◆2-3
フェルハントはふらつく事もなく、しゃんとした足取りで部屋の真ん中を横切った。
私を抱え直す事もなく、安定した一定のリズムで歩いている。
僅か六歳とは思えないぐらいしっかりしていた。
こんな細い腕のどこにそんな筋力があるのだろうかと、首を傾げたいぐらいだ。
目指しているのはこの部屋に鎮座している、入った時にあったドアと同じぐらい重厚な、それでいて繊細さを感じさせる机のある場所。
そして同じような意趣を凝らした一脚へと、そっと、まるで壊れ物を扱うかのごとく私を降ろした。
そこまで気を遣わなくても怪我なんかしないのにと心の中で苦笑をしつつ、でもこれが彼の性格だから仕方ないんだよねと思った。
本当に私には過ぎる兄だと思う。
「ありがとう、にいさま」
「どういたしまして、僕のお姫様。僕が戻ってくるまでここで大人しく待っているんだよ」
チュッと私の頬にキスを一つして、フェルハントは部屋の奥へと歩いて行った。
私はその姿が見えなくなるまで笑顔を浮かべて見送る。
だって途中で何回かフェルハントが心配そうに振り返って、私の様子を見ていたから。
ここで不安げな顔でも浮かべようものなら、彼は間違いなく走って戻ってきただろう。
──フェルハントはそういう人物なのだ。
だから私は彼の姿が見えなくなるまで笑顔を浮かべている必要があった。
そして彼の姿が見えなくなったのを確認すると、ふうと小さくため息を一つ吐いて椅子へと凭れ掛かる。
三歳児を演じるというのは少なからず疲れるのだ。
だって、素の自分じゃないんだから仕方ない。
とりあえず歳相応らしくを心がけてはいるんだけど・・・・・・。
何せ近くに見本になるような子供もいないし、過去の自分の三歳児の記憶なんてものも残っていない。
だからたまに『失敗したかも』と思う時はある。
そういう時は、何もなかったように知らないふりで押し通したりしてるけど。
だから、ちゃんと演じられているのかは分からない。
でも見た目は明らかに子供だから、誤魔化されるかな? という思いはある。
今のところ誰にも指摘されていないからきっと、大丈夫──だと思う──そう信じたい。
悩んだって状況が変わるわけでもないし。
ここ前向きに生きていくしかないのだ。うん。
手持ちぶたさだったり、何もする事がないと気付けばそんな事ばかり考えてしまう。
──永遠に答えが出ない事ばかりを。
やる事があればそちらに意識が集中するから、考えなくてもいいんだけどね。
でも今はフェルハントが戻ってくるまで何もする事はないし。
部屋の観察って言っても、此処には何回か来た事があるしなぁ・・・・・・。
もう少し勉強が出来るようになれば、この部屋を十分活用する事が出来るのに。
そう思いながらちょっぴり恨めしげに、部屋を見渡した。
今私が居る部屋は、沢山の本が置いてある。──所謂書斎だ。
それも、個人の書斎なんていう規模ではない。
──この世界での個人の書斎の規模は分からないけど、少なくとも今までの感覚で判断するなら個人レベルではない。
前の世界の基準で言うと、ちょっとした学校の図書館というぐらいの広だったりする。
学校といっても規模によっては違うから、部屋の広さだけを表すとしたら二十五メートルプールぐらいというのが妥当かもしれない。
何せ三歳児の身体だから、全てが大きく見えてしまうので正確なところは分からないのよね。
そんな部屋に、天井近くまである高さの本棚が等間隔に並べられていて、整然としかもギッシリと本が入ってある。
定期的に整頓されているのか、それとも借りる人が定位置管理出来ているのかは分からないけど。
でも部屋が埃っぽくないし棚にも埃は見えなさそうだから、定期的に整理している人がいるんだろう。
そういう人がいても全然不思議ではない。
だってこの世界で私が生まれた家は裕福のようだから。
この広い書斎もそうだけど、他にも沢山──少なくとも三十ぐらい──部屋があった。私が歩き廻って調べた限りでは。
使用人という人達もいる──ちなみに私にも一人そういう人が付いていたりする。
家──屋敷と言った方がいいかもしれない──に置いてある家具や調度品も凝った物があるし。
今私が座っている椅子も、見事な華の彫り物がされていて木の温かみを損なわない意趣が施されている。
目の前の机なんか、真ん中をくりぬいて生花か造花か分からないけど花が数種類、お互いを引き立たせるような配置をしてその上からガラスが嵌め込まれている。
目の疲れに配慮してだろうか、上から見た時に和むような優しい色合いの花が置かれている。
しかもこれ、見る度にいつも違う花だからこれまた凄い。
一体どれだけの手間をかけているんだろうか。
そしてガラスの端には、椅子と同じように華の彫り物がされていた。
服一つをとっても、私が今着ている可愛らしい柔らか素材のワンピース──というよりドレスかもしれない──のような服も既製品なんかじゃないだろう。
サイズがピッタリなのだ。
窮屈さもゆるさも感じず、まさしく誂えましたとしか言いようがない。
一体何時採寸をとられたのか記憶に全くない辺り、このピッタリ寸法はどうやってと不思議には思う。
何気に縫い目なんかを見ると手縫いだったりするので、ミシンはこの世界にはないんだなぁなんて事を現実逃避とばかりに考えてしまったけど。
生地の肌触りも良いし──勿論化学繊維なん存在していないだろう──一体幾らかかっているのか気になるけど、正直聞きたくない。
聞いてしまうと、きっと着れない。
着たとしても気になって、あんまり動く事はしなくなるだろう。
だから私の精神の安定の為に、ここは気付かないふりをするのだ。
こういうちょっとした事だけでも、裕福な家だという事が窺い知れる。
でも実際この家がどれほど裕福で、どういった家なのか全く知らなかったりする。
裕福だと思うのはあくまで私の感覚で、もしかしたらこの世界では一般水準レベルなのかもしれない。
何せ誰も私に教えてくれないのだ。そういった事は。
だからこの家がどういった家で、親がどういう仕事をしているのか全く分からないのだ。
それ以前に私はこの家から出た事もない。
勿論、この家にある庭には何回か出た事があるので正確にはこの家の敷地内からとなる。
そう、こういった経緯から私はこの書斎にいるのだ。
──誰も教えてくれないなら、自分で調べるしかない!! そう思って。
だってこの世界の事すらも何も知らないし。
いやまあ、普通は三歳児にそんな事を教えてくれるなんて思わないから、知らないのは当たり前なんだろうけど。
だから自分で調べようと書斎にやってきたのだ。
数回、此処に一人でやってきた事はある。
お屋敷探検ー! と一人でちょこちょこと家の中を歩き廻っていた時に偶然この部屋を見つけたのだ。
たまたまドアが開いていたので、さっきのような苦労もせず入る事ができたんだけど──思うに、その時誰かが掃除をしていたからなんだろう。
思わぬ出会いにちょっと感動しながら、いそいそと本を手に取って開いてみた。
どんな事が書いてあるんだろうと、ドキドキしながら。
案の定──読めなかった。
言葉もすぐ分からなかったから読めないだろうなとは思ったけど、もしかしてとほんのちょっと期待をしていんだけど。
ミミズがのたくったような文字。
英語の筆記体とはまた違う。なんだろうこれ? そう思うぐらい今まで出会った事がない文字だった。
異世界だし、それも当たり前なんだろうけど。
だからといってここで諦める訳にはいかない。
分からなければ、覚えればいいだけの話だ。
誰かに教えてもらうしか方法がないのだけど、一体誰に教えてもらえばいいんだろう。
むむむと考え込んだところで思い浮かぶはずもなく。
私は食事の席の時に、思い切って両親に言った。
──文字の勉強をしたいと。
両親はまだ早いんじゃないかと言っていたが私が頑として譲らなかった為、そこまでしたいのなら仕方ないと苦笑と共に承諾してくれた。
そんな両親の様子に申し訳ないなと思わない事もなかったけど、それでも文字の勉強を諦める事は出来ないので心の中で謝った。
そうして両親が誰にお願いしようかと相談しあっていた時に、それまで黙ってやり取りを見ていたフェルハントが言ったのだ。
『だったら僕が教えるよ』と。
その言葉に私は慌てた。
何せ彼はこの歳にして、既に幾人かの家庭教師が付いていたからだ。
唯でさえ勉強で遊ぶ時間が削られているのに、自分の我侭の所為で彼の大事な時間を削る事は出来ない。
本来なら遊びたい盛りのはずだからだ。
だから私はなるべく彼を傷つけないように断るつもりだった。
『にいさまはおいそがしいのに、ふぃあなのせいでそのたいせつなじかんをつかってしまってはだめです』
本当に本当に、心を篭めて言ったのだ。
だがその言葉を聞いたフェルハントは瞳を悲しそうに伏せた。
そして意気消沈とした声音で『フィアナは僕の事が嫌いなの?』なんて言う始末。
まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかった私は、焦りながらもなんとか誤解を解いて元気を出してもらおうと、何度も何度も声を大にして言った。
『ふぃあなはにいさまがだいすきです!』『だいすきなにいさまをきらうことなんてぜったいありえません!』と。
今から考えるとどんな告白なんだと穴があったら入りたいと思うけど、その時は目の前の少年の沈んだ様子があまりにも居たたまれず必死だったのだ。
そんなやり取りをしていた私達を見た両親は『この件は少し保留にしましょう』と、私達の頭を落ち着かせるようにそれぞれ撫でながら言ったのだった。
──その出来事が昨日の事。
幾ら両親に保留にしようと言われても、文字を勉強する事を諦める事は出来ない。
だから私は今日も、文字を読めもしないのに書斎へとやって来たのだ。
まさかそこにフェルハントが居るとは夢にも思わず。
彼はきっと私が書斎にやってくると予想していたに違いない。
だから自分の自由に出来る時間に書斎で待っていたのだろう。
自分の行動が読まれていた事に恥ずかしい気持ちと、彼の自由な時間を無駄遣いさせた事に申し訳ない気持ちが沸き起こった。
それでも、そんな事を言動どころか表情に出してしまえば、間違いなくフェルハントが気にすると分かっていたので私は何も気付かないふりをしたのだ。
そうしてありったけの笑顔を浮かべた。
──ただ、思わぬところで大好きな兄に会った妹と思えるように。