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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第二十三話 海に行きたいんじゃ!

 俺は午前中の白々とした光の中でぼんやりと考えた。それは俺の明確な死因についてのものだった。死のうとする人間が自分が何故死ぬのかはっきり理解せずに云わば反社会的なそれを実行するのは、行為そのものの意味を貶す気がしたのだ。

 死にたい理由や、その理由を導いた原因、何から何までの根源・淵源を無視できるならば、或いは俺はこんな人生を歩んではないなかったのだ。

 俺の中には傲慢な小人がいて、そいつが偉そうに周囲やそれ以上の範囲にある万物を徹底的に批判している。批判は悪ではないし、批判そのものを傲慢と呼んでいる訳ではない。批判は万人に許された趣味であり、もし批判に資格が必要ならば誰もプロ野球やらを正当に評価することは出来なくなって、文化そのもののレベルが落ちることになるのだ。

 問題なのは俺が批判を批判以上のものに昇華しようとしない姿勢である。俺は目の前に存在する何かを片端から批判した結果、自縄自縛に陥り、生活を改善するどころか、身動きが取れない状態になっている。結句、俺は批判を自我の補強として利用しただけで、相手の得になるような有益な批判を一切行わなかった。

 そうして批判する対象が根こそぎ失われた結果、自分自身を批判する方向へ変化した。食事と同じような頻度で批判を行っていたら、結局そうなる。そうして自傷するように批判した結果、自己肯定感が恐ろしく下降し、行動力も死滅したのである。……

 俺は部屋の壁に寄りかかって窓の外の白日に目を向けた。薄いカーテンが六月の風に涼しく揺れている。部屋の換気を終えたので窓を閉める。頭の中では人生の反省会が終始続いている。次から次へと死因が見つかる。連鎖反応という四文字が脳裡に浮かぶ。また合併症という言葉も輝きだす。人生のすべてが共犯者で、すべてになんらかの要因がある。

 俺は立ち上がって本棚の前で腕を組んで、並べられた背表紙を見つめた。人間は合理的でないし、感情が優先されることもある。複雑な人間心理が絡み合っているのだ。知識のない俺が感覚だけで自分のことを推し量ろうとするのは、阿呆臭い行為かもしれない。

 芥川龍之介の文庫を抜き出そうとして人差し指を伸ばした時、横から沙月が唐突に言った。「海に行きたいんじゃ!」

 唖然としながら彼女の次の言葉を待った。沙月は弄っていたタブレットを床に優しく置いてから丸い綺麗な瞳を輝かせて俺に言った。

「妾は海に行きたくなったのじゃ。海に行って、潮の香りを嗅いで、砂浜にサインを残したいのじゃ」

「まだ六月だし海は冷たいよ。もう少し後にしたほうがいいんじゃないか?」

「もし妾の迎えが明日来たらどうじゃ? お主のことを妾は一生恨むことになるかもしれんのじゃ」

 もう行くと決めてしまったらしい沙月の若いエネルギーに圧倒されていつもの如く俺は了承してしまった。彼女と必要最低限の荷物を持って、俺たちは家を出た。時計は午前十一時過ぎだった。

 一番近い海水浴場までは電車を乗り継いだ後、バスで向かった。すっかり人間の文明と乗り物に慣れた沙月は当初のような高揚も子供っぽい楽しそうな仕草も見せずに大人しく座席に座って沈黙していた。一言も喋らず唇を閉じた沙月の横顔は奇跡的な可愛らしさと美しさを孕んでいた。天才の彫刻のようであり、現実を超越した崇高な感情を抱かせるものだった。まず東京を歩いていたら有名な事務所にスカウトされそうな見事な容姿である。

 彼女の容姿が美しければ美しいほど俺の罪悪が際立つ気がして、俺は引け目を感じた。もし俺の行動を百人が知ったとして半分の人間は俺が沙月の容姿の良さに惚れ込んで、微量でも下心が内在した行動であると分析するだろう。それが真実であろうとなかろうと、そういう目に晒される予感が、絶えず俺を蝕んでいた。

 世間体を気にする俺は下等なのだろうか。堂々としていればいいのだろうか。しかし世間から見れば俺は、云わば未成年の女の子を家に寝泊まりさせている危険人物なのだ。もし沙月の存在を訝しがって俺の周囲の、アパートの住民でも、誰かが警察に通報したら俺は簡単に逮捕されてしまうのである。

 俺は絶賛犯罪中なのだ。ただでさえ前科があるというのに、俺は更に晩節を汚している。沙月を助けたあの夜は、俺に満足感を与えたし、それまで俺が犯してきた罪の数々に対するささやかな贖罪の役割を果たす気が本気でしていたが、今ではめっきりそういう楽観的な、無責任な考えは朽ち果ててしまった。……

 バスは海水浴場へ向けてひた走っている。俺たちは左奥の二人用の座席に座っている。窓側に沙月が座り通路側に俺がいる。平日の昼間なので混雑はしていないが、バス停で待っている間日傘をさしているような貴婦人なんかが度々乗車する。

 海水浴場まであと二つほどの場所で面倒な出来事があった。それはバス停で待っている手押し車を構えた中年女が引き起こした些細な事件だった。バスが停車して女は乗ろうとするが、手押し車が大きくて入らない。運転手が特徴的な低声で女に注意する。前からは乗れないので後ろから乗ってほしいと告げる。女はヒステリックな声で何事か喚きながら無理やりバスに乗ろうとする。手押し車が運賃箱や一番手前の座席の下部に当たる重い音が車内に響く。乗客は厄介な事態に苛立ちや微かな恐怖を覚えながら、皆そちらの方向を見ないように、気にしていないふりを貫く。

 俺は通路側から顔を出して女と運転手の様子を観察していた。女は手押し車に沢山の荷物を入れていて折り畳んだり持ち上げたりすることが出来ない状態にある。運転手がいうように、前の扉からではなく、後ろから入れば多分通れるのだが、女は融通が利かないで大声で文句を言ったり汚い言葉が飛び出したりする。運転手も苛立ってきたのか、最初は懇願するような調子だったが、丁寧な口調をやめて、警察官のような口吻で女に後ろを利用するべきだと言い始める。

 俺は席に座り直して暫くの間ぼんやりしていた。隣の席の沙月に視線を移すと、彼女は少し背伸びをして女と運転手の様子を見ようとしている。

 この時間が苦手だ。俺は負い目を感じる。子供の頃の俺は、こういう事態になった時、スーパーマンのように飛びだしていって解決できる自分を妄想していた。みんな笑顔で俺に礼を言うのだ。御伽噺の世界だ。現実じゃそうそう起こりえない。

 理想と現実のギャップが突然出現するものだ。今の時間がそうだ。俺は空腹を感じながらバスが発車するのを待っていた。何一つうまく行かない現実を肌に感じながら。……

 バスが発車したのは五分か、それ以上が経過してからだった。女は口汚く大声で愚痴りながら、「あんたのバス会社に電話するから!」と言いながら、乗るのを諦めた。運転手は疲れ切った声で車内に謝罪と、個人的な話をして、バスを出発させた。

 あの女の魔術でバスの乗客全員が一瞬で罪人になったようである。俺は後頭部が怠くなってきて、瞼を瞑った。人生は何一つ上手くいかないものだ。邪魔は入るし理不尽はつきものだ。子供の頃に憧れた”正しさ”が時を越えて牙を剝いてくる。憧れを放棄して初めて大人になれるのだ。潔癖な子供心を軽蔑することで強制的に乗り越えることが出来るのだ。

 海水浴場のバス停で俺たちは降りた。泳ぐわけではないから水着なんてない。俺は自分のスニーカーを見下ろした。砂浜を歩いたら大層汚れるだろうな。掃除が面倒そうだ。

 沙月は一足早く駆け出して叫んだ。「海の香りじゃ!」

 潮風が俺の顔を叩いた。俺は顔を上げた。青空と白い雲が油絵のようである。俺の視界の奥に横一線に護岸があり、きっとその奥に海原が広がっている。沙月はバス停から駆け出して横断歩道から俺に手を振っている。俺は歩き出した。

 白い砂粒が端に積もっている石段を下りて、俺たちは海を見た。太陽の光をキラキラと反射する砂浜に寄せては返す白波。漣の音に耳を澄ませて、俺は沙月と一緒に砂浜に足を踏み入れた。まるでアポロ宇宙船の船員のような一歩目だった。重要な一歩なのだろうか。俺は今日の午前中に部屋の中で、人生のあらゆる要素が死の動機に繋がっていると発想した。今この瞬間、この光景さえも、俺にとっては死の濃度を高めるきっかけにしかならないのだろうか。

 沙月は初めて見る海に興奮して駆け出した。深く細かい砂に足を取られて走りづらそうにしている。俺は彼女の背中に言った。「靴を脱げよ! 靴下もさあ……」

 靴と靴下が宙を舞って、沙月は波を真っ白い素足に浴びせた。白波が沙月の足を滑らかに飲み込み、彼女の足元で白波が薄く砕けた。日光が沙月の髪の毛を真っ白に染め上げ、俺は彼女の姿と、水平線の向こうに見える空と同化しそうなほど薄い山蔭、その稜線を見つめた。

 司会の端の突堤では釣竿を持った男の小さな影が身動きせずに固まっていた。悠々自適に釣り生活を送る老後か。俺は彼が羨ましく思った。けれど自分の今の生活を思い返して、他人を羨む資格がないことを悟った。沙月に誘われて俺も靴を脱ぎ足先だけ海に入った。

 水平線に散らばった光の粒子が角度を変えるごとに合図を送るかの如く瞬く。俺は自分のゴツゴツした成人した男の足と、沙月の真っ白い陶器のような足を瞬間的に見比べて、自分の不甲斐なさに心臓が縮んだ。「なあ、沙月。海はどうだ?」

 俺と沙月は砂浜に座り込んでいた。沙月は俺の方を見ずに、まるで水平線や、その奥の山や、その上に広がる空に向けて話すように言った。「本で読んだんじゃけど、人間というか、生物の始まりは海じゃったんじゃろう? 神秘的なもんじゃな」

 潮風が沙月の髪の毛を大きくはためかせた。彼女の複数の髪が、彼女の唇に被さり、咥えられた。沙月は顔にかかった髪の毛を放置して言葉を続けた。

「それに、広くていいのう。海は、多分見にくるときによって、見え方が違うんじゃろうなあ。妾には今の海が、ものすごぅく寂しげに見えるのじゃ」

「へえ。それは面白い視点だな。俺には……俺には寛大に見えるな」

「海よりずっと妾の方が寛大じゃろう。それを肝に銘じておくのじゃな!」沙月が太々しく言ったあと、ライオンの咳みたいな音が沙月の腹から鳴った。「……うぅ、そういえば、お腹が減ったのじゃ」

 俺たちはしばらく歩いて、海の見える近くのレストランへ入った。そこでピザを注文した。大きなピザだった。シチリア風で、トマトソースの上にバジルやアンチョビ、玉ねぎにミニトマトが添えられオリーブオイルがかけられている。

 店内に他にもちらほら客がいて、みんな平和な時間を送っていた。談笑する声が俺の人生全体に幸福の調味料のように降り注いだ。ピザの味は俺の想像する現実と、客観的な現実を見事に調和させていた。涙が出そうなほど美味しくて、俺はその時、人生であった様々な嬉しかったことを走馬燈のように思い出していた。小学校に入る前の頃には、一度だけ両親に連れられてディズニーランドへ行ったこともあった。もう殆ど思い出せないが、非日常の魔法に満ちた世界で、俺は幸せを感じていたのだ。

 沙月はピザを頬張りながら俺の顔を見て微笑んだ。俺は目を反らして海と、その上に降り注ぐ陽光を見守った。循環し続ける海水と、地球を見守り続ける太陽。死ぬには惜しい気がした。こんな感情を味わえるのなら、もう少し生き抜いても許される気がした。

 ピザを食べ終わり会計を済まして俺たちは店を出て再び青空の下を歩き出した。バス停でのんびりバスを待ちながら沙月が言った。「さっきのピザは美味しかったのう。妾はほっぺが落ちるかと思ったのじゃ」

「いつになく、可愛い表現をするな。俺はあのピザにほっぺどころじゃない、恋に落ちたよ」

「なんじゃそれ? 気障な台詞じゃな。食事の余韻が散々じゃ」

「いや、結構今の面白かっただろ。上手い言い回しだったしさあ……」

 バスが来て俺たちは乗り込み、海水浴場と、そして絶品のピザに別れを告げた。海に背を向けることに微かな罪の香りを感じた俺はもはや病気だと、一人胸の中で呟いた。

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