第2話 法務官は嘘が下手だ
法務官の書房は、インクと古い紙の匂いがした。
王都の商業地区の外れ、石造りの細い路地に面した三階建ての建物。看板には「ランベール法務官の書房 離縁・財産・相続」と、飾り気のない字で書かれている。扉を押すと蝶番が軋んだ。受付の女性に名を告げ、二階の相談室に通された。
部屋は狭かった。窓際の机に山と積まれた書類の向こうに、一人の青年が座っている。栗色の髪を後ろに流し、銀縁の眼鏡をかけた細身の男性。立ち上がって一礼した所作は丁寧だが、袖口にインクの染みがあった。
エミール・ランベール。ランベール伯爵家の次男で、王都では離縁法に最も詳しい法務官だという。マルタが知人の伝手で見つけてきた。
「ヴァルトシュタイン将軍夫人、ロザリア様ですね。本日はどのようなご相談でしょうか」
丁寧な口調。法務官らしく、余計な感情が混じっていない。それが不思議と心地よかった。将軍邸では、使用人も来客も、私を見る目にはいつも「将軍の妻」への気遣いと遠慮が張り付いていたから。この人は私を肩書きではなく依頼人として見ている。
「離縁を考えています」
自分の声が、思ったより静かだったことに驚いた。昨夜、寝室で何度も練習した台詞だ。声が裏返るかと思ったのに、裏返らなかった。昨日の朝、笑顔を止めた瞬間と同じだ。大事なことほど、静かに来る。
エミール殿のペンが一瞬止まった。すぐに動き出す。
「承知しました。まず法的な要件を確認させてください。王国の婚姻法では、離縁は双方の合意に加え、王家の承認が必要です。合意が得られない場合は、重大な事由——不貞、暴力、あるいは婚姻の不履行——の立証が求められます」
「はい」
「失礼ですが、離縁をお考えになった理由を伺えますか。法的な戦略を組み立てるために必要ですので」
理由。
不貞の手紙を見つけた。白い結婚がずっと続いている。夫は私を見ていない。全部理由になる。全部、法律の言葉に翻訳できるだろう。
でも、そのどれも本当の理由ではなかった。
「笑顔をやめたいからです」
エミール殿のペンが、今度こそ止まった。
三秒ほどの沈黙があった。窓の外で鳩が鳴いている。机の上の書類の山が、午後の日差しに白く光っている。
「……法的にはもう少し、具体的な事由が必要になります」
真面目な顔で言う。けれど眼鏡の奥の目が泳いでいる。耳の先がわずかに赤い。困っているのだ。法律の言葉にできない依頼を受けたことがないのだろう。
少しだけ、可笑しかった。五年間、将軍邸で「困った顔」を人に見せたことがない私が、他人の困った顔を見て笑いたくなっている。
「もちろん、具体的な事由もあります」
私は持参した革鞄を開け、書類を並べた。五年分の帳簿の要約。将軍邸の運営記録。社交行事の対応履歴。薬草調達ネットワークの一覧。近隣三領との折衝記録。そして、白い結婚であることの状況証拠——寝室が五年間別であったことを示す使用人の勤務表。
エミール殿の手が止まった。書類の厚みを見て、それから私の顔を見た。
「これは……」
「帳簿です。五年分の。将軍邸の運営に私がどれだけ貢献したか、数字で証明できます。財産分与の交渉材料にもなるかと思いまして」
「……失礼ですが、これを全部お一人で管理されていたのですか」
「他に誰がやるのですか。夫は戦場です。お義母様は隠居されています。使用人は実務を担いますが、全体の設計と管理は私がやりました」
エミール殿は書類を一枚ずつ確認し始めた。ページをめくる指が丁寧で、折り目がつかないように端を持っている。帳簿をぞんざいに扱わない人だ、と思った。時折ペンでメモを取りながら、時間をかけて読んでいく。
ページをめくる音だけが、静かな相談室に響いた。
「素晴らしい記録です」
エミール殿がようやく顔を上げた。眼鏡の奥の目が、さっきとは違う光を帯びている。
「これだけの管理実績があれば、財産分与においてかなり有利な交渉ができます。特に薬草の民間調達ルートの構築と疫病時の緊急対応記録は、法的にも『婚姻中の特別な貢献』として主張できます」
素晴らしい、と言われたのは久しぶりだった。クラウス様は私の仕事に対して何も言わなかった。問題なく回っているのが当然で、帳簿を開いたことすらなかったかもしれない。
この法務官は、開いた。一枚一枚、丁寧に、折り目をつけないように読んだ。それだけのことが、乾いていた何かを少しだけ湿らせた。
「白い結婚については、立証できれば婚姻の不履行として一方的離縁の事由になります。ただし、公にすることで将軍家の名誉にも、ロザリア様ご自身の名誉にも影響が——」
「わかっています。公にするかどうかは、もう少し考えさせてください」
「賢明です。まずは合意離縁を目指し、交渉が決裂した場合の備えとして証拠を整理しておきましょう」
エミール殿は手続きの流れを説明した。離縁届の作成、クラウス様側への通達、王家への提出、財産分与の交渉。一つ一つの段階に法的な根拠と時間の見通しをつけてくれる。法律用語が並ぶが、冷たさは感じない。この人の声には事務的な正確さの裏に、聞いている相手を不安にさせまいとする配慮がある。
「ご質問があれば、いつでもお手紙ください。返信は翌日中にお届けします」
「……随分とお早いですね」
「離縁手続きは時間が精神に障ります。待つ時間を短くすることが、法務官にできる数少ないことですので」
法律の言葉だ。けれど今、彼の目は書類ではなく私を見ていた。
帰り際、エミール殿が一枚の紙を差し出した。今日の相談内容の要約書だった。法律用語が正確に並ぶ中、一番最後の行にだけ、少し違う文字が書いてある。
「お体にお気をつけてお過ごしください。」
法的文書には不要な一文だ。ペンの運びが本文より少しだけ丁寧で、インクが少しだけ濃い。何度か書き直したのかもしれない。
路地に出ると、午後の日差しが石畳を白く照らしていた。法務官の書房のインクの匂いが、まだ指先に残っている。
(あの法務官は嘘が下手だ)
何の嘘かは、自分でもうまく言葉にできなかった。ただ、あの最後の一行は法律の言葉ではなかった。それだけは確かだ。
王都の大通りに出た。人混みの中を歩きながら、久しぶりに「明日が楽しみだ」と思っている自分に気づいた。楽しみの正体は、まだよくわからない。




