前編
「ほら、こうして指を絡める。」
先輩はそう言って自身の左手を私の右手に重ねた。
そして、彼の長くキレイな指で私の手の甲をするりとなぞり、私の指を絡め取る。
「今の気持ちはどんな感じ?」
手と手が触れ合ったまま、先輩が私に尋ねる。
重なった部分にじわりと汗が滲んでくるのがわかる。
「正直、緊張しかない、です。」
「うん、だろうね。何とも思ってない異性からの触れ合いなんて、緊張だったり、怖かったり、もしかしたら気持ち悪いって感じると思う。けどね、」
長い睫毛に縁どられた彼の視線が、指先から私の目へと移った。
「これが好きな人だったりすると、とんでもなく嬉しい気持ちや安心感が湧いてくるんだ。それが、恋。きっとね。」
◇
キャスリン・ランツェ、王立ローズシティナ魔法学校の魔術学科の二年生。
つい先日、生まれたときから一緒だった幼馴染との婚約を解消したところである。破棄ではない、あくまで解消だ。
両親同士の仲が良く、互いの子供が異性でかつ同じ年に生まれた、たったそれだけのことで結んだ婚約。ゆるい契約だったので、婚約解消も簡単に終わった…と、私は勝手に思っている。
と、ここで元婚約者である幼馴染のアガト・デバースについて少し言及しておく。
アガトも私と同じ魔法学校に通う魔術学科の二年生である。
彼とは赤ちゃんの頃からずっと一緒で、兄妹のようにして育った。私たちはしょっちゅう互いの家を行き来し、長期休暇にはアガトの家族に連れられて一緒に旅行したことすらある。
アガトは私にとって兄か弟、おそらくアガトも私のことを姉か妹だと思っていたことだろう。互いに抱いていた感情は、恋愛というよりも家族に向けるような、親愛寄りのものだったように思う。
とはいえ、年齢が上がるにつれて、私たちも将来的には家族になるということで、互いを男女として見ようと試みたことがある。
◆
「手、繋いでみる?」
あれはまだ学校に入学する前だった頃。
二人で町へ出掛けたとき、何の用事で出掛けたのかは最早覚えていないが、その帰り道に突如としてアガトから提案された。
特に断る理由も無かった。互いの指と指を絡ませ、いわゆる恋人繋ぎというものをしてみる。
幼い頃は手を繋いだことも勿論あったのだが、大きくなってからこうして触れ合うのは初めてのことだった。
「どう?」
「うーん、あったかい。」
「だよな。」
これが、二人の感想。
あまり自分と変わらない大きさの手は、少しだけ固くて、そしてあたたかかった。それからほんの少しだけ、胸がドキドキしたと記憶している。
それからまた別の日。
アガトと二人、うちの庭先の木陰で魔法書を読んでいたときのことだ。
私は生まれつき魔力量が少ない。そのため使える魔法は限られていたのだが、魔法そのものが好きだった。アガトは私より魔力量は多いようだったが、魔法を扱うことよりその仕組みに興味を持っていた。
なので、魔法理論を学ぶことができる王立魔法学校の魔術学科を受験すると二人して決めていた。
木の幹にもたれ掛かって、受験科目ともなる魔法基礎学の内容とにらめっこする。このときは別に勉強をしていたわけではないのだが、自由時間に魔法書を読むくらい魔法というものに興味があった。
本のページを捲ろうとしたとき、ふと横からの視線に気付く。
彼も私と同じく魔法書に目を落としていたはずなのに、いつの間にかアガトの視線がこちらを向いていた。
「キスしてみる?」
何の脈絡もなく言われた提案に、思わず呼んでいた本が手から滑り落ちる。
あ、落ちた、と思っている間に、アガトの口と私の口とが触れ合っていた。このときの、ムードもへったくれもないキスが、私のファーストキスだったりする。
「どう?」
「思ってたより柔らかい。」
「ん-確かに。」
そして二人とも何事も無かったかのように、本の続きを読んだ。
その後もこの試みは続いた。
アガトと初めてキスをした翌年、二人とも無事に王立魔法学園の入学試験に合格し、憧れだった制服のローブに袖を通すこととなった。寮から通う生徒が多い中、私とアガトは毎日自宅からせっせと学校へと通っていた。
その日はいつもに比べ宿題の量が多かったことを覚えている。学校帰りにアガトが私の家に立ち寄り、二人して頭を突合せて宿題に取り組んでいた。
「ここ、わかんない。」
「どれ?ああ、これは定義を使って計算したら、魔法の効果範囲と威力が求められるよ。」
「なるほど、ありがと。」
お礼を言ってアガトの言われたとおりに計算してみる。すると、行き詰まっていた答えがきちんと導き出せた。さすがアガト、勉強は彼に聞くに限る。さて次の問題にとりかかるか、そう思っていたところ、隣にいた彼が私の髪を一房手にとった。
「?どうしたの?」
アガトは私の問いかけに返事をせず、私を見下ろしながら彼の大きな手が私の長い髪を梳いていく。
魔法学校に入学してからというもの、彼の背丈はぐんぐん伸び、いつの間にか私が彼を見上げるようになっていた。
ゆっくりとした彼の手の動きが、私の耳元のあたりでピタリと止まる。そしてそのまま私の頬を指でなぞる。
「深いキス、試してみる?」
私が返答する前に近付いてきた顔と息遣いに、自然と目を閉じる。その後すぐ、アガトの唇が私の唇に触れる感触がした。それでおしまいかと思いきや、今まで経験したことがない感触のものが自分の口内へと侵入してきた。
え、と思い慌てて身体を離そうとするが、いつの間にかアガトの腕でガッチリと身体を拘束されてしまっていた。動くことも叶わず、彼の舌で口内を激しく蹂躙される。そのときは呼吸の仕方を忘れそうになり、息をするのに必死だった。
彼の拘束が止んだ後、二人して宿題の続きをする。アガトからの言葉は「宿題中断させてごめん。」だ。
私も「いいよ。」と色々な意味を込めて言った。
そして、これはつい先日のこと。私たちは学年が上がり、二年生になっていた。
この日、私は久しぶりにアガトの部屋を訪れていた。学校に通い出してからというもの、彼は頑なに自分の部屋に上がらせてくれなくなった。しかしこの日はめずらしく、彼が先日入手したという貴重な虹色に輝く魔法石を見せてくれるということで、久しぶりに中へと入れてくれたのだ。
「アガトの部屋、久しぶり。」
「そうだな、数年ぶりかもな。」
前に来た時は学校に通い始める前だったと思うのだが、以前と変わらずきちんと整理されたシンプルな部屋のままだった。そのことに懐かしさを感じながら机の方に目をやる。そこにはキレイに並んだ魔法書と一緒に、キラキラと輝いた手のひらサイズの魔法石がゴロンと鎮座していた。
「わ!思ってたよりも大きい!」
「だろ?手に持ってもいいよ。ただ、落とすなよ。」
「いいの!?ありがとう!」
許可が出たので魔法石をそっと手に取り、表面を撫でる。つるつるしていてじんわりと温かい。魔法石はその属性によって色が異なるのだが、この虹色の魔法石は全属性を兼ね備えているというとても貴重なものだ。
「すごいね、よく手に入れたね。」
「…うん、まあな。」
キラキラとした輝きは見ていて飽きることはない。うっとりと眺めていると、後ろから突然、アガトに抱きしめられた。
アガトの大きな身体が私の身体を包み込むようにし、私の首筋に顔を埋める。首のあたりがくすぐったい。
「アガト?」
一応問いかけてみるも、返事はない。そして身体の向きを変えられ、およそ一年ぶりに、口と口とが重なった。
――いったん火のついた盛った雄は止めることができない。彼氏持ちの友人は言っていた。
まさにその通り。
触れ合うだけのキスが深いものへと変わる。そして、
「この先に進んでみたい」
いつもと違って私への問いかけではなく、彼の意思を告げる。気づけばあれよあれよとベッドへと押し倒され、しっかり着込んでいた制服は素早く、しかし丁寧に、床へと脱ぎ捨てられた。先程落とすなと言われた魔法石も、押し倒されたときにどこかへと転がっていった。
行為の最中は痛さを逃すために彼にしがみつくので精一杯で、他に何も考えることができなかった。
事後に、二人無言で制服を着用する。転がっていた魔法石を拾い上げ、机の元の位置に戻した。
さすがにキスだけのときと違って、身体全体が怠く感じる。
「あげる、それ。」
「ええ、いいの?虹色の魔法石なんて貴重な物なのに。」
「いいんだ、キャスが持ってて。」
「ありがとう、大切にするね。」
私はアガトから虹色に輝く魔法石を受け取った。彼の表情は何故か泣きそうに見えたのだが、特にそのことに言及することなく、歩きづらい足で自宅へと帰った。
・・・婚約の解消がアガトから提案されたのは、それから翌日のことだった。
◆
『婚約を解消しよう。もともと親が適当に結んだだけの契約だ。お互い自由になろう。』
アガトから言われたのはそういった類の内容だったと思う。正直、そのときのことは頭がボンヤリしていたので覚えていない。
昨日身体を繋げて、今日になって婚約解消。
きっと、彼は私のことを恋愛対象としてみようと努力して来たけど、何をやっても無理だと見切りをつけたのだろう。
『うん、わかった。』
私は何の反論もしなかった。アガトがそういうなら、それを受け入れよう、と。
その後すぐにお互いの両親にも婚約を解消する旨を伝えた。親たちは残念がってはいたが、本人たちの意思を尊重すると言ってくれた。
急に婚約解消を言い渡したアガトに対して、私は怒りや悲しみといった感情を向けることはなかった。それよりも何かの片割れを失ったような、家族に見限られたかのような喪失感のほうが大きかった。
婚約解消した日の翌日、一年生のときから毎朝一緒に登校していたのに、急に別々で教室に入ってきた私たちを見て、クラスメートたちは喧嘩でもしたのかと訝しんだ。
しかし婚約を解消した旨を伝えると、みんな腫物を扱うかのようにわたしたちの仲に触れなくなった。
移動教室もランチも別々。
もちろん下校でさえも。帰る方向が同じなので、アガトがわざと時間をずらして私と鉢合わせないようにしていた。
呼び方すら、愛称のキャスではなく、ご丁寧に家名のランチェに変わっていた。アガトのことも、家名のデバースで呼ぶようにと釘を刺された。
友人らは気落ちしている様子の私に気遣ってくれていたのだが、それでもときおり私が寂しい表情を見せるらしい。早く元気を取り戻して、と励まされてしまった。
アガトとの婚約を解消した日から一月。
今もなお、心にポッカリ穴が空いたような感覚が続いている。
魔法学校は別の小説に出てくる学園と同じだったりします。