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第二十七話 愛しき我が子よ 弐

 煌びやかな黒絹を纏う闇に包まれた女。黒衣は死者を弔う喪服のよう。聖母が如く柔らかい微笑みを腕に抱く黒い()()に向けている。

 その、醜悪なまでに悍ましい()()()()()()()()に。


 枯れ枝の如く萎れた身体は赤子の大きさだが、ぎこちなく動いては、母を求めて枯れ枝の萎びた腕を伸ばす。鳴いているのか、「ああ……」と(かす)れた呻き声にもにた音が、繰り返し蟲の蠢く音を歪ませた。


 ――あれは……


 舜は、一歩前に出ようとしたが、すかさず流麗が左腕を伸ばして遮った。


「陛下、もっとよく目を凝らして下さい。目を凝らせば、この暗闇の形が見えてくる」


 舜は戸惑いながらも流麗の言葉を口の中で反芻した。流麗と舜では、未だ見えているものが違うのだと。もっと、もっと、深い底を見なければ。

 そう、例えば水底を覗き込むように。川面からは見えないものも、水中へと身体を沈めてしまえば良く見える。


 舜は今一度、瞼を閉じた。ずぶずぶと沈む感覚に身を投じ、あたかも水の中へと沈み切った感覚で目を開く。

 暗闇の中、明瞭になった景色が舜の目に入り込んだ。


 枯れ枝のような蔦に絡まれた周皇后。糸で吊られた人形のように、その腕、その足、首に絡まった蔦。その蔦は部屋中に広まって、それこそ、舜の足の爪先にまで及んでいる。蛇のように動いては、それ以上を近づこうとしない。

 その出所は、腕の中にいる――


「陛下、周皇后は悪鬼宿す存在です。悪鬼を殺せば宿主は死にます」


 淡然たる口調は既に見切りをつけているようで、流麗の右手は言葉の吐露と共に剣に触れていた。

 聖母然としたと思っていた顔色は、今にも虚無に飲まれんと呆然と赤子に似たそれを見やる。記憶の中にしか存在しない(しょう)を、現実でも腕に抱いているかのように愛しき者へと向ける眼差しが、眩しくも儚く消えた。


 流麗は剣を抜く。流麗が構えて強く柄を握れば、ぞわりとした空気を纏い、剣身の輝く光沢の鋼色は黒鉄色よりも更に濃い黒へと染まっていった。今いるこの空間と同程度かそれ以上の禍々しき気配が剣からも伝わる程に。


「私が他を引きつけます。陛下は、皇后陛下を助ける事だけを念頭に置いて下さい。前だけを見て」


 どうか、周皇后陛下と尚殿下の為に。そう言い残して、舜が返す間も無く流麗は動いた。踏み込むと同時に流麗は高々と飛ぶ。右手に剣を構えたまま、左手で印を結んで、その姿は闇夜に飛ぶ鴉のよう。


 しかし、動き始めた流麗を警戒してか、蟲達の蠢きが更にざわざわと激しくなった。蛇が鈍間に動いているだけだった様子の蔦も、一瞬にして牙を剥き、流麗へ絡みつこうと迫る。

 槍のように先端を尖らせて、歴戦の将が敵を射殺さんとする勢い。高々と飛んだ流麗の心の臓を貫こうと殺意を纏わせる。

 ただの蔦に見えたそれらは絡み合い、流麗を止めようと必死。宿主である皇后を殺されたなら、それこそ悪鬼は死を迎えるのだろう。

 宿主さえ、奪われなければ。その意思がまじまじと見えた。


 禍々しい気配の殆どが、流麗へと向かって行った。流麗は陰の気を宿した剣を守りにこそ使えど、決して攻撃はしない。

 蔦から蔦へと飛び移り、時には鴉達を足場にして、宙空で翼が生えたように舞う。更には、流麗から現れた鴉達も、流麗を守ろうと翼を広げて攻撃をいなすのみ。

 天井という概念を失った異界では、鴉達は縦横無尽に飛び回り続けた。

   

 蔦が執拗なまでに流麗を追いかけて、気がつけば舜の眼前に群がっていた蔦が減り、辺りが開ける。それでも、残った蟲や蔦が舜を阻もうと少しづつ舜へと近づいていた。

  

 舜もまた、剣を抜いた。

 剣が重い。その重みが、もう永く剣を握っている暇もなかったのだと実感させる。筆の感覚が掌の中で邪魔をして、染みついた感覚を振り払うように柄を握りしめた。

 まだ気とやらは理解できてはいない。だが、立ち止まっているわけにはいかなかった。


 舜は恐れる事なく踏み出した。瞬間、残っていた禍蟲の群が更なる動きを見せる。蟲は寄り集まり、一つの塊となって全てを飲み込む。まるで全てを食い散らかす(いなご)の大群のように襲いくれば、舜は迷いなく剣を振るった。

 斬っても、斬っても、効果の程は殆どない。ただ散らして、また寄り集まって元に戻るだけ。


 それでも前には進める。一歩。一歩づつ。そうしてたどり着いた、周皇后の眼前。


蒿李(こうり)……」


 親しみある者へ向けた声色が、久方ぶりに口にしたその名前。赤子ばかりを見つめていた周皇后の生気の無い目が静かに舜を捉えて、僅かに身体が揺れた。

 されど、その目の色は常闇と同じ悍ましいまでの黒を宿したまま。


 舜の敵意は、周皇后が腕に抱く赤子へと向いた。枯れ枝のような身体のそれは、よくよく見れば周皇后の胎の辺りと繋がっている。 

 その様が意味するもの。舜は目を背けるわけにはいかなかった。彼女が最も大切にしていた存在――我が子への想いが今もなお続いて肉体を蝕んでいるのだと知れば、舜は血が暑くなるのを感じた。


「蒿李! 尚はこの世にはもういない。紛いものを生み出す程に悲しみにくれていたのだろう。皇后になったから、尚を失ったのだと俺を恨んだのだろう!?」


 舜の叫びに、周皇后の身体が更なる漆黒へと染まっていく。黒絹は輝きを失い、肌の色すら全て常闇と同化していく。


「あの子とそなたと共に過ごした時間は、俺にとっても幸福そのものだった。あの時だけは、そなたの幸せに満ち溢れた表情が俺にもはっきり見えていた!」


 舜は、人の表情は()()見えてはいなかった。けれども、時折、靄が晴れて顔が見える時があった。

 悪意など無縁の、無垢なる心。周皇后が、尚に微笑みかけるその時。眩い光に照らされた母の顔が、確かに舜にも見えていた。

 その瞬間こそが、舜にとって掛け替えのない時間だった。 


「悪鬼になど身を落とせば、尚と過ごした記憶も、想いも全て消し去る事になるぞ!」


 漆黒に染まった皇后の視線が、完全に舜を捉えた瞬間だった。その目からは涙を流し、正気に戻ったかのように腕に抱く何かから抵抗を見せた。腕に抱えたものを忌避するかのように、ギチギチと絡まった蔦が唸る。

 周皇后の力では、それが限界だった。 


「……陛下、私は……」


 掠れた、二人の声が重なり合ったかのような異質な声。けれども、その声は怯えたように震えている。


「申し訳……ございませんでした……」


 最後に、それだけを伝えると、周皇后に纏わり付いていた蔦が蠢き始め、禍に呑み込まれた。


「蒿李!!」 


 舜は剣を構える。されど、構えたところで、それはただの剣だ。人ならばいざ知らず、悪鬼は滅せないだろう。だが悩んでいる猶予はない。目の前で、呑み込まれた周皇后とは違う気配が生まれつつあるのだ。

  

『同じ系腑に属するもの同士では、どちらか勝る方しか生き残れない』


 今になって、流麗の言葉が重くのしかかる。舜が、周皇后を助ける事が出来ねば、流麗が代わって悪鬼を討ち取るだけという話だ。

 けれども、それでは――


 ――また、人が死ぬ。

 ――俺と関わったばかりに、人が死ぬ。


 禍に埋もれていた感情が蘇りそうだった。

 悍ましく腹の内を這いずり回る錯覚まで目覚めそうで、舜は焦りと共に腹を摩る。額からは冷や汗が出て、一歩が踏み出せなかった。

  

 だが、暗闇の彼方からピュー――と口笛の音色が届いた。金糸雀の声に似た、美しい音色。


「流麗……」


 その音色は、常闇の中、舜は孤独ではないと教えてくれるのと同時に、流麗の言葉を蘇らせた。


『私にとって、陛下は光です』 


 決して、舜の周りには死ばかりではなかっただと、教えてくれた言葉。その言葉が、舜の心に火をつけた。

 構えた剣を握り直し、(きっさき)を周皇后が常闇に消えた先へと向ける。目を凝らし、そこに何がいるか。もっと、もっと深くへ――


 舜の狙いが定まったかのように、目を見開く。その時――眼光が炯々と輝いた。

 瞳が鋭く、金色(こんじき)の輝きへと変貌する。

 既にこの世から姿を消したと言われている、龍の鋭さの如く。

 

 姫家は古く、龍であったという逸話がある。

 遥か太古の世にて、この国を支配していたのは五色の龍達であった。その中心は、金色の龍。姫家は、その末裔。

 龍の伝承を彷彿とさせる瞳は、舜が見ていた世界を変えた。

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