2
アゲハチョウが蜘蛛の巣に引っかかった。キリギリスが気になって蜘蛛の巣に駆け付けて見ると、すでに虫の群れが蜘蛛の巣のまわりを取り囲んでいた。集まった虫たちはそれぞれ思い思いのことを口にしていたけれど、一匹たりともアゲハチョウを助けてやろうというものはいなかった。その大半は「まだ若いのに……」だとか「可哀そうに……」だとかを口にするばかりだ。
幸運なことにその蜘蛛の巣の主のジョロウグモは何日か前に息を引き取っていたらしく、アゲハチョウの横に干からびたジョロウグモの死骸が、糸に絡まってそのままになっていた。
しかしアゲハチョウは悲鳴をひたすら上げ、もだえ狂うその度に、蜘蛛の巣が彼女をがんじがらめにしていく。
――もう、アゲハはダメかもしれない。
周囲の虫たちがそう諦念したのか一匹、また一匹とその場を去っていった。彼らが消えた草むらの中から、虫たちのさざめきが、キリギリスにも聞こえてきた。
けれどもそれはアゲハチョウのことを喋っているのではなかった。なぜならこの世界の中で一匹の蝶の命など、それはそれは軽いものだったから。
それはあんまりなことだとキリギリスも思う。しかし周囲の虫たちはこんなに近くで同じ虫が死に瀕しているというのに楽しそうに笑い、談笑し、泣き、楽器をかき鳴らすのだった。
そしてキリギリスもかわいそうだなあとは思いながらも楽器を弾く手は休めない。コンサートはすでに始まっているのだ。「さあベイビー、俺はここに居て、君のために弾いてやるからな……」
「あんたって最低ね」蜘蛛の巣の中からアゲハチョウが言った。「助けなさいよ! カラカラになっちゃうじゃない!」
「別に君のために歌ってるわけじゃないぜ」キリギリスはこともなげに言った。「君はそそらないからな」
アゲハチョウの怒りが爆発した。「あんたなんか虫以下よ」と虫たちが良く使うお決まりの罵倒語から端を発し、体を震わせながらキリギリスがいかに軽薄な遊び好きの虫なのか、言葉を尽くして罵るのだった。キリギリスもそれには少し堪えたが、演奏はやめなかった。
そうこうしているうちに草かげから一匹の虫が出てきて、キリギリスに向かって、ポロロン、とマンドリンを弾いた。
メスのキリギリスだ。
キリギリスは往年の名曲「春の恋」の演奏を始める。
上から「覚えてなさい」と、アゲハチョウが言った。「化けて出てやるわよ。生まれ変わったら、あんたなんか踏みつぶしてやるんだから」キリギリスはそれを鼻で笑い、バイオリンを弾く。彼にとって、アゲハチョウはもう死んでいた。死んだ虫だった。「ムードがなってないわ」メスのキリギリスが言った。「あんなのの傍で、私にやれっていうの?」
「勝手に殺さないで」
二匹に割って入るようにキリギリスが言った。「なにかの飾りだと思ええばいいさ」
大きな何かが通りかかった。馬ではない。それは人だった。人間は緑がかった帽子をかぶっていて、胴着とズボンは青と茶色だった。三匹にはそれが体毛のようにも表皮のようにも見えた。そして何よりこの生き物からはいいにおいがした。虫たちが好む香りだ。あれっ! 助けてよ! アゲハチョウがひたすら訴える。体をよじらせると、糸が彼女の身体にさらにきつく食い込んだ。
しばらくそれは巣の前で呆然としていたが、やがてその生き物のいい香りのする指がアゲハチョウに伸びた。指には光る石のようなものがくっついていた。まるで玉虫のようだった。生き物の手はアゲハチョウの羽根をつかんだ。死んだ。キリギリスは思った。アゲハチョウも身もだえし、それに抵抗した。それから起きたのは意外なことだった。手はアゲハチョウを蜘蛛の巣の糸から外すと、そっと彼女を草の葉の上に置いたのだ。
アゲハチョウは感激しているようだった。
しかし彼女の羽根はやられ、もう飛べない体になっていた。
それでもアゲハチョウは飛ぶことを諦めなかった。羽ばたきを陸の上で繰り返した。生き物――人間は何か言葉を漏らした。三匹には聴き取れなかった。人間は行ってしまった。アゲハチョウは懸命に羽根を動かし続けた。