の中で普通に着替えをしたりお風呂上りにバスタオル一枚で歩き回るなんて普通にしていた。もちろん裸になった事も何度もある。
見られていた? 顔も知らない男に。
「それで、物が物だけに、中身をチェックする為に貴女に同席して頂きたいんです」
「……証拠品として持ってかれたりするんですか?」
「一応はそうなります。もちろん厳重に管理して流出しない様にはしますし、刑が確定したら早急に消去します」
警察が押収した物品で不祥事をよく起こしているだけに、その言葉に不安しかなかった。
画像データなんて簡単にコピーできる
と言うか、隣の住人がすでに動画をネット上にアップしている可能性だってある。
「その辺りも違法行為なのでこちらで調査します」
私は二人に付き添われるように隣の部屋に入った。
酷い部屋だった。
明らかにゴミ出しも掃除もしていない。
部屋の片隅には天井に届くほどのコンビニ袋と宅配ピザの箱の山。
キッチンシンクは料理をする場所ではなく、単なるゴミ置き場になっていた。
『汚部屋』と言う奴だろうか。主に女性住人の部屋に使う言葉だったかもしれないが。
それでも捜査の為、空間が確保されていた。
まさか容疑者の部屋に清掃業者を先に入れる訳にもいかないだろう。また、ゴミ袋の中も調べなければならないのだから、警察もご苦労さまである。
そして、このごみ溜めのような部屋の中で異彩を放つかなりハイスペックなPCの前で、女性刑事が画像を呼び出した。
まあ、男性に見られるよりはマシか。
意外な事に、と言うべきか。
動画は膨大な時間が録画されているのではなく、編集された物が幾つもあると言う状態だった。
……まあ目的の物が映っていなければ編集して捨てるか。
そう思いながら、一番古い動画をクリックする。
日付は私が入るより少し前の三月半ば。編集された動画の日付は飛び飛びになっている。
違和感に気付いた。
……私が入るより前?
カメラを仕込んだのは空き室の時だった筈だ。
誰も居ない筈の部屋を、この部屋の住人は録画した。
それはいい。実験的な録画をする事はあるだろう。
……でも。誰も映っていないデータを残しておくだろうか?
動画が映しているのは窓側の六畳洋室。寝室として使う部屋だけど、まだ私が家具を入れていない状態。備え付けの物だけが映る殺風景な状態だった。
画像の状態は思っていた以上に良い。
これが私が入居した後なら、もちろん寝姿や着替えを撮られている筈だ。
鳥肌が立ちそうな想像をしたが、別の違和感が拭えない。
やがて時刻は夜になる。当然誰も居ない部屋の中は暗い。
どうしてこんなデータを残しているのか。
その理由は、すぐにわかった。
闇の中から染み出るように、それは姿を現したのだ。
暗闇の中に浮かぶ白い顔。と白い腕。
闇の中なのに明らかに女とわかるシルエット。
黒いドレスのような服を着た女。
それが突然部屋の中に現れたのだ。
「……売春、なのか?」
女刑事が呟く。
空き部屋を利用した違法売春では、と考えたのだろう。合鍵が存在する以上、そう言う可能性はあるのかもしれない。
でも。それは絶対に違う。
闇に浮かぶその白い顔。
輪郭も、頬に零れる髪の毛もはっきりとわかる。
こちらを、隠しカメラを見ている、筈の瞳の部分が。
丸く窪んだ穴だと言う事も。
やがて女は闇に溶けるように消えた。
何が映っていたのか。
半ば思考を放棄しながら他の動画もチェックする。
編集された動画に、私は全く映っていなかった。映っていたのは全て同じ女。
私が部屋に居ない時に、その女は部屋の中に居た。
時にはカーテンを閉めた薄暗い部屋の中。
時には私が入浴している最中の部屋の中。
黒いドレスを着た、目の部分にぽっかりと穴の開いた女が映っていた。
霊のようなあやふやな物ではなく、しっかりと実体を持った存在が。
最後の動画は未編集の状態だった。
女はカメラに近付いてくる。
獲物を見つけた様な、笑みを浮かべて。
そして。
彼女が身に纏っているドレスだと思っていた物が、黒いゼリーのように波打ち蠢き、無数の蹄を持つ触腕や獣の牙を持つ口を浮き出した光景を、私たちは目の当たりにした。
何を見たのか理解できない。
それは女刑事も同じだった。
ホラー映画のような動画を見せられた事に、思考が停止したようだった。
心臓だけが割れるかと思うような勢いで胸を叩き続けている。
部屋を調べていた他の刑事が、PCの前で呆けていた私たちに声をかけた。
「住人の手書きのメモです。……どうしました?」
「……え、ああ。うん、まあちょっと予想外の物が映っていたんだよ。それで?」
挙動不審にならないように声を押し殺しながら、女刑事は部下に問い返した。
「ええ。薬の入手先らしいメモと……それから……」
「それから?」
「……日記です。ブログだツイッターだって時代にまあ妙な話ですが」
「いや、ネットに繋げないような秘密は手書きで残す事もあるさ」
確かにその日記はネットに繋げないような内容だった。
解読するのも困難な書き殴りで、行も無視した支離滅裂な言葉がびっしりと敷き詰められている。
「……いかれてる」
初めのうちは隣室から感じる不安を書いていたが、終わりになる事には、文字を書いていると言う認識すらなかったのではないだろうか?
その中で、辛うじて読み取れた言葉があった。
それは幾つも、幾つも、全てのページに必ず一言記されていた。
由良透子はそこに居る。
隣の住人は薬物取締法違反と盗撮の疑いで逮捕。もっとも精神状態は悪く、真面に法廷に入れない状態が続いてるらしい。
そして由良透子と言う名前も、警察から調査結果を聞いた。
何年か前に203号室に住んでいたキャバクラ嬢で、何かの宗教にハマった挙句、行方不明になったのだそうだ。
だが、行方不明になったんじゃない事はわかる。
由良透子はずっと203号室に居た。
何か、人ではないモノと変わり果てて。
どうして?
なぜ?
そんな事はどうでも良かった。
私はその日から部屋に戻らず、ごたごたが収まった頃に部屋を解約した。
もっとも。
私はもう手遅れなのかもしれない。