第十四話 皆様噂話がお好きなようで 参
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秋晴れの良い陽気だ。
執務室へと差し込んだ光が机の上を眩しく照らして、舜の脳裏に呑気な言葉が浮かぶ。しかし同時に、視界に入り込んだ机の多量に積まれた書簡が現実を見せ、そんな呑気な言葉は儚くも消えるというものだ。止まっていた筆へと意識を戻し、書きかけの文字の続きを繋いでいた。
舜はいつも通り政務に励むばかりだったが、心なしかいつも以上に急いでいるようにも見える。傍目にはほんの僅かな差だろうか。心持ちがいつもと違って見える程度のものだった。
一時的にだが禍蟲が抜けて、思考も身体も頗る調子が良い。僅かな差異に気がついた侍中達も、ただ不調から回復されたからだろう程度に済ませて、淡々と職務をこなし続けた。
漸く溜まっていた書簡の山が目減りして、日中(昼十二時頃)の鐘も鳴るかと思える頃、濃紺の官服を身に纏った二人の文官が舜の執務室を訪れた。揖礼したままの姿でも、特徴のある色が目に入る。どちらの文官も青みがかった髪色で、陽皇国の南部にある藍省をとりまとめる一族――蒼家特有のものであると一目で窺い知れた。
その蒼家の一人。一歩前に出ていた蒼園樹尚書令は揖礼した姿のまま、「陛下に内密のお話がございます」と告げる。内密という割には侍中達の目の前で堂々と「内密」などと宣うものだから舜は呆れるが、蒼園樹とはそれなりの付き合いもあり、何と無くだが真意が読めたのか軽く頷く。背後に立つ、もう一人の蒼家のゆかりらしき文官にちらりと目線を移して、書きかけだった書簡を最後まで書き切ると筆を硯へと置いた。
「白侍中、皆を連れて一度抜けてくれ」
舜の一声で、白侍中と呼ばれた侍中頭である線の細い高年の男は眉の一つも動かす事なく、作業を続けていた侍中達を呼びかけた。そのまま侍中達は颯爽と蒼尚書令の横を過ぎ去っていくが、扉一歩で振り返る。
「それでは、昼餐が終わる頃には戻ってまいります」
最後に白侍中はそう一言告げて、他の侍中達を引き連れるように扉の向こうへと姿を消した。
足音が遠のいて、今度は蒼尚書令が顔を上げて前に出た。それに倣い、背後にいたも顔を上げて舜へと近づく。その顔に、舜は見覚えがあった。と言うよりも、昨日初めて見たばかりの顔の内の一人だ。舜は目を見開くも、その後に訪れたのは驚嘆ではなく呆れ顔。何せそこにいたのは、己が妻の一人――何食わぬ顔した蒼貴嬪だったのだ。
いつもの華奢で華美な衣とは違い、濃紺の官服を身に纏う姿は様になっている。化粧もしていないからか、蒼尚書令の中性的な顔と並んでもさして違和感もない。恐らく、蒼貴嬪の顔をしっかりと認識していなければ、妃嬪の一人どころか、女と気付く事もないだろう。
呆れ顔の舜を前にして、口角を上げた蒼貴嬪の口元がしてやったりと微笑む姿は、腹立たしさや呆れなど通り越して関心さえ生まれる。先帝時代であれば大事だな、と舜はどこか他人事のように頬杖突いてわざとらしく嘆息した。
「全く、どうやって後宮から抜け出したんだ。しかも昼間だぞ。露呈したらどうするつもりだ」
「そう難しい事でもありませんよ。それに、夜は陛下がお忙しいようですし」
皇帝を前にして、良い度胸である。肝が据わっていると言うべきか。蒼貴嬪が何を言いたいかを察した舜は、一度蒼貴嬪から隣に立つ蒼尚書令へと視線を移し、じとりと睨む。
「妹を甘やかすと碌なことにならん。何かあっても必ずしも余が便宜を図れるとは限らんぞ」
脅し文句にも似た苦言を述べた顔は露骨に憮然として、妹だからと安易に手を貸すなと目で訴える。しかし、蒼尚書令もまた憮然として意に介さない。
「蒼貴嬪の性格は入宮されるより以前からご存じの筈。妹の性格は破綻しているので、陛下の障害にはならないが利益にもならないと忠告した事をお忘れですか? あとこれは甘やかしているのではなく、蒼貴嬪なりに陛下との今後を見据えての行動です。それに、計画から逸脱したのは陛下の方では?」
兄妹揃って言いたい事は同じらしく、睨める舜の視線など軽くかわした蒼尚書令の視線は乾いた笑いすら浮かべていた。
「面倒だ。言いたい事があるならはっきり言え」
「言わねば判りませんか?」
「何と無くだが察しはつく。一応その口から訊いておこうと思ってな」
乾いた笑には、辛辣なそれで。舜の眼差しは怒りこそ無けれど、笑も無い。舜の表情は何とも言えないものであったが、蒼貴嬪は「では、遠慮無く」と、しっとりと笑っては口を開いた。
「昨晩何故、姚流麗を耀光宮へと招いたのですか? 真意が測りかねます。それとも陛下ともあろう方が、噂通り女道士に絆されて女の魅力に取り込まれてしまったのですか? お加減も良好と耳にしましたし、陛下と交わした契約を踏まえても昨晩は私の宮を訪れると思っていたのですが……陛下の先行きにも繋がりますし、私も立場なるものが御座います。そのお口から何かお言葉があると、私も意を汲みやすいのですが」
捲し立てるように一挙に羅列された言葉。舜を責めているようにも思えなくもなかったが、それは蒼貴嬪でなければの話。しっとりとした笑みを浮かべたままの表情は、面白がっている時のそれだった。
「昨晩は何も無い」
「閨にお招きしたとまで噂がたっていますが?」
「噂はそのままにしておけば良い。あれらに真実など関係ないからな」
「では、陛下は今後をどうお考えで?」
蒼貴嬪の躊躇いない口ぶりに、舜は僅かな間が空いて、口を引き結ぶ。決めきれない何かを吐き出せずに、だが目線は蒼貴嬪から外す事は無かった。
「陛下、これからはもうお身体の不調を理由に妃嬪達を退ける事は不可能でしょう。であれば、私と陛下の相互利益を保つのが一番の手のはず。それを示すのは昨日が最善と言える日でした。昨日のあれは何が起こったかなど私にも理解はできませんでしたが、陛下が後宮に一区切りをつけたとされる意思表示と考える者は多かったでしょう。それを、女道士にうつつを抜かして折角の機会を台無しにする理由をお聞かせ願えないか、と。あれでは、私もこれからの後宮での生活に不安を覚えます」
「なにが不安だ。誰よりも快適に生活を送っているのはそなただろうが」
「それをお許し下さったのは陛下ですよ」
「ああそうだ。そなたは貴嬪などという厄介な席を埋めてくれたならそれで良い。それ以外は干渉しない。そなたも余に干渉しない」
「それでは、姚流麗を後宮に迎えるおつもりで?」
「いや」
悩む間もなく、舜は返す。その瞬間に、それまで面白がって口角を挙げていた蒼貴嬪も、その隣でやりとりを見るに止まっていた蒼尚書令も、舜の答えに戸惑いを見せて虚を突かれたように固まる。
「姚女士は、姫家に仕えている……ただ、それだけだ」
堪えるように手を握りしめ、舜は静かに目を伏せた。