◆2-4
数分後、一冊の本を携えて戻ってきたフェルハントは私の横の椅子に座ると、微笑を浮かべつつ少しばかりの悪戯の光を宿した瞳を寄越した。
「遅くなってごめんね。お姫様はちゃんとお利口さんに待ってたかな?」
そこにからかいの色がないのは言うまでもなく分かっている。
少しばかり寂しい思いをした妹を、元気付けようとした為の言葉なのだ。
その証拠に、纏っている雰囲気は相変わらずフィアナ──私に対しての溢れんばかりの慈愛を感じる。
だから私は子供らしく両頬を栗鼠の如く膨らまし、フェルハントに対する抗議の言葉を発する事にした。
「ふぃあなはちゃんと、にいさまのいいつけをまもってました」
「うん、ごめんね。フィアナは優しくていい子だって僕はちゃんと知ってるよ」
そうしてあやす様に優しく私の頭を撫でる。
私は予想通りの展開となって、内心で胸を撫で下ろした。
これで変に違うリアクションをとられたら、その後の行動に困ってしまうところだったから。
でもそうはならないと、少なからずの自信はあったけど。
だってフェルハントの性格から考えると、宥めるかあやすかのどちらかしかないと思っていたから。
そんな事を考えながら、抵抗する事無く大人しく撫でられ続けた。
実は、この頭を撫でるという行為が思いのほか好きだったりする。
優しく一定のリズムで撫でられるのが、存外気持ちいいからだ。
きっとフェルハントの愛情が込められているからなのだろう。
それに、撫でたり摩ったりはヒーリング効果があるとも言うし。
おかげでプウッと膨らましたままの頬も、段々としぼんでくる。
その行為の前では長続きしないのだ。
そして笑顔が自然と浮かんでくる。
フェルハントはその事を分かっているからこそ、撫でる手を止める事はなくそれどころか目を細め、幸せそうに笑んでいた。
始めは気持ちよくてうっとりとしていたけど、それが数分も続くと流石に気になってくる。
本来の目的はこういう事ではなかったはずだ。
チラリと視線をフェルハントに向けても、「ん?」と幸せそうな笑みで見つめ返してくるだけ。
間違いなく、フェルハントからはこれ以上の行動を起こす事はないと分かった。
仕方ないかと、私はこっそりため息を吐く。
勿論フェルハントには、気付かれない様に細心の注意を払ってだ。
そうじゃないと、彼は間違いなく心配するから。
そして少しの不安も見逃さないとでも言うように、私の頬を両手で優しく包み込んでじっと見つめてくるのだ──真剣な表情で。
これは想像とかではなく、実体験に基づいた事。
もう溢れすぎる愛情でお腹一杯です。降参です、白旗揚げます。そう何度言葉に出そうとして引っ込めたか。
でもそれは言葉に、音となって外界に放たれる事は一度もなかった。
だって掛け値なしの愛情だもの。
打算も悪意も、一欠けらいや一ミクロンも込められてないもの。
だから私はなるべく彼に心配をかけるような事はしたくないと思ってる。
自分が譲れない事は別として。
だってさすがに自分を曲げ続けて生きていくのは、しんどいから。
何せ既に今の状況が結構しんどい事になってるし。
ふぅと自然にため息が出そうになって、寸前でなんとかそれを止めた。
此処で溜息をなんか吐いたら、意味がない。それこそ終わりだ。
頑張れ私! と、自分自身に無駄にエールを送ると気合を入れた。
とりあえず現状打破からはじめよう、うん。
「にいさま。いったいなんのごほんをもってきたのですか?」
気になって気になって仕方ないんです、とそわそわした動きをする。
そして視線をチラチラと何度も本へと向けた。
そうなると答えないわけにはいかないだろう。──フェルハントの性格上。
「フィアナに読んであげようと思って、一冊選んできたんだよ」
手を止める事無く、フェルハントは答えた。
読む? 私に?
此処には文字を覚えに来たはずなのに・・・・・・。
困惑気味にフェルハントと本を見る。
その視線を受け止めてか、フェルハントは撫でていた手を止めると苦笑を浮かべつつその本を私の目の前へと置いた。
「本当はフィアナに文字を教えたかったけど、それはフィアナが嫌だと言ったからね」
「いやだなんてふぃあなは、ひとこともいっておりません!」
どうしてそんな解釈をされたんだと、思わず語気を荒げてしまった。
そんな私に「ごめん、ごめん」とまた頭を撫でてきた。
「うん、わかってるよ。フィアナは優しいから僕を思っての事なんだと。
でもね。僕はフィアナには遠慮してほしくなかったよ。
たった二人の兄妹なんだよ? フィアナが甘えてくれた方が僕としては嬉しいんだ。
だって、僕はフィアナの王子様だからね」
そうして輝かんばかりの笑顔を浮かべるフェルハントを、私は直視する事が出来なかった。
ま、眩し過ぎるっ!! この笑顔っ!!
漫画なら間違いなく『キラッキラッ』──ついでにバラも背景にありそう──という擬音がついている事だろう。
この素敵スマイルは、妹の私なんかじゃなく他のお嬢さんに見せてあげた方がいいのではと本気で思う。
それほどに心臓を鷲づかみされる、最強の笑顔だった。
ああ、きっとフェルハントはこの笑顔だけで世のお嬢さんを悩殺いや、瞬殺出来るだろう。──間違いなく。
我が兄ながらに恐ろしいっ!!
そしてそのまま何処かへと旅立とうとしていた思考を、私は強引に目の前のフェルハントへと向けた。
流石に返事をしないとまずいからだ。
別にフェルハントが拗ねるとかいった事ではない。
理由は簡単。
そうしないと何時までもこの『キラッキラッ』が消えないからだ。
それでは困るのだ。
だって、誰かが探しに来ない限りこの体勢のまま動かない。いや──動けないからだ。それも『永遠に』と付けても問題ないぐらいに。
強烈過ぎる笑顔は、ある意味メドゥーサの瞳に匹敵するのではないだろうかと──勿論、見た事はないけど──今初めて気付きました。
自分がその立場にならないと分からない事って、世の中には本当にあるよね、なんて悟りを開いている場合ではなかった。
「ふぃあなはにいさまがだいじだから、だからにいさまのじゃまをしたくないのです。
こんなふぃあなはきらい、ですか?」
じんわりと瞳を潤ませて、フェルハントを見上げた。
悲しい顔とは裏腹に、脳は忙しなく動いていた。
もう、これでもか!! と言うほど頭の中では人生の悲しい出来事を思い出している。
だってそうでもしないと涙なんて浮かんでこないもの。
嘘泣きなんて本当ごめんって思うけど、それ以外この状況を打破する事は残念ながら私には出来ない。
間違いなくフェルハントを困らせるとは思うけど、何時までもメドゥーサ、もとい素敵スマイルに拘束されるわけにはいかないから。
だから些か強引な、そして絶対失敗しない方法をとらせてもらった。
案の定、フェルハントの笑顔は見る影も無く消え失せた。
「そ、そんな! 僕がフィアナを嫌うだなんて! そんな事、例え世界が崩壊しようともありえないよ!
僕はフィアナを愛する為に存在しているんだから。だから、ね? 泣かないで。
僕の愛しい愛しいお姫様」
フェルハントはまるで壊れ物に触れるかの如く、私の眦にそっと優しく唇を落とした。
そして滲み出ていた涙を拭い取る。
まさかそんな行動に出られるとは思わなかった私は「ひゃっ!」なんて間抜けな叫び声を上げてしまった。
驚きと共に、涙も完全に引っ込む。
いや、えっとあの、その・・・・・・。
あまりの事に頭も真っ白になり、段々と顔が熱くなってくる──きっと今の私の顔は真っ赤だろう。
そんな私の様子に、フェルハントは満足したのだろうか。
クスリと、笑った。
「やっぱり、フィアナは可愛いね」
耳朶へと触れそうな距離で、甘さを十二分に含んだ声音で告げられました。
思わず身体がブルリと震える。
あの、僅か六歳にしてこの行動なんですか?
色々と問題があるような気がするんですけど?
一体どこから突っ込めばいいのか、いやそれ以前に三歳児の私が突っ込んでいいのか。
そしてこの場合、私はどういった行動をとればいいのか。
ぐるぐるとただ廻るだけの思考に、私は答えを見出せないでいた。
このまま気を失うのが一番幸せだろうなんて考えた私は、決して間違いではないと思う。
ただ残念な事に、そんな器用な真似は私には出来なかったのだけど。