君を拾った、私達の話。
「あーもうっ! やっぱり天気予報なんて信じるんじゃなかった!」
その日、私は悪態を大音声で叫びながら全力で走っていた。朝整えた髪はずぶずぶに濡れて見る影もなく、つい最近クリーニングに出したスーツには跳ねた泥が付着して無残な姿のまま肌に張り付いていた。
唯一良かったことといえば、突然の大雨のおかげで人通りが全くないことくらいか。こんな姿を不特定多数に見られずに済んだのだから。
慣れない運動に息を切らしつつ、明らかに用途にそぐわないヒールでアスファルト上をひた走る。もはや急いだところで取り返しがつかないほどに雨に打たれはしたが、それでもいつまでも晒されている趣味はない。
「ッわ……!」
ポキリ、そんな嫌な音が足元から聞こえた。正確には、左の足裏から。
「ヒッ」
急に放り出されて止まらない重力を感じ、傾く視界に情けない声が喉から鳴る。しかし、ここまで走ってきたことによるアドレナリンのおかげか、鈍間な私にしては珍しく咄嗟に右足が前に出た。
突いた右足で、そのまま地面を蹴りこむ。私の体は物理法則に従って、そのまま他人様の家の生け垣に突っ込んだ。
ざばざばと降る第二の雨と生い茂る緑の中、私はバクバクとなる心臓と浅くなった自分の呼吸をしばらく聞いていた。それからようやく、突っ込んだ姿勢そのままに自分の体を見回した。
「は、はは……セーフ……」
もはや乾いた笑いしか出ない。他はこんなにも濡れているというのに。
生け垣に体を預けたまま、なんとなしに空を仰いだ。湿ったグレーと白の入り混じった曇天が広がり、そこから急に現れたかのように水滴がぼたぼたと垂れてくる。ふと視線を下に戻してみれば、無機質なグレーのアスファルト上には折れたヒールが転がっていた。
左足を見ると、案の定根元からぽっきりといっていた。特に不思議なことでもないが、こうして視認すると中々嫌な気持ちになる。
ここまでとは違ってゆっくりと生け垣から体を起こす。引き留めるように濡れた葉が引っ付いてくるのを、無理やり剥がしてやった。
つくづくツイてない。今日だって、本当は彼氏とデートの予定だった。急に用事ができたとかで、直前になって断られてしまったが。
仕事もうまくいかなかった。部下のミスとはいえ、私の責任も多々あった。
今も低気圧のせいか頭がひどく痛む。足の痛みは……さっきのか。
胸がぐうと狭くなった気がした。瞬きが多くなる。視界がぼやけるのは、雨のせいだろうか。
おもむろに手で顔の雨を拭う。もうすぐ家だ、帰って早く寝よう。そう思いなおして顔を上げると、少し遠めに見えるアパートの1階部分、角部屋である205の扉の前に誰かが立っているのが見えた。
配達員かとも思ったが、どうやら違うようだ。現に私がそこに到達するまで動かないし、205の住人である私は何も注文などしていないのだから。
「どなた?」
私は沈んだ気持ちそのままに、不審感をあらわにしながらその男に尋ねた。
私より高い身長、180……はなさそうか。こちらを振り向くその顔はおおよそ20前半か……最悪、未成年か。ぼんやりとその男についてそんな観察をしていると、男は一度不思議そうに首を小さく傾げた、が表情が変わり、少し気まずさを含んだものになった。
「すみません、この部屋の方って……」
「私、ですけど。なにか?」
「あ、そうでしたか……そのなんですけど」
そう言ってたどたどしくではあるが私の部屋の前にいた経緯を話してくれた。
聞けば、雨の中ここを通っていたらうちのベランダになにか大事なものを落としてしまったらしい。どんな落とし方をしたのか知らないが、おおよそ少しつまずいたとかなのだろう。
「まあ、いいや。取ってあげるからその間上がっていきなよ。そんなとこじゃ寒いでしょ」
「あ、いや……俺は別に……」
「いいから」
実際、後日考えたらその後の私の行為は軽率なものではあったと思う。見ず知らずの男の言うことを信じて家に招いてしまっているのだから。
ただ、その日は色々と疲弊していて判断力が鈍っていたのだと思う。しかしこの時のこの行動によって、私の人生は大きく変わった。まさしく、晴天の霹靂だった。