第3話 笑顔は、もう返品します
離縁届の紙は、思ったより軽かった。
エミール殿の事務所で最終確認を終えた書類を両手で持つ。羊皮紙一枚。あの日々が、この紙の薄さに収まる。インクはまだ乾ききっていない。私の署名の横に、エミール殿が丁寧に「代理人 エミール・ランベール」と書き添えた文字が並んでいる。
「クラウス様は現在出征中ですので、代理人を通じての合意手続きになります。将軍家の顧問弁士に離縁届の写しを送付し、将軍閣下の署名を代理で取得する形です」
「夫が不在のまま離縁が成立するのですね」
「法的には問題ありません。出征中の軍人の家事手続きは代理人制度が整備されていますので」
ずっと、夫が不在の家を守った。最後もまた、夫が不在のまま終わる。皮肉なのか、ふさわしいのか。どちらでもいいと思った。
「何か、最後に将軍閣下へ伝えたいことはございますか。書面に添えることができますが」
エミール殿がペンを構えて待っている。
伝えたいこと。言いたかった言葉が喉の奥に溜まっている気がする。なぜ私を見なかったのか。なぜ一度も「ただいま」と笑わなかったのか。なぜアデーレ殿の杯には気づくのに、私の花瓶には気づかなかったのか。
全部言えるし、全部言わなくてもいい。
「笑顔は、もう返品します」
エミール殿のペンが止まった。二度目だ。この人のペンはよく止まる。
「……それを、書面に記しますか」
「いいえ。ただの独り言です。書面には『双方にとって最善の決断であると確信しています』とでも書いてください」
「承知しました」
エミール殿は書き始めたが、口元がわずかに動いた。笑いを噛み殺したのだと気づくのに数秒かかった。
「何か可笑しいですか、ランベール殿」
「いえ——法務官として不適切ですが、『返品』という表現が非常に的確だと思いました」
(この人、真面目な顔で変なことを言う)
◇
離縁届が王家に提出されたのは、その三日後だった。
手続きは驚くほど淡々と進んだ。クラウス様の顧問弁士からは異議の申し立てはなく、将軍閣下の代理署名も翌日には届いた。結婚を終わらせるのに必要だった時間は、始めるのにかかった時間より遥かに短かった。
将軍邸で荷造りをする日が来た。
私物は少なかった。嫁入りの時に持ってきた薬草の図鑑、母の形見の髪飾り、そして帳簿の控え。全年分。衣装も装飾品も、将軍家の費用で揃えたものだから置いていく。
使用人たちが廊下に並んでいた。誰に言われたわけでもない。料理長が、庭師が、侍女たちが、それぞれの持ち場から出てきて黙って頭を下げている。
「奥様」
マルタが一歩前に出た。五十を過ぎた使用人頭の目が赤い。
「長い間、ありがとう、マルタ」
「お供します」
「……え?」
「お供します。奥様がどちらに行かれるにしても」
マルタの声は震えていなかった。決めてきたのだ。いつ決めたのかはわからないが、この人はいつだってそうだ。静かに決めて、静かに実行する。
「あなたにはここでの仕事が——」
「奥様がいなくなったこの家に、仕事はありません」
反論できなかった。反論する気も起きなかった。
マルタの後ろで、若い侍女が泣いている。料理長が目を逸らしている。庭師が唇を噛んでいる。
この人たちは私と一緒にこの家を回してきた人たちだ。帳簿の数字の裏側にある、生身の手と足と声。私が疫病の年に薬草を手配できたのは、庭師が真夜中に馬車を出してくれたからだ。社交の晩餐会を乗り切れたのは、料理長が三日間眠らずにメニューを組んでくれたからだ。
彼らの働きもまた、帳簿には「人手の費え」としか記されていない。
「ありがとうございました。皆さんのおかげで、私はこの家を守ることができました」
頭を下げた。将軍夫人が使用人に頭を下げるのは、作法としては正しくないのだろう。でも、もう将軍夫人ではない。ロザリア・ブレナン。それが今日からの私の名前だ。
顔を上げた時、料理長が鼻をすすっていた。庭師が天井を見上げている。若い侍女は両手で口を押さえたまま、肩を震わせていた。
「奥様が来てくださる前は、この屋敷はただ広いだけの石の箱でした」
庭師が低い声で言った。
「花が咲くようになったのは、奥様が来てからです」
そうだった。嫁いできた初日、中庭に花が一輪もないことに驚いて、翌日から薬草を植え始めたのだ。ラベンダー、カモミール、ローズマリー。将軍の妻としてではなく、ブレナン子爵家の娘として、土に手を突っ込んだあの日のことは覚えている。
◇
見送りの門の前に立った。
三十三回、この門で笑顔を作った。正確には三十二回。最後の一回は、作れなかった。
石柱に触れる。カモミール、ローズマリー、そして何も彫られていない空白。私の何も残さなかった年月を示す、空白。
門をくぐった。
振り返らなかった。振り返ったら、何かが溢れそうだった。悲しみではなく、怒りでもなく、名前のつけられない何かが喉の奥に溜まっている。飲み込めもしないし、吐き出せもしない。作り続けた笑顔が溶けた水のようなものが。
門の外に馬車が待っていた。マルタが荷物を積み終えている。御者が手を差し伸べてくれて、踏み台に足をかけた。
馬車が動き出した瞬間、深く息を吸った。胸が広がる感覚を、久しぶりに味わった。
将軍邸の空気とは違う空気が肺に入ってきた。埃っぽくて、馬の匂いがして、どこかの屋台から焼き栗の香りがする。雑然としていて、整っていなくて、誰にも管理されていない空気。
悪くない、と思った。
エミール殿から受け取った最後の書類が、鞄の中で角張った存在感を主張している。離縁成立の証明書。その最後の行に、またあの人の字があった。
「新しい道が良いものでありますように。」
法的文書に不要な一文、二度目。前回は「お体にお気をつけて」。今回は「良いものでありますように」。
(ランベール殿。あなたは本当に、嘘が下手ですね)
馬車の窓から空を見上げた。青い。ただ、青い。
これからどうしよう。実家に帰る。父に会う。薬草園を立て直す。計画はある。計画はあるのに、胸の中がぽっかりと空いている。笑顔という蓋を取ったら、中身が空だったような気分。
でも、空なのだ。空だということは、これから何かを入れられるということだ。自分で選んだもので、満たせるということだ。
馬車が王都の門を出た。風が変わった。




