第10話 おはよう
見送りの門の石柱は、あの朝と同じ冷たさだった。
指先で石の表面をなぞる。カモミールの彫刻。ローズマリーの彫刻。そして、何も彫られていない空白。私が何の痕跡も残さなかった場所。
朝の光が石柱に差している。門の向こうに将軍邸の屋敷が見える。遠目には変わっていないように見えるが、庭の花が減っていた。かつて私が植えた薬草の半分は枯れたか、手入れされずに伸び放題になっているのだろう。
「よろしかったのですか、ここに来て」
隣にエミールが立っている。昨夜の告白の後、何かが変わった。呼び方が変わった。「ランベール殿」でも「エミール殿」でもなく、ただ「エミール」。その名前を口にするたびに、彼の耳が少し赤くなるのが見える。
「ええ。最後にもう一度だけ、見ておきたかったの」
門柱に手を置いた。三十三回、この場所に立った。最初の三十二回は笑顔を作って。最後の一回は、笑顔をやめて。
あの朝のことを思い出す。クラウス様の銀髪が朝日に光ったこと。「行ってくる」の短い言葉。口角を上げようとして、止めたこと。
今、同じ門の前に立っている。けれど今日は誰も見送らない。見送る相手はいない。ここに立っているのは、去るためだ。
歴代の妻が彫った花の跡を、もう一度なぞった。カモミール——「逆境の中の力」。ローズマリー——「記憶と誠実」。どちらも強い花だ。戦場に夫を送り出す妻たちが選んだ、強い花。
「私は、ここに花を彫らなかった」
「ええ」
「彫らなかったことが、正解だったと思う」
エミールが静かにうなずいた。何も言わない。この人は、言葉が要らない時に黙っていてくれる。法務官のくせに、沈黙が上手い。
門をくぐった。
あの朝は振り返らなかった。今日も振り返らない。けれど意味が違う。あの朝は、振り返ったら崩れそうだったから。今日は、もう、この門に用がないから。通り過ぎるだけだ。記憶に区切りをつけるための、最後の散歩。
エミールが隣を歩いている。半歩後ろではなく、横に。書類鞄を持った手が時折私の手と触れそうになって、その度に不自然に離れる。まだ距離の取り方がわからないのだ。法務官の手引書には、こういう時の適切な距離は載っていないらしい。
門の外に馬車が待っている。マルタが荷物を確認している。エルザとヘレーネが隣で書類を整理している。商いは順調だ。ウェーバー男爵家に加えて、グリム商会、ラインハルト伯爵家、王都の薬草組合。取引先は増え続けている。半年後には薬草園の再建に着手できる見込みだ。
◇
王都に戻る馬車の中で、エミールが書類を渡してきた。
「今後の商いに関する届出書です。最後のページに署名をお願いします」
書類を受け取り、中を確認する。いつも通り正確で、いつも通り簡潔な法律文書。ページをめくって最後のページを開いた。
署名欄の下に、一行。
「これからも、よろしくお願いいたします。」
思わず笑った。この人は変わらない。書類の最後の一行に、法律以外の言葉を紛れ込ませる癖。もう隠す気もないらしい。
「エミール」
「はい」
「この一行は、法務官としてですか」
「……いいえ」
「個人的な感情ですか」
「はい。法的根拠はありません」
「それなら、受理します」
署名した。書類を返す時、指が触れた。紙越しではなく、直接。エミールの指が一瞬強張って、それからゆっくりと力が抜けた。
馬車の窓から光が差し込んでいる。春の日差し。街道沿いにラベンダーが咲いている。野生のラベンダーだ。誰にも世話されず、誰にも水を替えられず、自分の力で咲いている。
◇
新しい日常が始まっている。
ブレナン子爵邸の朝は、将軍邸の朝とは違う。石畳ではなく木の床を歩く音。軍靴ではなく革靴の足音。命令の声ではなく、マルタがお茶の準備をする柔らかい物音。
薬草園の設計図を広げている時、エミールが訪ねてきた。週に二度、法の相談を兼ねて。兼ねて、と言いながら、法の話は三割で残り七割は他愛ない会話だ。最近読んだ本のこと。王都の新しい菓子店のこと。昨日マルタが焼いたパンが驚くほど美味しかったこと。
法務官は法律の話以外をする時のほうが、よく笑う。
応接間の窓際に、小さな花瓶を置いた。中には自分で選んだ花を活けている。ラベンダーではない。ブレナン領の庭に咲いた白いカモミール。あの歳月を生き延びた一株から増えた花。薬言葉は「逆境の中の力」。
誰かのために活けた花ではない。自分のために選んだ花だ。
エミールが来る朝、応接間の準備をしていた。茶器を並べ、書類を整え、花瓶の水を替える。
玄関の扉が開く音がした。革靴の静かな足音。
「おはようございます、ロザリア」
エミールの声。敬称のない、ただの名前。まだ少しぎこちない。言い慣れていないのだ。「ロザリア様」と言いかけて、途中で「様」を飲み込んだのが聞こえる。
振り返った。
「おはよう」
言った瞬間、自分の顔が笑っているのがわかった。口角が上がって、目尻が細くなって、頬が持ち上がっている。
作っていない。
鏡の前で練習していない。左右対称かどうか確認していない。目尻に力を入れていない。ただ、この人の顔を見たら。勝手に、こうなった。
毎朝、毎朝、作り続けた笑顔は、こんな顔ではなかった。あれは正確で、美しくて、どこに出しても恥ずかしくない完璧な造形だった。
今の笑顔は、たぶん左右対称ではない。目尻のしわも均等ではない。完璧からは程遠い。でもこれは本物だ。
本物の笑顔は不格好なのだと、二十五年生きて初めて知った。
エミールが固まっている。眼鏡の奥の目が大きくなって、耳が赤くなって、口が半開きになっている。
「……どうしました」
「いえ。いえ、何でも」
何でもないはずがない。この人の耳は、嘘をつくと赤くなる。
朝の光が応接間に差し込んでいる。花瓶のカモミールが風に揺れている。ラベンダーではない、自分で選んだ花。水を替えるのは自分で、好きな時に、好きなだけ。
さようなら、とは言えなかった朝があった。
おはよう、と言えた朝が、ここにある。
朝の光の中で、ロザリアは初めて知った。「さようなら」の反対語は「おはよう」なのだと。
明日もきっと、この人に「おはよう」と言うだろう。その次の日も、その次の日も。作らなくていい笑顔で。




