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さようなら、と言えなかった朝をもう繰り返さない  作者: 九葉(くずは)


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第6話 戻りません

 エミール殿が持ってきた書類は、いつもよりインクの匂いが濃かった。急いで書いたのだろう。


 ブレナン子爵邸の応接間で、エミール殿は椅子に浅く腰かけていた。背筋は伸びているが、いつもの落ち着きがない。眼鏡を直す回数が多い。法務官の顔をしているつもりだろうが、目の下に薄い隈がある。昨夜、遅くまで書類を作っていたに違いない。


「いくつか代替案を検討しました」


「お願いします」


「まず、ブレナン子爵家の資産から薬草園の初期投資を借り入れる案ですが、子爵家の現在の財政状況では難しいとお父上から伺いました」


「ええ。父は正直な人ですから。我が家が裕福でないことは、私が一番よく知っています」


 ブレナン子爵領は薬草の産地として知られているが、それは土地の特性であって家の財力ではない。母が亡くなってからは薬草園も縮小し、父は細々と領地を維持しているだけだ。


「次に、王都の両替商からの借り入れですが、離縁直後の元貴族夫人に対する貸し付けの審査は厳しく、担保となる不動産もブレナン子爵家のものですので」


「使えない、ですね。父の家を担保にはできません」


「はい。私も同意見です」


 エミール殿はうなずいた。書類を一枚めくる。


「三つ目の案です」


 少し間があった。エミール殿の指がペンの軸を回している。言いにくいことがある時の癖だと、もう知っている。


「もう一度、将軍邸に戻って交渉する選択肢があります」


 空気が変わった。


「ヘルミーネ様に直接お会いになり、家法の適用について再考を求める。ロザリア様の五年間の貢献を数字で示し、全額返還が双方にとって合理的であることを説得するのです。法務官として同席し、交渉をサポートいたします」


「戻りません」


 自分の声に驚いた。低い。いつもの丁寧語が、剥がれ落ちている。


 エミール殿が口を閉じた。ペンが止まった。もう何度目かは数えない。


「戻りません。あの家には」


 声が震えない。震えない。なんで震えないの。怒っているのに。怒っているはずなのに。五年前もそうだった。本当に怒っている時、私の声は震えない。凍る。感情だけが空回りして、声も手も追いつかない。


 エミール殿は善意で言っている。わかっている。法務官として最善の選択肢を並べただけだ。交渉という手段は合理的で、成功の可能性もある。


 でも「戻る」という言葉は、あの門をもう一度くぐれと言っているのと同じだった。


 笑顔を作って、お義母様の前に立って、貢献を数字で証明して、「どうかお金を返してください」と頭を下げる。あの家の空気を吸い、あの家の石畳を踏み、あの家の花瓶の横を通り過ぎる。水の替えられていない花瓶。枯れかけのラベンダー。


 想像しただけで、指先が冷えた。


 戻らない。戻れない。戻りたくない。


 ——戻りたくない、と思っていいのだと、ようやくわかった。ここまで来て、ようやく。


 あの五年間を思い出す。毎朝の笑顔。毎晩の帳簿。毎回の見送り。一度も「行かないで」と言わなかった。一度も「寂しい」と言わなかった。将軍の妻はそういう言葉を使わないものだと思っていた。思い込んでいた。思い込まなければ、立っていられなかったから。


 もうあの場所には、あの自分には、戻れない。戻ったら今度こそ、笑顔の作り方だけでなく、泣き方も怒り方も全部忘れてしまう。


 沈黙が降りた。応接間の時計が秒を刻む音だけが聞こえる。エミール殿は書類をゆっくり閉じた。


 長い間があった。


「……では、別の方法を探しましょう」


 エミール殿の声が変わっていた。法律用語の硬さが消えている。


「法務官として、ではなく」


 法務官として、ではなく。


 この人が初めてその盾を下ろした。「法務官として」という言い訳を使わずに、ただ「別の方法を探しましょう」と言った。


 その一言で、凍りかけていた何かが少しだけ緩んだ。


「あなたは、嘘が下手ですね」


 口をついて出た言葉に、自分で驚いた。そしてもっと驚いたのは、笑っていたことだ。口角を上げようとして上げたのではない。勝手に、上がっていた。


 エミール殿が目を見開いた。眼鏡の奥の瞳が揺れている。


「……何の嘘でしょうか」


「『法務官として、ではなく』。それ、法務官としての判断ですよね、結局」


「いえ、今のは——」


「冗談です、ランベール殿」


 エミール殿の耳が赤い。眼鏡を直そうとして、フレームを掴み損ねている。法務官の仮面が盛大にずれている。


 可笑しかった。計画が崩れて、資金が足りなくて、行き先が見えなくて。それなのに可笑しかった。この人の困り方が、真面目すぎて、不器用すぎて。


 この家に来てから、誰かを見て笑ったことがなかった。将軍邸での笑顔はすべて作り物で、中身のない器だった。でも今、腹の底から込み上げてくるこの感覚は、作ろうとして作れるものではない。


(この笑いは、作っていない。作ろうとしてもいない)


 それだけで、少しだけ救われた気分だった。



 エミール殿が帰り際、扉の前で立ち止まった。


「一つ、案があります」


「はい」


「まだ形になっていないので、きちんと整理してからお伝えします。ただ、薬草園に拘らなくても、ロザリア様の能力を活かす道はあると、個人的に思っています」


 個人的に。また、法務官としての枠の外から話している。


「それは法務官としてのご助言ですか」


「……いいえ。ただの——」


 言いかけて、やめた。この人はいつもそうだ。言葉が法律の枠からはみ出しそうになると、飲み込む。自分の感情を認めることが、何か法律に違反するとでも思っているのか。


 エミール殿は小さく頭を下げて、廊下に出ていった。靴音が遠ざかる。規則正しいが、クラウス様の足音とは違う。軍靴ではなく革靴の、静かな音。


 扉が閉まった後、マルタが茶を持ってきた。


「奥様。先ほどのランベール殿、耳が大変なことになっていましたが」


「見ていたの」


「お茶を運ぶ途中で、たまたま」


 マルタの顔は完璧に無表情だった。ただし目の端が緩んでいる。


 茶を一口飲んだ。温かい。窓の外にはまだカモミールが揺れている。昨日はうなだれて見えたその花が、今日は少しだけ首を上げたように見える。たぶん風向きが変わっただけだ。


 でも風向きが変わるなら、道も変わるかもしれない。方向音痴の私でも、風が吹く方に歩くことくらいはできる。


 エミール殿の「案」が何なのか、まだわからない。でも少なくとも、一人で考えなくていい。それだけで、昨日より呼吸が楽だった。

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