第8話 全部の書類の、最後の一行
エミール殿への手紙は、こう始まった。
『現在地不明。太陽の位置から推測すると東にいます。至急お迎えをお願いします。——ロザリア・ブレナン』
王都での二件目の取引の話のために出かけたはずが、商工ギルドに辿り着けなかった。地図は持っていた。地図の読み方も知っている。だが地図と現実の道が一致しない。あるいは一致しているのに、私の足が地図通りに動かない。
帳簿を一銭の狂いもなく管理してきた女が、王都の三叉路で二十分立ち尽くしている。太陽の位置から方角を割り出す能力はあるのに、その方角に歩いていく能力がない。
手紙を出してから半刻もしないうちに、エミール殿が現れた。息が上がっている。走ってきたのだ。法務官が、書類鞄を揺らしながら石畳の坂道を走ってきた。スカーフが首から半分ずり落ちていて、髪が額に張り付いている。
「ロザリア様。ご無事ですか」
「無事です。道に迷っただけです。三叉路のこの石像が目印だと思ったのですが、同じ顔の石像が三体もあるのです」
「……それは聖カタリナ像で、王都のこの地区には七体あります」
「太陽で東を特定できたのでしたら、そこから南に歩けば大通りに出ます」
「……知っていました」
「知っていらっしゃったのですか」
「南がどちらかわからなかったのです」
エミール殿が眼鏡を外した。レンズを拭いている。いや、拭く必要がないほどきれいなレンズを拭いている。笑いをこらえているのだ。こめかみが震えている。
「笑っても構いませんよ、ランベール殿」
「笑っていません。法務官として」
「法務官として道案内は業務外では?」
「……依頼人の安全確保は、広義には業務の範疇です」
広義にもほどがある。でも、この人の「広義」に助けられているのだから文句は言えない。
二人で大通りに向かって歩いた。エミール殿が半歩先を歩き、時折振り返って私が正しい方向に進んでいるか確認している。さりげないようでいて全くさりげなくない。
商工ギルドに着いて話をまとめた。二件目の顧客、グリム商会との帳簿整理の契約。商いが少しずつ形になっていく手応えがある。
◇
その夜、宿の部屋で書類の整理をしていた。
エミール殿から受け取った書類を時系列に並べる。離縁の相談を始めてからこの数ヶ月の間に、随分と紙が増えた。相談要約書、離縁届の写し、財産分与の計算書、商いの届出書、契約書の雛形。
一枚ずつ確認しながら、ふと目が止まった。
最初の相談要約書。一番最後の行。「お体にお気をつけてお過ごしください。」
次の書類。離縁届提出の通知書。最後の行。「新しい道が良いものでありますように。」
その次。財産分与の経過報告。最後の行。「季節の変わり目ですので、どうかご自愛ください。」
その次。商いの届出の控え。最後の行。「ブレナン様のご活躍を楽しみにしております。」
その次。グリム商会との契約書の添え状。最後の行。「本日の取引の話、お疲れ様でした。」
全部だ。
全部の書類の、最後の一行だけが、法律の言葉ではなかった。
一枚ずつめくり返した。法律用語が整然と並ぶ本文の最後に、一行だけ異質な文が紛れ込んでいる。インクの濃さが本文と微妙に違う。後から書き足したのだ。毎回、毎回。本文を書き上げた後、乾かした後、最後にもう一度ペンを取って。
書類の日付を見る。最初の一通は離縁相談の日。最後の一通は今日。数ヶ月の間、一度も欠かしていない。雨の日も、私が泣かなかった日も、計画が崩れた日も。
あの人は気づいていたのだろうか。自分が毎回の書類の最後に、余計な一行を書き足していることに。たぶん気づいていない。法務官として不適切だと知ったら、あの人は顔を真っ赤にして撤回するだろう。「個人的な感情を業務書類に混入させてしまい、大変申し訳ございません」とか何とか、十行くらいの謝罪文を書いて寄越すだろう。
書類を胸に抱いた。紙の角が肋骨に当たる。冷たい紙のはずなのに、温かい。
(この人は、最初からずっと——)
まぶたの裏が、じわりと熱くなった。泣いているのではない。泣くほどのことではない。ただ、誰にも気づかれなかった自分を、この人は書類の最後の一行で、ずっと見ていたのだと。それだけのことが、今、肋骨の内側が、じわじわと温かくなっている。
ランプの灯りが揺れる。書類の山の中に、もう一つ見慣れないものがあった。小さな包み紙。中にラベンダーの乾燥花が入っている。添え紙にはこうあった。
「宿の近くの薬草店で見つけました。ブレナン様のお好きな種類かはわかりませんが。」
花を届けてくれたのも、この人だった。
枯れた花瓶の代わりに。「待つ人の無事を祈る」ラベンダーの代わりに。ただ「好きな花を自分で選んでいい」という、それだけの意味を込めて。
◇
翌朝、宿の前でエミール殿と待ち合わせていた。今日の予定の確認と、書類の受け渡しのためだ。
朝の光の中に立つエミール殿は、いつも通り眼鏡をかけて、いつも通り書類鞄を持っていた。ただ今朝は首元のスカーフが少し曲がっている。鏡を見ずに出てきたのかもしれない。
「おはようございます、ランベール殿。昨日はありがとうございました」
「道案内のことでしたら——」
「それもですが。ラベンダーのこと」
エミール殿の手が書類鞄の取っ手を握りしめた。耳が赤くなっていく。首元まで広がっている。
「あれは——法務官として、依頼人の精神的安定は業務の一環です」
「ランベール殿」
「はい」
「さようなら、とは言いません」
エミール殿が固まった。
「また明日」
その言葉が口から出た時、自分の顔が動いているのがわかった。口角が上がっている。目尻が細くなっている。けれど今回は筋肉を動かしている自覚がない。
作っていない笑顔。
エミール殿が何か言おうとして、口を開けて、閉じて、もう一度開けて、結局「……はい、また明日」とだけ返した。声がかすれていた。
背を向けて歩き出す。三歩進んで、立ち止まった。
「……ランベール殿。商工ギルドは、こちらの方向で合っていますか」
「右です」
「右ですね」
「右です。石像を二つ通り過ぎたら左に曲がってください」
うなずいて、今度こそ歩き出した。方向は、たぶん合っている。合っていなくても、明日また会える。それだけで、足取りが軽かった。




