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さようなら、と言えなかった朝をもう繰り返さない  作者: 九葉(くずは)


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第1話 三十三回目の朝

 三十三回目の朝も、私は笑顔を作ろうとした。


 鏡の前で口角を上げる。左右対称に、ちょうどいい角度で。目尻に少しだけ力を入れて、瞳に光を灯す。長すぎる月日は、この所作を呼吸と同じくらい自然なものに変えてしまった。


 将軍の妻が夫を見送る朝は、笑顔でなければならない。

 それがヴァルトシュタイン家の、三百年続く作法だった。


 窓の外ではまだ夜の端が残っている。薄闇の中、中庭に面した廊下の花瓶にラベンダーが活けてある。薬言葉は「待つ人の無事を祈る」。毎朝この花瓶の水を替えるのは私の仕事だ。使用人に任せたことは一度もない。


 三十二回の見送りの朝。三十二回の水替え。三十二回の、完璧な笑顔。


 身支度を整え、寝室を出た。クラウス様の書斎に向かい、出征の荷物を最終確認する。いつもの手順だ。書類の束、作戦地図、替えのインク壺、予備の封蝋。すべて昨夜のうちに揃えてある。


 将軍邸の家政を預かって五年。使用人の配置、社交の招待状への返信、近隣領主との折衝、軍に納入する薬草の民間調達ルートの管理。この屋敷のすべてが私の手を通って動いている。帳簿は一銭の狂いもなく、社交の席で失態を犯したことも一度もない。


 完璧な将軍夫人。誰もがそう言った。

 私自身も、そう思おうとしていた。


 鞄の内ポケットに手を入れた時、指先が見覚えのない封筒に触れた。


 薄い桃色の便箋。封蝋に押された薔薇の紋章は、ヴァルトシュタイン家のものではない。リヒター家——クラウス様の副官、アデーレ・フォン・リヒター殿の家紋だった。


 手紙を読む気にはならなかった。読まなくても、知っている。


 副官として、部下として、戦場で命を預け合う相手。クラウス様がどんな目でアデーレ殿を見ているか、この五年間ずっと知っていた。夫が出征前夜に書斎で過ごす時間が年々長くなっていること。アデーレ殿の名前を口にする時だけ、あの簡潔な声にわずかな熱が混じること。年に二度の将軍邸の晩餐会で、アデーレ殿の杯が空になると誰より先に気づくのが夫だったこと。


 全部、知っていた。知っていて、笑っていた。


 封筒を元の位置に戻した。指先は動かなかった。凍りついたように。


 五年前なら震えていたかもしれない。嫁いできたばかりの頃、政略結婚とはいえ、「いつか」を信じていた頃なら。でも季節が三十二回巡る間に、期待という感情は帳簿のインクのように乾いて、こびりついて、最後には色も読めなくなった。


 何も感じない指先が、怖かった。



 見送りの門の石柱に手を置いた。指先にひんやりとした朝露が伝う。


 この門はヴァルトシュタイン家の「見送りの門」と呼ばれている。将軍の妻は、夫の出征を必ずこの門で見送る。歴代の妻たちが石柱に花を彫った跡が残っていて、先代のお義母様はカモミールを、その前の方はローズマリーを彫ったと聞いた。


 私はまだ何も彫っていない。ここに来てからずっと「自分の花」を決められなかったからだ。どの花を選んでも、それが本当に私の花なのか、将軍の妻として「ふさわしい」花を選んでいるだけなのか、区別がつかなかった。


 馬上のクラウス様が振り返った。銀色の髪が朝の光に白く光る。端正な横顔は、嫁いできた日と変わらない。この人はいつだって美しい。美しくて、遠い。


「行ってくる」


 短い。いつも通り短い。この人の言葉はいつだって簡潔で、必要最低限で、私に向けられているのか門柱に向かって呟いているのか、区別がつかない。


 口角を上げた。左右対称に。目尻に力を——


 止めた。


 指が自分の頬に触れていた。笑顔を作ろうとした筋肉が、途中で固まっている。


 なぜ止めたのか、最初はわからなかった。アデーレ殿の手紙を見たから? 三十三回目だから? 五年という数字に何か意味があるから?


 どれも違う。


 笑顔を作ろうとした自分に気づいてしまったのだ。三十二回までは無意識にできていたことが、今朝ははっきりと、「ああ、私は今、顔の筋肉を動かして笑顔を製造している」と、はっきり見えてしまった。


 一度見えたものは、もう見えなかったことにはできない。


 クラウス様は私の顔をじっと見た。笑っていない妻の顔を、もしかしたら初めて見たのかもしれない。何かを言いかけて、やめた。それから静かに馬の腹を蹴り、供の騎士たちとともに門を出ていった。


 私は手を振らなかった。

 門の前に立ったまま、馬蹄の音が朝靄の中に溶けていくのを聞いていた。三十二回は手を振った。雨の日も、雪の日も、前夜に泣いた日も。笑顔と手を振る動作はセットで、それが妻の務めだと信じていた。


 風が吹いた。門柱の彫刻の上を、乾いた風が撫でていく。カモミール、ローズマリー、そして何も彫られていない空白。私が五年かけて刻まなかった空白。


 それでいい。

 ここに自分の花を彫るくらいなら、自分の足で歩ける場所を探したほうがいい。



 屋敷に戻ると、花瓶のラベンダーがまだ朝の光の中で揺れていた。


 水を替えなければ。いつも通りに。明日も、明後日も、クラウス様が帰還されるまで、毎朝。花が枯れないように。待つ人の無事を祈るために。


 水差しを手に取った。持ち上げて、花瓶に近づけて。


 置いた。静かに、水差しを戻した。


(私は、いつまでこの花瓶の水を替えるのだろう)


 花瓶の水面に自分の顔が映っていた。笑ってはいなかった。泣いてもいなかった。何の表情もない顔が、ラベンダーの紫色越しにぼんやりと浮かんでいる。


 これが私の顔だ。笑顔を剥がした、素のままの顔。五年ぶりに見るそれは、思ったより若くて、思ったより疲れていた。


 帳簿を思い出す。五年分の帳簿の数字。食材の仕入れ値を三件の商会と交渉して叩いた日。疫病の年に薬草の調達ルートを三日三晩で組み直した夜。社交の席で将軍家の面目を保つために、初対面の貴婦人に八時間笑顔を向け続けた晩餐会。


 全部、帳簿には残っている。

 でも「ロザリアが笑いたかった日」は、どの行にも書いていない。「ロザリアが泣きたかった夜」も。「ロザリアがさようならと叫びたかった朝」も。


 花瓶の水を替えるのを、やめた。

 ラベンダーは水がなければ三日で枯れる。知っている。私が一番よく知っている。


 明日、王都の法務官の書房に行こう。


 さようなら、とは言えなかった。あの人にも、この花瓶にも、この五年間にも。言い方を知らないのか、言う資格がないと思っているのか、それすらもうわからない。


 でも、もう繰り返さない。

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