第4話 逆方向に歩き出した私へ
馬車を降りた私は、自信を持って右に曲がった。実家は、左だった。
街道の分岐点に立つ道標を読み間違えたのではない。道標はちゃんと「ブレナン子爵領→」と左を指している。ただ私の足が、何の迷いもなく右に進んだだけだ。
五年ぶりの帰郷だというのに、方角がわからない。将軍邸では帳簿の数字を一銭も間違えなかったのに、道だけはどうしても覚えられない。昔からそうだった。王都の社交界で完璧な立ち居振る舞いを見せた翌日、屋敷の裏庭に行こうとして表門に出るような人間なのだ。
マルタが後ろから声をかけなければ、私は隣の領地まで歩いていたかもしれない。
「奥様。ブレナン領はあちらでございます」
「……知っています」
「左でございます」
「知っています、マルタ」
マルタの顔は完璧に無表情だった。長い勤務で鍛えられた無表情。けれど目の端がわずかに緩んでいる。笑いたいのを我慢しているのだ。
馬車を降りたのは、残りの道を歩きたかったからだ。五年ぶりの故郷の土を、自分の足で踏みたかった。その志は立派だったのに、足の向きが間違っていた。
素晴らしい。笑顔を作り続けた対価がこれだ。完璧な離縁を成し遂げた女が、実家への道で迷子になっている。
向きを変えて歩き出すと、背後から馬の蹄の音が聞こえた。
「ロザリア様!」
振り返ると、エミール殿が馬を走らせてくる。法務官のくせに乗馬姿が様になっている。眼鏡が少しずれていた。
「ランベール殿。どうしてここに」
「書類に不備がありまして——いえ」
エミール殿は馬を降り、懐から封筒を取り出した。そして一瞬ためらってから差し出す。
「財産分与の追加資料に署名が必要でした。本来は郵送でも構わないのですが、念のため直接お届けしようかと」
「念のため、わざわざ半日かけて?」
「……法務官として、書類の確実な送達は重要ですので」
法務官として。この人の口癖だ。何かにつけて「法務官として」を盾にする。
署名を済ませて封筒を返すと、エミール殿の視線が私の足元に落ちた。右方向に伸びる私の足跡と、左にあるブレナン領への道標を見比べている。
「……ロザリア様。ブレナン領は——」
「左です。知っています」
三秒の沈黙。
「知っていらっしゃったのですね」
「ええ。少し、景色を楽しんでいただけです」
マルタが後ろで軽く咳払いをした。エミール殿は何も言わなかったが、眼鏡を直す手の動きがいつもより速い。
「お送りしましょうか。馬車が来るまでお待ちになるよりは」
「いえ、歩きます。故郷ですから、自分の足で帰りたいのです」
「左に進めば、三十分ほどで領地の入り口が見えます」
「左ですね」
「左です」
念を押された。法務官に方角を念押しされる元将軍夫人。どこに出しても恥ずかしい組み合わせだ。
エミール殿は馬に跨がり直した。帰り際、ちらりとこちらを振り返る。何か言おうとして、やめて、それから小さく頭を下げた。
(あの人、何を言いかけたのだろう)
きっと「道をお間違えにならないように」だ。法務官として。
◇
ブレナン子爵領は、記憶の中より小さく見えた。
子供の頃に大きく見えていた屋敷の門が、今はちょうど良い高さに感じる。門柱に絡まる蔦はずいぶん伸びて、石の色が見えなくなっていた。
父が玄関先で待っていた。
「ロザリア」
白髪が増えていた。嫁ぎ先に送り出してくれた日時はまだ黒い髪が多かったのに。父は多くを語らない人だ。手紙で離縁のことは伝えてある。
「ただいま戻りました、お父様」
「おかえり」
それだけだった。それだけで十分だった。父は私の荷物の少なさを見て眉を寄せたが、何も聞かなかった。代わりに「薬草園が荒れている。お前が見てくれると助かる」と言った。
父なりの歓迎だ。「可哀想に」でも「大変だったな」でもなく、「仕事がある」と伝えること。それが、この人の優しさの形だった。
裏庭に出ると、薬草園の跡地が広がっていた。かつては母が手入れをし、母が亡くなってからは私が継いだ場所。嫁いでからは父一人では手が回らなかったのだろう。雑草が伸び、畝は崩れ、薬草の苗は半分以上枯れていた。
膝をついて土に触れた。
冷たい。けれど柔らかい。将軍邸の石畳とは違う、生きている地面の感触。指の間から土がこぼれる。爪の中に泥が入る。帳簿を扱う手には似合わないが、これが私の最初の手触りだった。薬草の図鑑より先に、土の匂いを覚えた子供だった。
枯れかけた苗の中に、一株だけ生きているカモミールを見つけた。雑草に埋もれながら、小さな白い花をつけている。誰にも世話されずに生き延びたのだ。
「強い子ね」
指で雑草を取り除いてやった。カモミールの薬言葉は「逆境の中の力」。義母上が見送りの門に彫った花と同じ。皮肉な偶然だが、今はその強さが頼もしい。
ここに必要なものを計算する。土壌改良の石灰、新しい苗、水路の補修。帳簿の癖が抜けない。何を見ても数字に変換してしまう。でも今度の帳簿には、自分の名前だけが書かれる。
「ここを立て直そう」
声に出してみた。将軍邸を出る時には空っぽだった胸の中に、小さな種が一粒落ちた気がした。
◇
夜、マルタから手紙が届いた。将軍邸に残った知人の使用人からの伝聞だという。
奥様が去られた翌日、社交の招待状が十二通未処理で発見された。近隣のハイデン男爵家の晩餐会への返信期限が二日前に過ぎており、男爵家から苦情の手紙が届いた。
食材の仕入れ先との価格交渉が滞り、今月の食費が先月の倍になっている。料理長代理が泣いている。
庭の薬草に水をやる者がおらず、ラベンダーがしおれ始めている。
手紙を読み終えて、窓の外を見た。月が出ている。将軍邸からも同じ月が見えているだろう。枯れかけのラベンダーの向こうに。
肋骨の隙間が、きゅっと縮んだ。あの家の花を、あの家の人たちを、守ってきた。その記憶は簡単には消えない。
でも。もう、私の花瓶ではない。私が水を替える花瓶は、もうここにはない。
手紙を畳んで、机の引き出しにしまった。明日は薬草園の土壌を調べよう。石灰の配合量を計算して、苗の仕入れ先を探して。ここで、自分の足で立つ。方向音痴でも、自分の庭の土くらいは覚えられるはずだ。
窓の外で、夜風がカモミールの白い花を揺らしていた。




