第9話 法的根拠はありません
「本日の式典にて、特別功労者として——ロザリア・ブレナン殿をお招きしております」
司会官の声が、広間に響いた。
国王主催の軍功式典。年に一度、戦功を挙げた将兵とその支援者を讃える公式行事だ。私がここに招かれたのは、三年前の北方疫病の際に薬草の緊急調達を成功させた功績によるものらしい。推薦者の名前は伏せられているが、おそらく当時の薬草商会の主人か、あるいはエミール殿が裏で動いたか。
白い手袋をはめ直した。ドレスは新調したものではない。ブレナン家に残っていた母の形見を仕立て直した。派手さはないが、薬草染めの淡い緑が光の加減で品よく映える。マルタが一晩かけて縫い直してくれた。
広間は煌びやかだった。軍の高官、貴族、王家の近臣たち。かつて将軍夫人として何度も出席した場だが、今日は「ブレナン」の名前で立っている。肩書きが違う。けれど背筋は伸びている。
席に着くと、向かいの列にクラウス様がいた。
目が合った。
銀髪は変わらない。端正な横顔も変わらない。けれど目の下の影が深くなっている。疲れているのだ。戦場の疲れではない。将軍邸の混乱が、この人の表情にまで出ている。
その隣にアデーレ殿が座っている。軍服姿は凛としているが、肩が強張っている。社交の場は戦場とは違う。剣では切り抜けられない空気が、この広間には漂っている。
クラウス様が何か言いかけたように見えた。けれど式典が始まり、機会は流れた。
◇
功労者の紹介が始まった。
前線で戦った将兵の名前が次々と読み上げられる。勲章が授与され、拍手が起きる。私の番が来たのは、後方支援の部門だった。
「北方疫病の際、民間の薬草調達ルートを独自に構築し、軍の後方支援に多大な貢献をされました。当時の記録によれば、ブレナン殿は三日間で主要な商会との調達契約を次々と成立させ、必要量の薬草を前線に届けたとのことです」
広間が少しざわついた。知らなかったのだ。将軍邸の奥で何が行われていたか、大半の出席者は知らなかった。
「さらに、ブレナン殿はヴァルトシュタイン将軍邸において家政全般を統括し、軍の後方支援体制の民間基盤を構築されました。現在は独立され、複数の貴族家庭に運営支援を提供されております」
拍手が起きた。儀礼的なものだけでなく、本物の拍手が混じっている。薬草商会の主人が席から身を乗り出して拍手している。ウェーバー男爵家の執事長が深くうなずいている。
クラウス様を見た。
あの人の顔から、色が消えていた。
知らなかったのだ。この人は。妻が三日三晩眠らずに薬草を手配していたことを。妻が毎年、商会の主人たちと茶を飲みながら価格交渉をしていたことを。妻が毎晩帳簿に向かい、一銭の狂いもなく家計を守っていたことを。
全部知らなかった。全部、妻の笑顔の裏側で行われていたことを。
アデーレ殿が青ざめている。彼女は聡明だ。今、この広間で何が起きているか理解している。将軍の「盾」だったのは前線の兵だけではなかった。後方にも、もう一人の盾がいた。そしてその盾は、もういない。
壇上で小さく一礼した。笑顔は作らなかった。作る必要がなかった。ただまっすぐに前を向いて、「ありがとうございます」と一言だけ述べた。
席に戻る時、クラウス様と再び目が合った。あの人が何を考えているか、今度は読めなかった。怒りか、後悔か、困惑か。一緒に暮らして、結局この人の感情はわからないままだ。
わからなくても、もう構わない。
軽く会釈だけして、通り過ぎた。
◇
式典が終わり、広間から中庭に出た。
夜風が頬に冷たい。松明の灯りが石畳に揺れている。出席者たちの歓談の声が遠くに聞こえる。一人になりたかった。少しだけ。
「ロザリア様」
エミール殿が中庭の隅に立っていた。式典には法務官として同席していたはずだが、広間では一度も目が合わなかった。控えていたのだ。式典はロザリアの舞台であって、自分の出る幕ではないと。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます。あなたが推薦してくださったのですか?」
「いいえ。薬草商会のフーバー氏です。私はフーバー氏に、ロザリア様の功績を裏付ける法的資料を提供しただけです」
「それを推薦と言うのでは」
「法務官としては、事実の提供です」
また、法務官として。
けれど今夜、この人の声はいつもと違った。法律用語の硬さが薄い。声が少し低い。
「ランベール殿」
「はい」
「何か、言いたいことがあるのでは」
エミール殿が黙った。松明の灯りが眼鏡に反射している。ペンを持っていない手が、所在なく書類鞄の取っ手を握ったり離したりしている。
「法務官として申し上げるべきことは」
「法務官として、ではなく」
六話目と同じ言葉を返した。あの日、この人が初めて鎧を脱いだ言葉。
エミール殿が大きく息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
「法的根拠はありません」
声の端が、かすかに割れた。
「ただの、個人的な感情です」
松明の灯りが揺れた。夜風が二人の間を通り抜けた。
「最初に書類の最後に一行を書き足した時から。いえ——もしかしたら、あなたが『笑顔をやめたい』と言った時から。法的根拠はありません。合理的な理由もありません。ただ」
「ただ?」
「……あなたが笑顔を作らなくていい場所を、法律の外で」
言葉が途切れた。この人は最後まで言い切れない。いつだってそうだ。
でも、もう十分だった。
「行かないで」
私の口から出た言葉は、自分でも予想していなかったものだった。一度も言えなかった言葉。ずっと。クラウス様に言えなかった言葉。
でも今、言う相手が違う。
「行かないで、エミール」
初めて、名前で呼んだ。殿も敬称もなく、ただの名前で。
エミールが目を見開いた。眼鏡の奥の瞳が揺れて、松明の光を映して、それからゆっくりと、細められた。笑ったのだ。この人が、法務官の顔を完全に外して、ただの人間として笑ったのを、初めて見た。
「……はい。どこにも、行きません」
声がかすれていた。でも言葉は、一つも欠けていなかった。
中庭の松明が風に揺れている。二人の間に法律用語はもうない。書類もペンも要らない。ただ夜風と、松明の灯りと、ようやく本当の名前で呼び合えた二人がいるだけだった。
もう一つだけ、行きたい場所がある。明日、あの門を。最後にもう一度だけ。




