第二話 皇帝陛下は多忙である
舜は父親の急逝により、十四歳という若さで皇帝位へと即位した。
だからと言って、廷臣達の傀儡になる事もなく、二十二歳になる今日まで駆け抜けて生きて来たと言っても過言ではない。それまで、先帝が残した負の遺産を全て拭い去ろうと政務に一心不乱に向き合ってきたのだ。
父――儒帝・姫桿楡は途方も無い程に――それこそ国庫を逼迫させる程に後宮に力を入れていた人物でもあった。ある意味で、種馬の役割を果たしていたとも言える。が、暗君と揶揄される程に好色で、手当たり次第に手を出していたのもまた事実だった。
政務もそこそこに取り憑かれたように後宮に入り浸り、子を何人ともうけるほどに肉欲に溺れた皇帝。
舜にはかつて二十人近い腹違いの兄弟妹が存在したが、その全てが流産や幼くして亡くなるなどして育たなかった。生き残ったのは、たった一人の異母兄と舜だけ。その異母兄すらも、既に亡くなっているという凄惨たる結果だけが今も尚、事実として残っている。
舜の記憶の中でも、姫桿楡と言う人物は、父でもなければ皇帝というにも足らない人物だった。
気が弱く、流されやすい。自身が皇帝という立場であるにも関わらず、高圧的な態度を示すものや、口調の強い者に怯え、舌先三寸で言いくるめてくるような言葉を鵜呑みにする。
自分を守る事ばかりに必死で、皇帝として、夫として、父として、男として、何一つ矜持のない人物。それが、舜の目に映る父の姿だった。
そんな人物が皇帝になった結果が、当時の後宮の姿だった。妃嬪達は上へと這いあがろうと、都合の良い甘い言葉を吐く。ほんの少し慰めれば、喜ばせる言葉を紡いだなら、望んだ宝飾や小さな位が容易に手に入る。甘言もまた毒と言えるだろうか。女達が儒帝に取り入るのは容易く、気の弱い男が安易に安らぎを求めた先は想像に難くない。
当時の後宮は、三妃、九嬪、二十七世婦、八十一御妻で構成され末端の下女までもを含めれば三千人を超える大所帯だった。
それが今や、頂点を皇后とした、貴嬪、貴人、美人、宮人の五の位しか存在していない。同時に女官や下女の数も大幅に減り、膨れあがった後宮も今では使われていない宮の方が多い程だ。
謂わば、節約である。が、それ以上に舜が後宮と言う姿を嫌悪した結果でもあった。その実績と国政を立ち直らせる為に一心不乱に働いて来たが故に、舜は優れた明君と言われたが――――ただの一点。
子を成せない事を陰で囁かれるようになっていた。
『皇帝陛下は、種無しである』、と。
◆◇◆◇◆
「陛下、あまり顔色がよろしくありませんな」
早朝の政務の合間、顔を出した侍医が険しい顔つきで言った。
日出の正刻の鐘の音(朝六時頃)と同時に起き、机に向かう姿こそきびきびとしているが、侍医の言葉通り舜の顔は青ざめている。
舜は淡々と書簡を読んでは、侍中にあれこれ指示をしていた。まるで侍医など見えてはいないかのようで、目を向けもしない。
「陛下。お返事をせずとも結構ですが、御自身のお身体をお考え下さいませ。何か手立てを考えませんと」
そこで、漸く舜は侍医を見た。白髪で白髭を蓄えいかにも温厚な老人姿の男――隋徳。舜の事を幼少の頃よりよく知る男は、舜に頭を下げこそすれ怯えはしない。
「手立て……と言ったな。余は不治の病か?」
「似たようなものかと。陛下は健康体です。ですが日に日に弱っていらっしゃる。薬では治せない病に罹っていると考えねばならないでしょう」
「誰かが余を呪ったか」
「かもしれませんが、私の専門外です」
「だろうな。医者に呪いは治せんだろう」
「ですので、専門家に頼ろうかと」
隋徳の言う専門家なるものに、舜も思い当たる節はある。だが、思い当たったからこそ、その顔はさらに険しくなっていた。
「城に勤めていた道士、巫覡は父が不要だと言って全て斬った。縁あった道観や寺院は力を貸してはくれんだろう。呪術師でも探すのか?」
「分かりかねますが……一つ、当ては見つけました」
「当てだと?」
嫌味混じりの応酬の末、舜は苦々しい顔をしながら隋徳をじりりと見やる。医者が匙を投げた先にある“あて”なるものなど、どう考えても怪しきことこの上無い。
道士や巫覡には詐欺が多いのが実情である。実際に力を持つものは少数な上に目に見えないのだから、その力が実感できるのは自身が怪しげな何かの被害に遭って解放された時だけなのだ。
ちなみにだが、医者も詐欺が多い仕事だ。隋徳が斬られなかった理由は、良く効く薬を作る事ができたから、と言える。
目に見える効能があるからこそ、彼は今も弟子を育てながらも老体に鞭打ち侍医をこなしていると言うわけだ。が、そんな男があてなるものを探してきたと言って、「そうか、早く見せろ」とすかさず口にするほど舜は素直ではなかった。
「詐欺では無いと言う証拠はあるのか」
「あります。過去に顓頊帝に仕えていたという資料も残っており、今も一応は貴族の様で」
「そんな家は知らんぞ」
「顓頊帝の世――八代も前の事にございます。ご存知なくとも、無知にはなりますまい」
舜は思うところがあって顔を顰めるも、侍医の捻くれた性格を良く知っているのもあって咎めない。どの道、反論したところで他に手立ても無いのだ。
諦念を込めた溜め息を吐いて、「……それで、名は」と渋々口にした。
「姚家にございます」
隋徳が口にした名を、舜は頭の中で巡らすも、そういった噂のある家名に覚えはなかった。
「存在するのか」
「ええ、現当主に直接お手紙をお送りしましたら、良いお返事がありました」
「……余の許可なくか」
「ええ、どうせ陛下は二の足を踏むと考えていましたので、一度呼んだ方が早いと思いまして」
酷い言い様である。舜の性格などお見通しと言わんばかりに、温和な爺はニコニコと「ほれ、許可だせ」とほくそ笑んでいるのがまた憎らしい。いや、舜の目には黒い靄と蟲が這うさまが映っているだけなので、多分そんな様子だと勝手に頭が表情を作り出しているだけなのだが。
「……わかった、面通しの許可を出す。それで、いつ来る」
「今日です」
間髪入れずに答える隋徳の顔は、やはり笑ったままだった。
「やはり、一回首を斬るか」
「何をおっしゃいますか。私ほど優秀な医者もおりますまい。後悔するのは、陛下でございますよ」
「お前の弟子が同程度に育ったら教えてくれ、その時にまた考える」
「では、まだまだ先は長そうですな」
如何にも好々爺然として「ほほほ」と笑う姿。
こいつ腹立つ。などと、子供のように喚き散らしたい気分ではあったが、周りでは今も侍中達が、手の止まった舜の次の指示を待っている。
口で勝てた試しがない。分が悪い状況で、舜はうんざりした目を隋徳へとよこして踏ん反り返るように椅子に背を預けた。
「……それで」
「禍祓いという仕事を生業にしていると」
「到着次第、余の前に連れて来い。詐欺師かどうか見極めてやる」
「ええ、陛下の慧眼に狂いはないでしょう。ご自身でお確かめください」
ではまた後程。そう言って隋徳は軽口を叩いていたとは思えぬ程に、深々と舜に揖礼(深めのお辞儀)を見せて執務室を出て行った。
「厄介なのが来ないと良いが」
ぼそりと、呟く言葉は側にいたどの侍中にも届かなかった。