第八話 浄化の儀 弐
全てを見届けて、舜は今一度流麗を見やる。すると、流麗は隣にいた道士へと目線を向けて頷いた。
他の道士と格好はそう変わらないが、手には帝鐘(三清鈴とも言う)を握って、一際風格ある雰囲気を醸し出していた。
「では、剋帝陛下。始めさせて頂きます」
若くはない女の声色で、道士は再度、舜へと儀礼を見せる。舜が頷けば、女道士の目線はそれぞれの道士や巫覡へと向いた。それぞれが既に役割を把握しているのか、ぞろぞろと動き出しす。集まった皇后を含む女たちを取り囲み、十人の道士ともう十人の巫覡は交互に、そして等間隔に並んだ。
何が始まるのか。多少の騒めきが起きるものの、別の音色が聞こえるとそれも一瞬で止んだ。
ピュー――と、金糸雀の鳴き声にも似た口笛が涼やか響く。
その音色で一堂の視線が流麗へと流れた。
それが、始まりの合図だったのか。舜は流麗の口笛に耳をすます傍らで、背筋が凍りつきそうだった。無数の蠢動が、嫌でもその身に伝わって動けない。唯一動く眼球をあちらこちらへと泳がせて、わらわらと蠢きこちらに向かって来るのではないかと気が気でなかった。
だが、舜の恐れを他所に、禍蟲達の視線はギョロリと動いてただ一点、口笛の音色の元へと集まる。その視線が口笛の主である流麗と交わると、一堂の顔に張り付いていた蟲達が一斉に動き出した。
人が消えた、とでも勘違いしてしまいそうなまでに蠢動する禍蟲の黒色と気配で埋めつくされる。しかし流麗が隋徳へとやって見せたように、くるくると指を回せば、吸い込まれるように禍蟲はその指へと向かいながら、砂のように崩れて次第に糸となった。
たった一人分の禍蟲などとは比べ物にならないほどの多量の糸が流麗の指を絡め取り漆黒へと染め上げていくが、巻いていく端から糸は溶けて、消えていく。
そばに居た羽虫達は消えて、流麗の口笛だけが暗闇の中で響き渡る。もう何もいないのだろうか。舜が気を抜きそうになった時。後宮の彼方。それも四方から、大勢の気配が寄り集まってくる感覚が、舜の全身を駆け抜けた。
ずるずると身体を地に這いずるような音ばかりが近づく。更には遠くから響いているはずなのに、耳元でも音がする。
気味の悪い音が己に迫っていような感覚に舜の顔色はみるみると青くなっていくばかり。けれども悟られまいと顔を俯けながらも、根気を振り絞って身体を支える脚に力を入れ続ける。
後宮にいたモノから、本殿にいたモノまで全てが一点――口笛に向かって集まって、気配はより濃厚になっていた。
視線は足元を見つめたまま、ふと視界が影に遮られた。雲が太陽を遮るよりも暗く、それこそ夜が迫り来る様に辺りが暗くなったのだ。
舜は恐ろしくも思わず伏していた目を開く。月光も、導となる星明かりもなく、真なる暗闇。それが一つの大きな塊になって差し迫り、まるで――全てを飲み込もうと大口を開けた異形のようだった。
だがよく目を凝らせば、暗闇の一部がザワザワと蠢く。
見慣れたと思っていた、黒々と蠢くもの達。けれども、空を覆う程、地を埋め尽くす程の多さに舜は思わず慄き後ずさった。ずずず――と音立て、暗闇が全てを飲み込まんとしている。
――見えない方が良い。こんな悍ましいものなど、生涯見えない方がいいに決まっている。
舜は、いつも以上に見たくもないものを映し出す己の目を呪いたくなった。視界から悍ましいもの達を追い出したくて、舜の目は恐怖から逃れようとして恐怖で震えそうになる身体を強張らせながら瞼を強く瞑る。
だが――
「陛下、大丈夫です」
暗闇の中の一筋の光の如く、清廉とした声が舜に届いた。
既に口笛は止まっていた。はっきりと聞こえた声を頼りに閉じた瞼を開いて、舜は声の主たる女へと双眸を向ける。恐ろしいまでに漆黒の闇であると言うのに、流麗の姿だけは視界にくっきりと映り込んで、存在感を露わにした。その白い面の奥底。舜を労る瞳が柔らかく笑っていた。
その微笑みが、自身の為のものであると考えるだけ、恐怖が遠のく。不思議と、何かに護られている感覚が舜に芽生えた瞬間でもあった。
そうしていると、今度はリーン――と甲高い澄んだ鐘の音が舜の感覚を遮った。女道士が帝鐘を振り鳴らして、後宮全体を見据えている。
銅特有の透き通った鈴音が暗がりの中で彷徨う者達の物音を掻き消す。リーン――と、一定感覚で響く度に、そばにいる筈の悍ましかった気配がピタリと止まる。
その瞬間に、道士や巫覡達が動き出した。
巫覡達は胸の前で手を合わせ、死者を弔う祈りを唱えて、道士達は右手の指を二本立たせて、何かを指し示す様に前へと突き出した。
殆ど同時だっただろうか。道士達が一歩前に出た瞬間、それぞれの道士の身体からさまざまな白い獣が飛び出した。兎や猫と言った可愛らしい獣もいれば、鷹や馬、中には虎まで。暗闇の中で、まるで導きの灯籠が如く白光しては、行く先を照らす。その先に、姿を現したるは、すぐそば迄迫っていた彷徨える幽鬼達だった。
野山を駆け回るが如く、その軽快な事。獣達は勇ましく縦横無尽に駆け回り、白光した身体が眩しく闇を照らして、次々に幽鬼達の身体を突き抜けていく。すると、獣達に捕まった幽鬼の姿は、次々に、すうっと煙の様に消えていった。
舜は夢でも見ている気分だった。
視鬼と言う特殊な目を持つからこそ、見える世界。踊る様に幽鬼を屠る獣達。つい先程まで恐怖に染まって見えていた世界が、途端に神々しく映る。
しかし、見えぬ者達は、何が起こっているのか判らず、犇めきあって、恐怖こそ芽生えるが悲鳴も上げられない。ただ、ざわざわと何かの気配がまとわりつく感覚でもあるのだろう。
ある者は、身体を震わせるほどに怯え。
ある者は、何かが見えるのか目を塞ぎ。
またある者は、耳を塞いでいた。
「姚女士、そろそろ終いだ」
帝鐘を鳴らす手を止めた女道士の声に、流麗が頷いた。再び流麗の口から、ピュー――と金糸雀の音色が鳴る。同時に、流麗の右手は道士達と同じく人差し指と中指を立てて胸の前で構えた。
既に、幽鬼が綺麗に浄化されたと言っても良いほどに静寂を取り戻した後で、今度はピンと糸を張ったような耳鳴りが舜を襲った。
また、違う気配がやってくる。
それも、流麗の中から。
ずる――と、舜は足下から何かが這い出した感覚に、動けなくなった。
気配は一瞬で舜の視界を埋めたかと思えば、静かな羽音を立てて次から次へと現れる。
鴉だ。それも、大きな翼を広げた、何十、何百という黒鴉達が流麗の身体から続々と翼を羽ばたかせ、迷いもなく空へと舞っていく。白い獣達と同じように縦横無尽に空を舞い、集まっていた蟲達はその何かへと吸い込まれていくように向かう。
その姿に舜は思わず眉を顰めた。
――蟲を、喰らっている……のか?
共食いの如く闇が闇を喰らう姿。舜はいつの間にか動いた頭を自然と上へと向け、その姿に釘付けになっていた。
段々と、空を覆っていた蟲達が減り、最後に地を這っていた蟲達をも飲み込まんと地に降りてくる。暗闇が無くなり、もとの明るい日差しが戻る頃には、蟲は一匹たりとも姿がなくなっていた。
ヒュウ――と、ささやかな秋の風が通り過ぎる。清々しい風の中、今まで黒く滲んでいた世界が煌めく様に輝き出す。後宮の華やかな世界が眩しい程に舜の瞳にしっかりと映り込み、更には誰の顔を見ても表情がはっきりと見える。
ようやく平常に戻った報せで、流麗に終わったのかと問いかけようとした。
だが、流麗の双眸は女道士と共に同じ一点を見つめて、今もまだ厳しい顔つきのままだった。
その炯眼の先は、喪服にも等しい黒衣を纏う女――周皇后。
周りの女達が未だ怯え戸惑う中で、ただ一人。何事もなく平然と立ち尽くし、舜の姿をどんよりとした重たい目線で、じいっと見つめていた。