第7話 枯れた花瓶
商工ギルドの受付で名前を書いた時、「ブレナン」の字がまだ少し慣れなかった。
「ヴァルトシュタイン」と書き慣れた手が、四文字短い旧姓に戸惑っている。ペンが滑って最後の「ン」が少し跳ねた。受付の女性は気にせず書類を受け取り、奥の応接室を指さした。
エミール殿の案は明快だった。
「ロザリア様がこれまで培った実務能力——使用人管理、社交対応、物資調達、帳簿管理。これらは将軍邸だけでなく、あらゆる貴族家庭や商会で必要とされるものです」
家政指南役。聞き慣れない肩書きだが、要するに「家を回す技術」を他の家にも教える仕事だ。将軍邸で一人で培ったものを、商品にする。
「初期投資は最小限で済みます。必要なのはロザリア様の知識と信用だけです。薬草園はその収益が安定してから着手すればいい」
理に適っている。帳簿をつける側から、帳簿の付け方を教える側へ。頭の中で数字が回り始めた。帳尻の見通し、依頼先の見込み、最低限必要な引き受け数。
「私の名前に、そこまでの信用がありますか」
「あります」
即答だった。法務官にしては珍しく、エミール殿は迷わなかった。
「将軍邸の運営実績は、王都の社交界では知られています。疫病の年に薬草を手配したのがロザリア様だったことも。商人たちは特に、あなたの交渉力を評価しています」
知らなかった。自分の名前が、将軍邸の外でも知られていたとは。
商工ギルドの応接室で、最初の取引の話に臨んだ。相手はウェーバー男爵家の執事長。男爵夫人が社交に不慣れで、招待状の管理だけで屋敷が混乱しているという。
「半年分の社交暦の作成と、招待状の優先順位付けのテンプレートをご提供できます。加えて、使用人の業務分掌表の整備と、月次の帳簿確認を——」
言葉が自然に出てくる。将軍邸でやってきたことを、そのまま言語化しているだけだ。将軍邸でこなしていた日常が、ここでは商品になる。
執事長の表情が変わった。疑いの目が、感心の目になっている。
「……失礼ですが、ブレナン様は以前どちらに」
「ヴァルトシュタイン将軍邸で、家政を預かっておりました」
その名前が効いた。執事長が背筋を正す。将軍邸の家政を一手に担っていた女性。その肩書きは、離縁しても消えない。
「あの将軍邸の……。あの屋敷が王都の社交界で評判が良かったのは、失礼ながら将軍閣下のおかげではないとは思っておりましたが」
「お褒めいただき光栄です」
社交辞令ではない手応えがあった。執事長は実務の人間だ。実務の人間は、実務の価値がわかる。
最初の契約が取れた。月額の報酬は大きくないが、実績の第一歩になる。エミール殿が事前に用意してくれた証文の雛形がそのまま使えた。あの人は仕事が速い。
◇
契約を終えて廊下に出ると、マルタが待っていた。隣に見知らぬ女性が二人。
「奥様。将軍邸の侍女だったエルザとヘレーネです。離縁のことを聞いて、奥様のもとで働きたいと」
「マルタ……あなた、声をかけたの?」
「いいえ。二人が自分で来ました」
エルザが前に出た。二十代半ばの、真面目な顔をした女性。
「ブレナン様。私たちは将軍邸の奥様のやり方を間近で見てきました。あのやり方を、他の家にも広めるべきだと思っています。使用人として、ではなく、お手伝いとして、雇っていただけませんか」
仲間が増えた。帳簿の数字が動く。出費は増えるが、引き受けられる仕事も増える。計算が頭の中で回る。これなら、半年後には薬草園の初期投資も見えてくる。
エミール殿がギルドの入り口で待っていた。今日の契約書の控えを受け取るためだ。書類を手渡すと、エミール殿は中身を確認してからうなずいた。
「順調ですね」
「あなたの案のおかげです」
「私は法的な枠組みを整えただけです。中身を作ったのはロザリア様です」
素っ気ない言い方だが、目が合った時に眼鏡を直す手が少し震えていた。嬉しいのだ。この人は嬉しい時に、眼鏡を直す。
◇
夕方、マルタから手紙が届いた。将軍邸に残る知人経由の情報だ。
曰く——軍の後方支援物資の民間調達ルートが途絶した。ロザリア様が個人的な信頼関係で維持していた主要な商会が、離縁の報を受けて取引条件の見直しを通達してきた。商会側の言い分は「契約相手はヴァルトシュタイン家ではなく、ロザリア・ブレナン個人だった」。
読んで、喉の奥がつっかえた。あの商会の主人たちとは、何度も茶を飲んで、何度も値段の交渉をして、時には子供の病気に効く薬草の配合を教えたこともあった。商売の話だけでなく、互いの近況を語り合う関係を時間をかけて築いた。ヴァルトシュタイン家の看板ではなく、「ロザリアさん」という個人の信用で繋がっていた絆。
それが今、将軍邸の足元を崩している。私は何もしていない。ただ離縁しただけだ。でもそれだけで、少しずつ編んだ糸が一本ずつ解けていく。
手紙の続き。アデーレ殿が商会との再交渉を試みたが、「商売と軍務は別です」と一蹴された。剣を握る手で帳簿は握れない。戦場の英雄も、茶飲み話と帳簿の駆け引きの前では無力だった。
さらに——ロザリア様の部屋の花瓶が、枯れていたそうです。水を替える者がおらず、ラベンダーが茶色くしおれていた、と。花瓶の横にあった水差しは、奥様が最後に置いた位置のまま動いていなかったそうです。
手紙を膝の上に置いた。
奥歯を噛み締めていることに気づいた。あの花瓶。毎朝水を替えていた花瓶。薬言葉は「待つ人の無事を祈る」。もう祈る人がいない。もう待つ人もいない。水差しだけが、あの朝の続きのように立っている。
「もう、私の花瓶じゃない」
声に出してみた。声に出してみて初めて、それが本当のことだと胸に落ちた。寂しさとも諦めとも違う、もっと静かな感情。名前をつけるなら「手放す」という動詞が一番近い。
窓の向こうで日が沈みかけている。ブレナン子爵邸の夕焼けは将軍邸から見るそれより赤い。空が広い。遮る石壁がないからだ。
手紙を引き出しにしまった。明日は二件目の取引の話がある。ウェーバー男爵家の実績を引き合いに出せば、話は進めやすいだろう。エルザとヘレーネの手ほどきも始めなければ。
花瓶のことは、もう考えない。考えなくていい。私の手には今、自分で選んだ水差しがある。




