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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第六話 図書館に行きたいんじゃ!


   恥を恥と思わず、罪を罪と思わなければ

   きっと素敵な人生になるだろう


 沙月は部屋にいる時大抵は読書している。この調子だと俺の本棚にある本は一か月で読み切ってしまいそうだった。

 本棚には俺の趣味の本ばかり並んでいる。沙月は読んだ本から濃い影響を受けるみたいで、変な言葉や表現ばかり学習していく。もう少し健全な本を買っておけばよかったと多少の後悔と共に、自分のコレクションを愛読してくれる存在に対するむず痒い喜びがあるのも確かだった。

「なあ、そんなに読書が好きなら、図書館に通ったらどうだ?」

「図書館?」沙月は読んでいた頁から顔を上げて答えた。「それは確か本を無償で貸し出してくれる施設じゃったかな」

「近くに大きな図書館があるからあとで行ってみよう。きっと驚くよ」

 俺と沙月は一時間後に、歩いて図書館へ向かった。実際は結構距離があった。気温は高くない日だったので、そこまで疲弊せずに済んだ。俺たちは緑の若葉が目立つ桜の並木を歩いて、図書館へ辿り着いた。四階建ての建物で、自動ドアが開き涼しい風が俺たち二人を包んだ。

 階段を上がって二階に来ると、静謐な空間にぎっしりと本棚が並び、本棚には古今東西の様々な叡智が詰められていた。沙月は高揚して、俺に小声でささやいた。「ここは楽園じゃな!」

 沙月には静かに行動しろと忠告してから放流した。脱走した柴犬みたいなスピードで本棚の奥へ消えていった。俺はやれやれと首を振ってから受付へ向かった。

 図書館で本を借りるには貸出カードを作らなければならない。天井の高い通路を進み、俺は壁に張られた利用案内を読んでいた。沙月にカードを作ってあげたかったが、彼女の身分証明書は存在しなかった。戸籍すらないのだ。戸籍がないと人権を半分失っているようなものだ。運転免許やパスポート、銀行口座の開設ができない。普通の職場で働くことだって難しいだろう。

 沙月がこれからどのように生きていくのかは知らない。俺が一生面倒を見るのも現実的ではない。しかし最低限の手伝いぐらいはしたい。もしかしたら、数日後には宇宙へ帰還するかもしれなくても、俺は心配性だから、沙月の中にあるだろう僅かな不安を処理したいのだ。俺が沙月の立場だったらと想像すると、うんざりする。

 あの夜の山で必死に俺に縋ろうとする沙月の姿を見て、俺は彼女を助けることに決めた。その決意は今も揺るがない。俺は善人じゃない。沙月が横柄になって俺の助力を当然のように受け入れ始めたら、俺は彼女と絶縁するつもりだ。正直俺の元から離れても平気で生き抜いていけるだろう強かさが沙月にはあると俺は見抜いている。

俺みたいな腰抜けでもないし厭世的でもない、ちょうどいい楽観が沙月には身に就いている。消極的な俺の影響を与えるべきじゃない。沙月の為に俺は積極的な行動をすべきだ。

何故ここまでして彼女のために行動するかと言えば、俺が今生きている理由は沙月だけだからだ。それ以外に俺には理由がない。だからすべてを沙月に与えたっていい。金も物も何もかも彼女に渡して、俺は今日の夜に再び葦鹿山へ向かうのだって一つのやり方だと俺は思う。

受付の眼鏡をかけた女性は俺を見て職業的な微笑を浮かべ「どうかしましたか?」と聞いた。俺が黙って貼り紙を読んでいるのが気になったのだろう。

「この利用カードを作るにはやっぱり免許証とかが必要なんですか」

「あー、ええ。そうですね。運転免許証でも構いませんし保険証でも構いません。マイナンバーカードでも大丈夫です。それとメールアドレスや携帯番号は必須ですね」

「そうですか。すみません、ありがとうございます」

 俺はそう言ってその場を離れた。カーペットの上を灰色のスニーカーでちんたら歩きながら、俺は沙月を探した。沙月には俺のカードを貸そう。今は自動貸し出し機も存在するから、バレないだろう。身内以外のカードなら問題だが、まあバレたところで、兄の頼みで自分が借りに来たと言えば見逃してもらえる気がする。

 沙月は文庫本が並んだ一角にいて、夢中で背表紙を眼で追っていた。綺麗な薄桃色の髪が肩から胸や背中へ絹のように流れていて、横顔の曲線は美しく、桜色の唇は尖って、目の上には長い睫毛から落ちた柔らかな影が物憂げな印象を与えている。

俺は未だに沙月の容姿になれていなかった。突然視界に彼女の姿が現れると、どうしても胸がドキドキして落ち着かない気分になり嫌になる。それは恋とかではなく、道端に金の延べ棒だとか、見たことない美しい宝石が落ちているのを発見したような、それこそ百万円札の束が無造作に幾つもそこら辺に捨てられているのを見た時のような気分なのだ。

「読みたい本は見つかったのか?」

「うぅん、どうじゃろ。まだ妾は自分の好みすら発見に至ってはおらんからな。お主の部屋にある本を全部読み切ってからが本番じゃろうな」

「図書館の本を借りるなら、俺のカードを使うといい」俺は財布から利用カードを取り出して見せた。「人に貸すのは本当は駄目なんだけどな」

「駄目なら駄目じゃろう。別にこの図書館の中で読めるんなら、読むよ。借りなくたっていいのじゃ」

 俺たちは図書館を巡りながら色々話をした。俺のおすすめの本を紹介しながら、様々な常識を沙月に教えていった。沙月は何でもかんでも俺に質問した。まるで発育の良い未就学児のようだった。俺は子育て体験をしている気分で彼女の純粋な質問に答えていった。

 図書館を出て桜並木を歩きながら沙月は言った。「お主はなかなか博識じゃな」

「俺なんて全然だよ。他にもっと偉い人はいっぱいいる。あんまりお前も俺の言う事を信用しない方がいいよ」

「最初から話半分で聞いておるよ」失礼なことを言いながら沙月は笑った。「今のところ六割じゃな」

「なにが?」

「人類を、滅ぼさない確率じゃ」沙月は大胆に言い切った。「四割の確率で人類は滅ぶぞ」

「十割だったのが四割になったんだ。人類にとっちゃ僥倖だろうな。俺にとっては悲報だよ。道連れにするいい機会だったんだが」

「お主は自分の堕落を人類社会の責任だと思っておるのか?」

「嫌な聞き方をしないでくれよ。別にすべてが社会の責任だとは思わないが、もし200年後の、発展した人類社会に生まれていたら、俺の運命も違っただろうし、今より幾分か生きやすい世の中だろうと思うと、社会に責任が皆無だとも思えないな」

「しかしお主は今に生きておるぞ」

「俺にとっての今なんてあっという間に過去になるよ。時折思うんだが、今より150年前に生まれたすべての人類が、もう死んでるんだよ。これは凄いことだと思わないか? みんな死んでる。みんなそれぞれ自分自身の今を駆け抜けて、今はもういない。俺もそうなる。200年後に現在の俺みたいに今を強く実感する誰かは、俺にとって未来の今を生きている訳だ。そうして俺は遥か後方の過去に置き去りにされていて、灰になっている」

「お主は回りくどい思考回路を所有しておるな。お主が妾を助けず死んでいたら今この時間をお主は味わっていないしとっくに過去に埋没しておる。どうなんじゃ、実感として」

「あんまりそういうのは意識したくないんだよ。わからなくなるんだ。俺にとって俺の存在は驚くほど不安定で儚いものなんだよ。自分の存在を疑ったり試しただけで霞のように消えちまう気がしてならないね」

「お主は何者なんじゃ?」沙月は心の深奥からの質問と言った風に聞いた。「お主は一体何者なんじゃ?」

「俺の方が訊きたいよ。お前はどこから来た何者なんだ。……多分俺たちは薄氷の上を生きてるんだ。俺たちの関係性ってのは想像しているよりずっと真っ暗で、簡単にほどける類のものだ」

「まだ出会って地球時間で一週間も経過しておらんよ。妾たちはまだお互いのことを全然知らん。これからどうなるかお主はわかるか? 妾は少し予想がついておる」

「どうなるんだ?」

 どうなるんだ? 俺には本当に予想がつかない。沙月は未来でも知っているのだろうか。俺は今現在のことも茫洋としているんだ。自分が何処を歩いているのか、ここが夢なのか現実なのか、それさえも判然としない。俺の人生からは確かな実感が抜け落ちている。それは宇宙人に出会ったからじゃない。生まれた時から、何かがずれていて、その所為で俺は様々な場面で失敗してきた。その蹉跌たちが団結して、更に俺を抜け殻みたいにさせるんだ。心が息をしていないんだよ。

「秘密じゃ秘密。妾たちがどうなるか、今ここで話したところで未来は未来じゃ。予想は止そうってのう?」

「うげえ。冗談だろ?」地球に来て三日ほどでもう寒い親父ギャグを披露し始めた。俺は親に向いていないだろう。初子の教育失敗である。

 立ち止まって見上げれば、桜の木のゴツゴツした梢から若葉が生えて、太陽の光に青々と輝いている。

 俺たちの未来がどうなるのかは知らないが、少なくとも明日の競馬で大敗すれば一か月も経たずに解散することになりそうである。……

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