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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第五話 服を買いたいんじゃ!

 取り敢えず沙月の服を買いに街まで来ていた。バスから降りて人通りの多い道を暫く歩いたところに大きなショッピングモールがある。賑やかな店内を横切り、エスカレーターを上がって、正面にある大きな洋服店に入った。

 沙月が今着ているのは俺の服で、下着はつけていない。沙月に俺は躊躇いがちに、生理はどうなのかと遠回しに聞いたら、彼女の返事的に、普通にあるみたいだったから、ちゃんと買い揃えないといけない。

 俺は沙月と一緒に洋服店入り口のマネキンを見上げた。ポーズを決めて立っているマネキンは、一見質素な服装の上に赤いスカーフなんかを巻いて、お洒落上級者と言った感じだ。マネキンの服装をそのまま真似てもプロポーションが違うから、事故る可能性が高い。

 沙月は素材が抜群に優秀で、基本どんな服を着ても似合うだろう。見た目の年齢は15、6歳なので、あまり大人びた服装は似合ったところで街中では浮く可能性がある。

 妹の桜花は、中学生の頃どんな服装を着ていたかなと頭の中で思い出そうとした。あまりスカートや女性らしい可愛い格好はしなかった覚えがある。中性的な服装を好んでいたし似合っていた。

 桜花は今頃高校で勉強している筈だ。もし俺の自殺が成功して、今朝死体が発見されていたら、彼女は高校を早退して母と父と一緒に俺の死に顔を冷たい安置所で見ていただろうか。

 憂鬱な気分で買い物かごを片手に俺は沙月と歩いていた。棚に折り畳まれた服が幾つも置かれている。沙月に言った。「なあ、俺と一緒だと気まずいんじゃないか? 一人で服を選んだ方がいいよ。俺はそこら辺で待ってるからさ」

「お主は馬鹿か?」呆れた口調で言われた。「妾が一人で買い物できると思っておるのか? それに、妾の美的感覚がこの国に合致している確信がないのじゃ」

「そこら辺の人の服装を見てればわかるだろ。別にそんな気負わなくたっていいじゃないか。お前はそれなりに容姿が整ってるし……」

 沙月は手近なパーカーを手に取った。「色んな種類があって、難しいのう。勉強してから来た方がよかったんじゃないかのう?」

「勉強したら益々わからなくなるのがファッションだと思うけどな。それに変に知識をつけて、こういう大衆店では買いたくないとか、ブランド物がいいとか言い出されても困っちまうよ」

「妾のことをまだそんな安っぽい存在じゃと思っておるのか? ガッカリじゃ」

 俺たちはお互いに軽い悪態をつきながらのろのろ歩いた。俺はファッションについてはとんとわからない。知識もない。人生のうちでファッション誌を読んだ回数は片手で数えられるぐらいだ。顔の良い今時の男性モデルが、いつ着るんだよみたいな服を着て決め顔でポーズしているのを見て、俺に向けての本ではないと確信した。

 しかし服装は重要だ。合コンに行って席に座って女子に好きな男のタイプを聞けば大抵が「清潔感のある人」と答える時代である。俺は清潔感という表現が好きではない。あまりにも女性的な思惑が滲み出ているからである。

 例えば、誠実な人と誠実感のある人で、後者の表現を意識的に選択しているようなものだ。何故誠実な人ではいけないのか。それは、「誠実な人」というと、前提として自分が誠実であるという意識が先立つからだ。周囲もそう認識するはずだ。自分が誠実でもないのに、他者に誠実を求めるのは実に不誠実で、そんなことを言える鉄面皮は初めから敬遠されるし淘汰される。なので、常識のある社会で誠実な人を好きなタイプにあげる人間は自他ともに、誠実という認識を向けられるのは仕方のないことだ。

 清潔な人を好きなタイプに挙げると、自分の清潔に対する裁判が瞬間的に行われる。

 案外世の中に清潔な人間は少ない。トイレで手を洗わない人、部屋が汚い人、言葉遣いが汚い人。箸の持ち方が汚かったり、字が汚かったり、爪を噛んだり鼻をほじる癖がある人もいる。そもそも人生そのものが清潔でない人間が殆どだ。清潔であるというのは難しいものである。

 なので、清潔感に帰結する。清潔感は容姿をある程度整えるだけでいいからだ。それだけで、清潔感裁判に耐えられる。実際に清潔でなくてもいいのだ。

更にもう一つ例を挙げる。世の中の殆どの男女は不細工が好きではない。不細工な人間に対して「生理的に無理」というと、まるで自分が一方的に拒否しているようで、我儘な印象を周囲に与えるが、オブラートに包んで、「清潔感がない」と言えば、相手に非があると思わせられる。清潔感という表現は実に優秀なのである。

 通路に置かれた鏡に映った自分を見る。清潔感はないと思う。昨日風呂に入ってないから髪の毛が少しギトギトしている。その下にグレーのパーカーを着てチノパンを履いている。俺は溜め息を吐いた。いつから服は異性の興味を引くだけの目的で着る物になったのか。自分の好きな服装を着ていたところで、毎回女に云われるのは「そんな服を着てたらモテないよ」、である。

 俺は高校生の一時期カート・コバーンに憧れてグランジ・ファッションを着ていたが、あまりにもモテないだのなんだの云われてうんざりしてやめた。当時俺には彼女がいたにもかかわらず、女子たちが「モテない」という表現を持ち出してきたのには驚いた。見境がないのだ。兎に角世の中とは、特に女の視点は、モテるモテないが重要らしかった。

 服を物色している沙月の背中を見て、いつかこいつも、俺が見知っている女子たちみたいに、恋愛至上主義に染まるのだろうかと思うと、くらくらした。恋愛は決して悪いものではないが、今世の中で信じられているほど重要とは思えなかった。しかしこんな思想だから俺は孤絶したのだ。

「なあ、これ似合うかのう?」沙月が手に持った服を体の前に掲げて俺の感想を待つ。

「似合ってるよ」俺は言った。「それにするのか?」

「うーむ。悩みどころじゃな」

「別に人生最後の買い物じゃないし、お前が金を出すわけでもないんだから、気楽に決めちゃえばいいじゃないか」

「そうなんじゃけどな。しかしのう、宇宙人代表として下手な服は着られんし……」

「そんなに言うなら俺が勝手に決めちまうぞ」

「うん? それもいいかもしれんのう。名案じゃ。お主が妾の服を決めてくれろ」

「マジかよ、冗談で言ったんだけどな……」

 俺は沙月と相談しつつ、適当にTシャツを幾つか、パンツを何種類か選んで、試着室まで沙月を連れて行った。

 試着室の入り口で店員に品物を確認してから、沙月に持たせて、狭い室内へ押し込みカーテンを引かせた。俺はカーテンの前に立って暫く静かに待っていたが、試着室から漏れてくる沙月の服を脱ぐ音に居た堪れない気分を味わった。気を落ち着かせるためにスマホを弄って意識を反らしていた俺に、カーテンの奥から声がかかった。

「なあ、妾とお主が出会ったのは偶然だと思うか? 必然だと思うか?」

 突然の質問に俺は戸惑った。「わからないけど、偶然じゃないのか?」

 沙月は試着室のカーテンを少しだけ開いて、蓑虫みたいな恰好で顔だけ見せてにこりと笑った。

「妾は確信しておる。これは必然であり運命……いや、宿命じゃとな!」

 大仰な表現だと思った。沙月のいう宿命の意味は俺にはよくわからなかった。しかし、確かに俺が偶々自殺しにいったあの場所にちょうど宇宙船が不時着したのは妙だった。まるで神様の作った時刻表通りに俺たちは導かれたかのようだ。見えない糸に操られる二体の人形を想像した。もしあれが偶然ではなく誰かが仕組んだことだったら、そこになんの意味があるのだろう。

 俺と沙月が出会う確率と、地球に生命が誕生する確率は、どう考えても後者の方がずっと天文学的確率だ。人類の歴史は奇跡の原因に神を生み出してきた。雷や嵐や飢饉、人間の力では抗えない大いなる現象の原因として神を生み出し信仰してきた。しかし現実は、奇跡はただたんに奇跡そのものであって、黒幕がいるわけではない。

 宇宙が誕生したのも、地球に生命が誕生したのも、人類が二足歩行で歩き出したのも、俺と沙月が夜の山で出会ったことも、すべては奇跡なだけであって、それ以上でもそれ以下でもない気が俺にはするのだ。

 もし俺が自殺する日にちを変えて、昨夜葦鹿山を登らなかったとしたら、沙月はどうなっていただろう。きっと一人で宇宙船から這い出て、最低限の荷物を抱えて山を下ったはずだ。そうして途方に暮れつつも、誰かに出会っていた筈だ。もしかすると、昨日俺が自転車を漕いで帰ろうとしたときに遠目で確認した人影、あれが沙月と初めて出会う人類になっていた可能性もあって、それだって十分奇跡だ。

 もしかしたら俺と同じように、昨夜日本のどこかの山に自殺する為の縄を片手に登っていた奴がいたかもしれない。少しでもあのUFOの軌道が違って、そいつのいる山に落ちていたら、全然違った運命が開けていたかもしれない。しかしそうはならなかった。俺だったかもしれないそいつは、今頃一足先に冷たくなって死体安置所で青白い顔を浮かべている筈だ。

 宿命という表現は俺には重々しすぎた。俺より素晴らしい人間は山ほどいて、沙月みたいな存在は、あんな安アパートの六畳間で俺みたいな薄汚い前科者と一緒に暮らすべきではない。沙月は俺に対して人一倍の感謝をくれているが、俺は気後れしていた。

 こんな風に明るく買い物しているが、明日には適切な機関の適切な役職の人間がやってきて、沙月を連れていくかもしれない。もしそれが俗に言う悪の組織だとして、俺に何ができるだろう。黙って沙月が連れていかれるのを見送るだけだ。

 そんな男に、何が務まるのだろう。俺は試着室のカーテンの前で、目に見えない大きな力に押しつぶされそうになっていた。店内にはお洒落で落ち着いた雰囲気の洋楽が流れていて、俺の心の中の暗雲とは無縁の空気が充満していた。

 カーテンの奥へ消えた沙月は、ようやく着替え終わったらしく、自分だけで確認すればいいものを、カーテンを思い切り開いて俺にお披露目した。カジュアルな服装だった。無地のTシャツにデニムだった。デニムは少しオーバーサイズだった。

「似合っておるか?」沙月は足元を見て言った。「少しサイズが大き目かもしれん」

「そういうのは調整できるし、もう少し小さめなやつを持ってくるよ。似合ってると俺は思う」

沙月が試着すればなんでもいいものに見えた。サイズが合っていなかったパンツを選びなおして購入した。それから靴下と下着を沙月に選ばせて、この店での買い物は終わった。

「他にも色々買った方がいいけど、今はこのくらいでいいだろ。上着なんかは俺のを着ればいいよ。一応試着はしたけど、全体的にサイズはちょっと大きいかもしれない。今度実家から妹の古着を送ってもらうのもよさそうだな。むこうに何言われるかわからないけど」

 沙月と一緒に今度は建物の反対側のエスカレーターを使って降りた。俺は今日の出費に就いて少し考えたが、幾ら考えたところで金が戻ってくるわけでもないので、思考を放棄した。

 それから色々な店を巡って、歯ブラシや生理用品なんかを買い揃えた。俺の財布は一度空になって、口座から金を下ろして、買い物を再開する羽目になった。

 俺と沙月は両手に買い物袋を提げて、バス停からアパートまで歩いた。太陽は天頂から少し西に傾いた空でギラギラ輝きを放ち、俺たちの頭頂部を焼いていた。

ゾンビみたいに帰路を歩行する俺たちの足元には、丸まった黒猫みたいな影があった。

「なんか申し訳ないのう。こんなに妾の為に色々買ってもらって……」

「別にいいよ。俺の意志でお前を世話することに決めたんだからな」

 アパートの錆びた狭い階段を上るには体を横にして蟹みたいに歩かなければ、両手の荷物の所為で、通る事すらできなかった。俺たちは額と背中に汗をかきながら、漸く自宅へ帰ってきた。今は五月の中旬だったが、恐ろしく暑かった。

 鍵を回して扉を開けて玄関から家に入り荷物をどさりと居間に運んで捨てるように部屋の端へ置いた。手洗い嗽をして顔を洗い汗を拭き、冷蔵庫へ向かう。麦茶を取り出してコップに注ぎ、俺と沙月はへらへら笑いながら、冷房を点けたばかりの蒸し暑い部屋で座り込んで一息に飲み干した。壊れた季節の壊れた俺たちといった風情で、悪くない気分だった。

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