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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第八話 映画館に行きたいんじゃ!

 俺がバイトして貯めた金で買った一番高額の買い物はタブレットである。沙月は起きてから髪も梳かず、部屋の隅に座って、タブレットで映画を観ていた。カーテンの向こうに広がる外界は晴れていて五月らしい穏やかな気候だった。寝起きの俺は布団を畳んで押し入れに仕舞い、洗面所へ向かった。

 窓の外からは椋鳥の鳴き声がピーピー五月蠅かった。そして沙月の見ている映画の音声も五月蠅い。女が英語で何かを叫び、爆発する音が続く。俺が目を覚ますとき変な夢を見ていた気がするのは、耳がこの騒音を聞いていたからだろう。

 俺は早急に沙月にイヤホンかヘッドホンを買うべきだと気付いた。しかし高いのだ。如何せん電子機器とは高額だ。俺としては、あんまり活用できない機能ばかり増えて、その為に価格が上がっていくのは好きではない。最低限の機能で十分なのだ。酷いのはトイレで、俺が実家にいた時トイレを旧式から新しくしたのだが、水が流せてウォシュレットが使えれば十分だというのに、用を足して立ちあがると自動で勝手に水が流れる機能や、ボタンを押すと音が流れる機能や脱臭機能、更に詳しくはよく知らない細かい機能が追加されて、その為に値段が高騰している。あれには辟易した。

 薄暗い洗面所の鏡に映った俺の顔は、眠いのに飼い主に絡まれてうんざりしている猫のようだった。顔を洗って新しいふわふわのタオルで水を拭きとる。俺が洗面所から出ると沙月は丁度映画を観終わったところだった。彼女はタブレットを充電器に接続して置いた。俺は歯磨きしながらスマホを弄っていた。ボサボサのピンク髪に櫛を入れながら沙月が俺に言った。

「映画館に行きたいんじゃ!」

「あ?」俺は手で彼女の勢いを制して、口の中を綺麗にして居間に戻ってから聞いた。「何言ってんだ?」

「こんな狭い部屋で映画を観ても駄目じゃ! 音響も悪い中し画面も小さいし没入感がまったくないのじゃ!」

「そんな贅沢言うなって。満足できる環境を整えるのにどれだけ金がかかると思ってんだ。知ってるか? 良質なスピーカーってマジで百万円ぐらいするんだぜ。それにそもそもこの家で最高の映画体験が出来るわけないだろう」

「その通りじゃ。だからこそ映画館に行って、専用の環境で映画を全身にびりびり感じたいんじゃ」

「そんなに映画に嵌ったのか」俺は時計を見た。まだ午前九時だ。「いま見たい映画とかあるのか? そもそも何が上映されているのか俺は知らないけど」

「妾も知らんが、思い立ったが吉日じゃろう? 映画館に行って一期一会の作品に金を払うのも楽しいんじゃないかのう?」

「金持ちの発想だよ。最近はみんな貧乏で、レビューが流行る一つの要因は、誰だって損がしたくないという心理から来るものだ。わかるか? 要するに無駄な時間を過ごしたくないのさ。だから他人のレビューを見て、まず自分が損をしないかどうか判断してから見るんだ。行き当たりばったりは非効率だからな。とんでもない駄作に高い金払って、しかも人生の貴重な時間も奪われたら、とんでもない話だ」

「お主はそういう現代の風潮に逆らうタイプじゃとお持っとったんじゃがのう。……お主流にいうなら差別を助長するというやつじゃな。わからんか? そういう潮流が加速すれば、その内大衆に受けるわかりやすく面白い作品しか生き残らなくなるじゃろう? まず芸術は死ぬじゃろうな。お主のタブレットでSNSを見たが、流れてくるイラストはみんな肌の露出が多い絵ばっかりじゃし、女のイラストばっかりじゃ。逆説的に自然を切り取った前衛的な芸術が軽蔑される時代が来そうなもんじゃな。もう来てるかもしれんが」

 それとこれとは別じゃないか……と言いたかったが、確かに俺の経験を振り返れば、思い当たる節もある。俺は一時期あなたへのおすすめで出てくるような映画を片端から見ていた時期があって、その中で物凄く好みの、心に刺さる作品に出会った。しかしネットの評価を見てみると評価はかなり低かった。俺はその作品を云わば感覚的に愛したのであったが、ネットの感想を読むと、ストーリーが雑だとか、演出がくどいとか、中身がないとか言われていた。確かに彼らの言い分も共感できる節はあるが、それでもそこを含めて俺はその映画が好きになったのだ。しかしきっとその作品を他人に勧めても、レビューを見た時点で観るのを辞めるだろうと容易に想像できた。

 それに世の中には本気で作品の売り上げでしか価値を判断できない人がいて、興行収入が高い作品だけが素晴らしいものだと信じて疑わない。これはレビューにも言える。星の数が少ないからこの作品は駄作だ、なんて考える人もいる。

 そもそも、映画を正しく評価する素質を持った人間が世の中にどれだけいるだろう。大衆は本当に正しい判断が可能だろうか。……考えだしたらキリがない。しかし世の中には傑作も多いがそれ以上に駄作も山ほどあるのだ。時間は有限である。一つの道具としてレビューは有効じゃないのか。ぐう……。

 沙月は自分の作戦が成功一歩手前だと感じたらしく畳みかけるように言った。

「お主ももう少し失敗する勇気を持ってみたらどうじゃ? 妾と一緒になら駄作を見たってあとで話の種になるじゃろう。駄作には駄作の魅力があるし、駄作でしか得られない心の動きや感想も存在すると思うのじゃ。思うに、他人の成功から学ぶものは少ないが、失敗から学ぶものは多いのじゃ」

「わかったよ。まあそうだな。もしかしたら一生の作品に出会える可能性だってあるんだ。映画館に行くか」

 俺と沙月はバスに乗って街まで出かけた。映画館は商業ビルの上階にある。エスカレーターに乗ってだらだら俺たちは上へ運ばれていく。手すりに寄りかかって、沙月は言った。

「こんなに人で賑わって栄えた都市なのに、この国の首都じゃないんじゃろ? 東京にも行ってみたいのう。お主は東京に行ったことがあるのか?」

「あるよ。中学の時、東京に修学旅行で行ったんだ。ビルとかすごかったな。ずっと見上げてた気がする。でも別に、楽園ってわけでもなかったよ。第一に空気が臭かったな。ありゃなんだったんだろう。廃棄ガスなのかな? すごい空気が臭くて仕方なかった記憶があるな」

 俺たちは映画館に到着した。近未来的な空間で、人を夢の世界に来たと錯覚させるデザインの建築だった。沙月は感動したように笑顔を見せて、俺の腕を引いた。

 上映作品一覧を見ながら俺は何となく物憂い気分で周囲を見回した。お洒落なカップルが多い。今日は平日だってのに、混雑している。ポップコーンを抱えた俺より年下に見える丈の長いワンピースを着た女子が、俺の隣に立って、友達に今日の予定を問いかけている。俺はそこを後にして、沙月の姿を探した。

 お土産コーナーで物珍しそうに商品を見ている沙月を発見した。こういう場所でも目立つ容姿で、近くにいる人々の視線を奪っていた。沙月ぐらい容姿の整った人間がいると、みんな不自然に感じるらしい。俺は彼女に近づくとき、近くの男子が「何かの撮影?」と言ってるのを聞いた。嫌なのは、俺が玉砕覚悟のナンパ師に思われることである。

「これはなんじゃ?」沙月はお菓子コーナーを指さして言った。「グラム……重さで値段が変わるのか?」

 それは指定の袋にお菓子を詰め込んで、その重さによって値段が決まる量り売りタイプのお菓子だった。大抵の映画館には設置してあるコーナーだ。俺は子供の頃親に買って欲しくて何度もねだったが、結局今日まで一度も挑戦したことはない。

 グミやキャンディ、チョコレートなど、アメリカっぽい雰囲気のお菓子が透明な箱に沢山入って、並んでいる。俺は幼少期の自分を慰める気持ちで沙月に「やっていいぞ」と許可した。「ただし200g以内で済ませろよ」

 沙月がちまちまビーンズなどを袋に入れて楽しそうにしている背中を見守りながら、近くの棚に置かれた映画のグッズを見ていた。アニメのキャラクターが印刷されたクリアファイルやボールペンが結構な値段で置かれている。映画のロゴが印刷されたマグカップを手に取って、値札を見ると税抜き1700円だった。沙月に呼ばれて俺は一緒にレジへ行った。スタッフがレジで重さを量り値段を告げた。俺は財布から紙幣と小銭を出して黒色の小銭受けに置いた。

 沙月は上機嫌にお菓子の袋から一粒取り出して食べている。俺は再度上映中の映画一覧の前に立った。沙月はグミを噛みながら言った。「どれか気になるのはあるかのう?」

「これは面白そうだな。タイトルが良い」俺は指さした。「日曜日の東。……」

「上映時間が近いし丁度いいのう。それにするのじゃ」

 券売機で二人分チケットを買った。俺は沙月の分は中学生の値段で買った。安く済むというのもあるし、大人の料金で買ったらそれこそ怪しまれそうだったからである。

 その代わりと言っては何だが、俺はポップコーンとドリンクをセットで買った。映画館の売店はまるで富士山頂みたいな価格設定なのだが、我慢した。俺たちはそれを持って係員にチケットを見せ、シアターへ入場した。

 映画が上映される前の独特な雰囲気を久方ぶりに浴びて俺は正直浮き浮きした。座席はそれなりに埋まってきたが、それでもやはり空いていた。沙月がジュースを一口飲んでから言い出した。「トイレに行きたくなってきたのじゃ……」

「早く行ってこい。このスクリーンの横にあるから。えぇ? そんなすぐに始まるわけないだろ。こっから最初に製作中の他の映画の予告とかが流れるんだよ。あとは上映中のマナーとか、CMとか、だから焦らずトイレ行ってこい」

 沙月はこそこそ小走りに出て行った。俺はポップコーンを食べながらスクリーンを見ていた。座席にゆったり座っていると、リラックスさせる音楽が壁から流れ出した。

 スクリーンが明るくなって、映画の予告が幾つも流れ始めた。今こういう大作が撮影中なんです。若手の女優が紹介する。映画監督や俳優への短いインタビューも流れる。日本語の字幕が表示される。「あのシーンの撮影は大変だったよ。でも最高にクールだった」

 沙月が戻ってきた。俺は手を洗ったかと聞いた。「洗ったのじゃ」

 スクリーンが暗くなった。昔見た時から少しだけ変化した上映マナーや館内撮影禁止の短いユーモアが込められた映像が流れる。愈々映画が始まる。……

 ポップコーンを食べる手が止まった。既に容器の中には少量しか残っていない。

 映画の中で主人公の男は一人旅の最中、娼婦に騙されて財布を奪われた。無一文になった主人公がポケットに残っていた小銭を使って公衆電話で知り合いに助けを求めるが、みんな主人公を無視したり呆れたり嫌味をいって助けには来ない。

 雨が降っている中、貨物列車に忍び込んで、ポケットから出したパンをかじる主人公の吐いた白い息の熱が俺に伝わってきたと本気で信じた。

 映画を観終わって俺は食べ終わった容器を片付けながら、沙月に聞いた。「どうだった?」

「家で見るのとは全然違ったのう」満足そうにほうと溜め息を吐いて言った。「映画の内容はイマイチ妾には難しかったけど、映像は綺麗じゃった。妾も一人旅してみたいもんじゃ」

 俺は沙月に断って通路奥のトイレに入った。広い男子便所はほどほどに混雑していた。手を洗わずに出て行くおっさんを横目に俺は小便器の前に立って、今さっき見た映画に対する自分の心の動きを正確に捉えようとした。しかしそれは夢から覚めたかのように、今おれが確かに生きている現実と混ざり合って、その輪郭を急速に失いつつあった。

 結局、成り行きで観た『日曜日の東』は俺の人生の確かな肉となった。俺は同じ監督の別の作品を調べた。高校生の男子が小学生の妹と一緒に、火星人と喧嘩する映画を撮っていた。わざわざDVDをレンタルして観てみたが、──少なくとも俺の中では──今まで観た映画で五指に入る駄作であった。


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