第5話 家法という名の鎖
「持参金の半額のみ返還。ヴァルトシュタイン家の家法により。」
エミール殿の手紙を、三度読んだ。文字は正確だ。読み間違いではない。三度目に読んでも、「半額」の二文字は変わらなかった。
朝の光が差し込む書斎で、私は計算を始めた。薬草園の再建に必要な初期投資。土壌改良の石灰、苗の仕入れ、水路の補修、最低限の人手。マルタの給金。父の屋敷の修繕費。
全額返還なら、ぎりぎり足りる計算だった。半額では足りない。何をどう削っても、足りない。
エミール殿の手紙は丁寧に経緯を説明していた。クラウス様の母、ヘルミーネ様が家法を持ち出したのだという。ヴァルトシュタイン家には古い慣習法があり、「婚姻五年以内で嫡子のない妻には、持参金の半額のみを返還する」と定められている。この家法は二百年前に王家の承認を受けており、法的に有効だと。
知らなかった。
婚姻の時、クラウス様は「家法は形式的なものだ、気にする必要はない」と言った。あの日の記憶は鮮明だ。婚姻届にサインをする前、顧問弁士が家法の概要を読み上げた。長い長い条文の中の一節。クラウス様は「古い慣習だ。現代では適用された例がない」と言い、私もそれ以上調べなかった。
政略結婚の相手に「あなたの家の法律を詳しく教えてください」と言うのは、信頼の欠如を示すようで、できなかった。初対面の夫に嫌われたくないという、そんな小さな気持ちが判断を曇らせた。今思えば、嫌われるも何も、最初から愛されてなどいなかったのだが。
あの時の自分が憎い。いや、違う。あの頃の私は、精一杯だったのだ。二十歳の私に、家法の隅々まで疑う余裕はなかった。
エミール殿の手紙には続きがあった。
「ヘルミーネ様は、お二人の間に子がないことを根拠に家法の適用を主張しています。法的には有効な主張です。ただし、一つだけ対抗手段があります。婚姻の不履行——すなわち白い結婚であったことを立証すれば、家法の前提である『正常な婚姻関係』が崩れ、家法自体が無効化されます。」
白い結婚を公にする。
それは、クラウス様の名誉を地に叩き落とすことを意味する。将軍が五年間、妻と一度も夫婦の営みを持たなかった。戦場の英雄がたった一人の妻すら抱けなかった——あるいは抱こうとしなかった、と。そういう話が社交界に広まる。
同時に、私自身の名誉も傷つく。「抱かれなかった妻」という烙印。哀れみの目。囁き声。
手紙を置いた。窓の外で、薬草園のカモミールが風に揺れている。枯れかけた畝の向こうに、父が黙々と柵の修理をしている姿が見える。
白い結婚を公にすれば、全額取り戻せる。取り戻せば、薬草園を再建できる。計画は元に戻る。
公にしなければ、半額しか戻らない。薬草園の再建は資金不足で頓挫する。五年間の完璧な計画が、知らなかった法律一つで崩れる。
完璧だったはずだ。帳簿も、証拠も、離縁手続きも。すべてを準備した。足りないものはないと思っていた。
足りなかったのは、この家法の知識だった。
◇
三日後、エミール殿がブレナン子爵邸を訪ねてきた。
書斎で向かい合う。エミール殿の顔はいつもより硬い。法務官の表情だ。
「ロザリア様。白い結婚の立証について、改めてご説明させてください」
「お願いします」
「立証自体は難しくありません。使用人の証言、寝室の配置記録、五年間の出産記録の不在。これらを揃えれば、王家の審議官も認めるでしょう」
「そうですか」
「公にした場合の影響ですが、将軍閣下の名誉には相当な打撃になります。軍の人事にも影響する可能性があります。一方、ロザリア様に対しても社交界での風評は避けられません」
エミール殿は淡々と語った。感情を排した、法務官の声。けれどペンを持つ指の関節が白い。力が入っている。
「法務官としての所見を申し上げれば、公にすることが最も確実な法的対抗手段です」
「ランベール殿」
「はい」
「法務官としてではなく、あなた個人としては、どう思いますか」
エミール殿のペンが止まった。三度目だ。いや、もう数えるのはやめよう。
「……個人としての意見は、この場では控えさせてください。依頼人の判断に影響を与えるべきではありません」
「そう」
しばらく沈黙が流れた。窓の外で鳥が鳴いている。エミール殿の眼鏡に午後の光が反射して、目が見えない。
「公にしません」
私が言うと、エミール殿が顔を上げた。
「あの人を守るためではありません。私のためです」
あの五年間を、「抱かれなかった妻」の一言に縮められたくない。私がしたことは笑顔を作ったことだけではない。帳簿を守り、社交を切り盛りし、疫病の年に薬草を手配し、この家を生かした。白い結婚を公にしたら、私の五年間はすべてそこに飲み込まれる。
「わかりました」
エミール殿はそれだけ言って、ペンを置いた。指の関節の白さが少しだけ戻った。
「では、半額の返還で進めます。薬草園の初期投資については……別の資金調達方法を検討する必要があります」
「ええ」
窓の外を見た。カモミールが風に揺れている。さっきまでは力強く見えたその花が、今は小さく見える。
(また、笑顔を作って耐えるしかないのかしら)
その考えが浮かんだ瞬間、後頭部がじん、と痺れた。五年前に戻される感覚。あの見送りの門の前に、また立たされる感覚。
何も言えなかった。言葉が出てこなかった。エミール殿が何か話しているが、音が遠い。
半額。半分。足りない。
(ふざけるな)
その言葉が浮かんで、自分で驚いた。誰に対して? お義母様に? クラウス様に? 違う。家法を調べなかった五年前の自分に? それも違う。わからない。わからないけど、腹の底が煮えている。煮えているのに顔は動かない。笑顔を作るための筋肉は器用なのに、怒るための筋肉がどこにあるのか、もうわからなくなっている。
帳簿の数字が頭の中をぐるぐる回っている。足りない。何を削っても足りない。削るものがもう、ない。
エミール殿が席を立つ気配がした。
「本日はこれで失礼します。代替案を検討して、改めてご連絡いたします」
返事をしたのかどうか、自分でもわからない。うなずいたかもしれない。笑顔を作ったかもしれない。作っていたとしたら。もう、やめたはずなのに。
一人になった書斎で、窓枠に手をかけた。指の先が冷たい。
将軍邸の門の前で三十二回作った笑顔。あれと同じ顔を、今度は誰に向かって作るのだろう。お義母様に頭を下げて、家法の適用を撤回してくださいと頼むのか。それとも社交界に「将軍の元妻は落ちぶれました」と笑われながら、借金をして生きていくのか。
どちらも嫌だ。どちらも、あの門の前に戻るのと同じだ。
窓の外のカモミールが、風に首を折るように揺れている。




