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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
22/37

第二十二話 Vtuberになりたいんじゃ!

「なあ、お主絵が描けたような記憶があるのじゃが……」

「あ?」突然の質問に俺は驚いた。沙月は部屋に仁王立ちして俺を見つめてくる。「確かに描けるけど、何を描いて欲しいんだ? それにそんな上手くないぞ」

「前描いてくれたような女の子の絵を描いてくれればいいんじゃ」

「でも俺の絵は少女漫画っぽいけど?」

「いいんじゃ、いいんじゃ」にんまりと笑って沙月が云う。「妾の注文通りに描いてくれればいいんじゃ」

「何に使う気なんだよ。まさか売る気じゃないだろうな? 世の中そんな甘くないぞ」

「妾はなぁ……Vtuberを始めようと思うのじゃ!」

 呆気にとられた俺をよそ目に、彼女は雑紙を一枚持ってきた。そこには下手なりに女の子が描かれていて、不思議な格好をしていた。

「これが妾の設定じゃ。絵を描いてくれればお主のパソコンであとは妾が工夫するのじゃ。フリーソフトが充実しておるからな」

「パソコンって、押し入れに仕舞ってあるやつか? あのパソコンは随分ぼろいし、最近使ってないから起動するかさえわからないよ」

「なんとかなるじゃろう。それよりもほら、描いて欲しいのじゃ!」

 俺は沙月のタブレットを渡されてペンを握らされた。お絵描きアプリを起動して、下書きしていく。沙月の要望通りに描けば、どうやらこの女の子は宇宙から来た美少女らしいのである。髪の毛は金と白が混ざっていて、不思議な形の髪飾りも丁寧に描くよう指示された。彼女の容貌はどうやら太陽系の惑星をイメージしているらしい。服装は銀河系の要素を凝縮、デフォルメした形で、この格好で街中を生活していたら白い目で見られるのは確実だ。

「Vtuberなんて今の時代飽和してるだろ。新規参入で成功できるのか?」

「妾の実力があれば十分じゃ。それにお主にも手伝ってもらうぞ。ゲーム実況もするのじゃ。ウケそうなネタを教えて欲しいのじゃ」

「そんな詳しくないからなあ……」

俺は頭の中でVtuberについて考えた。随分昔に話題になった時、少し調べたけれど、興味は続かなかった。最近ネットを見ていると頻繁にその単語に出会う。気付けばかなり市民権を得ている。深夜にテレビを点けてVtuberが芸人と絡んでいるのを見てここまで来たかと驚いたものである。

 数日後、なんとか俺が満足する程度に描き終えて、完成した絵を見せると沙月は満面の笑みで礼を言ってくれた。遥か昔に妹が俺に見せた笑顔に似ていて、俺ははにかんだ。

 沙月はそれから長い時間パソコンを弄って格闘していた。もう古いパソコンだし、動作も重いだろう。俺は手伝おうと思った。けれど彼女は自分一人で目標を達成しようと努力しているのだった。俺は部屋の端でパソコンと向き合い真剣な表情をしている沙月を見守ることに決めたのだ。

 沙月が昼間に出かけたと思ったら、何か機材を買って帰ってきた。どうやら中古マイクとカメラを買ってきたらしかった。

「今日からロズウェルちゃんとして活動するのじゃ。配信中は静かにしてもらうぞ?」

「わかってるよ。それに普段から俺は五月蠅くないだろ」

「時々変な声を出すから驚くことがあるのじゃ」

 その日から沙月は床に座ってパソコン画面に向けて喋り始めた。最初の頃は俺も興味を持って話す内容を傾聴していたが、その内阿呆らしくなって聞くのをやめた。配信中俺は雑音を立てないように大人しく壁に寄りかかって本を読んでいた。沙月は随分熱心に活動しているらしかった。夕飯のカレーを食べながら俺に今現在の状況を教えてくれたが、今のところそんなに人気はないらしかった。

「今度ゲーム実況をやるのじゃ。お主が確か上手かったゲームじゃ。妾の代わりにプレイしてくれんか?」

「はあ?」俺は呻いた。「俺がVtuberになるのかよ?」

「違う。お主が妾の代わりにプレイして、妾は喋るの担当じゃ」

 翌日の配信前に練習として俺はコントローラーを握らされて、ゲームを遊んだ。それなりに得意なゲームだから俺は黙々とやり続けた。沙月は俺の腕前を見て満足そうに言った。

「プレイは慎重に頼むのじゃ。あんまりカチャカチャ音を立てて遊ばれると妾が必死な感じが出て声色と矛盾が生じるのじゃ」

「悪知恵ばかり働かせやがって……」

 俺は文句を言いつつ命令通り実践した。沙月は頭の回転が速かった。俺のプレイに合わせて適当な話をつづけた。わざとらしいリアクションは控えていた。俺はなんだか同じ屋根の下に暮らしている女の底知れぬ本性を垣間見た気がして背筋に悪寒が走った。

 その翌日どうやら俺のプレイと沙月の喋りが少しだけ話題になって、人気が増したらしかった。沙月は嬉しそうに報告してきた。俺はタブレットで沙月のチャンネルを覗いてみた。登録者は2万人だった。

 それから二週間たって沙月の登録者は10万人を超えていた。衝撃的な成長と飛躍である。沙月の自然な『のじゃ』口調と言葉遣い、皮肉の入り混じった諧謔がネットの住民に受けたらしかった。彼女の配信の一部を切り取って字幕を付けて編集した『切り抜き動画』が頻繁に投稿され、平均再生数を伸ばし、知名度を向上させた。

どんどんと人気になっていく沙月の様子を俺は陰で眺めていた。彼女は別段その注目を重圧に感じているようではなかった。彼女の雑談配信に1000人以上もの人間が押し寄せてきているのに、平気な顔して喋っているのだ。俺は夕飯を一緒に食べながら沙月によく平気だなと言った。彼女は泰然自若に「まあ所詮ネットの存在じゃからな」と呟いて箸を口に運んだ。沙月はその夜も配信を開始した。

「こんロズ~。今日も妾の配信に来てくれて感謝なのじゃけどぉ。お主らなんでそんなに早いのじゃろう? 通知をオンにしているからぁって、でもお主らにはお主らの生活があるわけじゃろ? 恒常的に暇なのか。そうなんじゃろ。俗にいうニートってやつじゃろうな。妾も同じじゃ。しかしよく生きているだけで偉いだのと現代のネット社会では言い交わされておるが、どうもあれには同意しづらいのう。本当に生きているだけで偉いとは妾は思わんよ。偉い人間が生きているというのなら偉いが、偉くもない人間が生きていたところで偉くないし、それなら死んでしまった人は偉くないのかと言えば、違うじゃろう。死を選んだ人間にしてもそうじゃろう。偉いは相対的な評価じゃろうから、みんな偉いというのも妾にはよくわからんのじゃ。ネットを見る限りにおいては最近は言葉の価値が随分と下がってきておるな。まあそれが世の常なんじゃろうな」

 沙月が配信を始めて俺は物音を立てないように注意する。同じ部屋に俺がいるのに沙月は液晶へ向けて延々と話し続けた。俺はイヤホンをつけてタブレットで配信を聞いていた。チャットの速度が速いのに、容易く捌いていた。際どい質問を華麗に無視できる能力もある。まるで達人芸だなと、俺は舌を巻いた。

「ママ? 妾はお主らの母親じゃないぞ。うぅ、スラングじゃろ? 知っておる。けれども妾が云いたいのは……つまり、妾の過去を誰も知らんじゃろ? もし妾が以前結婚していて、念願の子供を孕んで、でも流産したという過去を抱えていたらどうじゃ? 気安くママなんて呼べんじゃろ? 勿論妾にはそんな悲劇的な過去はないが、顔も知らん大勢にママと呼ばれるのは総毛立つ思いじゃ。自重せよ」

 配信はただの雑談だった。他愛のない内容だった。俺は退屈から飛び出しかける欠伸を噛み殺して沙月の後ろ姿を見つめた。彼女の猫背気味に画面へ喋る姿はおかしかった。その時俺の背筋を撫でたのは甘い優越感だった。俺はちょっとした後ろめたさを感じた。

 世の中のVtuberにも俺みたいな同棲している異性がいるのだろう。俺は悲哀を感じた。ロズウェルちゃんに対する匿名掲示板の様子を調査した。セクハラまがいのコメントが多く散見された。配信中活発に意見が交わされていた。

『安アパートで生活してるって嘘くさいな。彼氏の話し声が配信中に入っても、壁が薄いから隣人の物音が聞こえただけって言い訳をするための準備だろ』『完全にそれだわ』『もうずいぶん稼いでるだろうし、一月後にはタワマンに引っ越してそう』『性格悪そうだから配信終了した後彼氏とヤりながらめっちゃ愚痴ってそう』『ロズウェル声若くね? まだ大学生とかじゃねーの?』『下手したら高校生の可能性あるだろ』『そんな若さでこんなに金持っちゃったらヤバいだろうな。人生楽しくて仕方なさそう。そんで年取って拗らせてそう』

 沙月の背中を見ながら、俺は物悲しい気持になった。

「ああ……お主らは『撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ』という台詞を聞いてアニメの真似だと思うじゃろう。でもこれはフィリップマーロウの台詞をアニメの方が拝借してるんじゃ。これと似た様な例がどうもこの星には沢山あって困る。妾の最終目標は世界征服じゃからな。人間には一枚岩でいて欲しいんじゃ。なのに、お主らは全然違う高さで喧嘩し合っている。お互いに土台となる知識の量が全然違うのにお互いに対等だとどこかで信じ切って殴り合っておる。おかしな光景じゃな」

 沙月がマイクに向かって「トイレに行ってくるのじゃ」と言った。沙月が席を立ってトイレに行くとき俺の顔を一瞥した。見知らぬ女が見知らぬ男を見るような視線だった。彼女との距離感を感じて俺は少し委縮した。

 チャットでは『トイレットペーパー代』と表示してある5000円の投げ銭が送られていた。今日の雑談だけで既に5万円以上稼いでいた。俺は虚しさに打倒されそうだった。

 バイトしていた頃、5万円を稼ぐために俺は随分頑張った記憶がある。沙月は二時間雑談するだけで稼ぐのだ。決して悪いことをしている訳ではないが、彼女のやっていることと、受け取っている金額は絶対に見合っていないと俺は保証できた。遣る瀬無い気分だった。彼女は多分今月既に50万円以上稼いでいる。下手したら100万円に届くかもしれなかった。俺の両親が必死に働いて一年かけて稼いでいたような金額を、この調子が続けば沙月は半年で稼いでしまうかもしれないのだ。

 沙月は便所から戻ってきて床に座り直して配信を再開した。俺はチャットの行方を追った。確かに沙月の話は面白かったが、お金を払うほどのものではない。俺が眠さにまばたきした時、10000円のチャットが飛んだ。

「高額なスパチャを頂戴して妾は満足じゃ。お主にも生活があるじゃろうに、よくぞ投げてくれた。にしても、随分な長文じゃな。えぇと、なんじゃって……『ロズちゃん今日も楽しい配信ありがとう!!明後日でロズちゃんが配信活動を始めて一か月になります。僕がロズちゃんの衛星になったのは二週間前。ロズちゃんの楽しくて明るいしゃべりに魅了されてまるで太陽の引力に──』まあ、全部読むと喉が枯れてしまうのでここまでにしておくのじゃ。気持ちは伝わったのじゃ、ありがとうなのじゃ」

 今この日本のどこかから沙月にお金を投げている人々は、本当の沙月に就いて何も知らないのだ。俺だって彼女の本名を知らないしどんな星から来たのかも知らない。でもそんな俺よりも沙月を知らない人々が、自分たちが必死に働いて貯めたお金を、ただ雑談しているだけの女の子に貢いでいるのだ。沙月の顔を見たこともないのに、動く女の子の絵に好意を持って、夢中になっている。彼らは付き合っている女の子はいないのだろうか。結婚している相手はいないのだろうか。夢はないのだろうか。……

「この前電車に乗ったんじゃけど……ええ? 宇宙人でも電車に乗るじゃろう。お主ら根本のところで妾を舐め腐っておるんじゃなかろうか。妾は宇宙人じゃけど、そうじゃな、例えば江戸時代でもいいのじゃけど、その頃の人が今の時代にタイムスリップしたとして、お主らはいつまでもその人間が、育った時代のままの頭でいると思うか? 本質的には、千年前に生まれた赤子と、今この瞬間に生まれた赤子は同じじゃ。生まれ育つ環境が違うだけじゃ。昔の人間を今の時代の視点から笑いものにしたり、馬鹿にする奴もおるようじゃけど、それ随分な思い上がりじゃと、妾は思うけどなあ」

 女の子が回転木馬で遊んでいるのを眺めていたい人間もいるのだ。多分大多数は男たちなのだろう。男たちが回転木馬の周りを取り囲んで沙月が遊んでいる姿を眺めているのだ。そうして回転木馬が止まらないようにお金を投入し続けているのだ。回転木馬は楽し気な音楽を天井から流して延々と沙月を乗せて回り続ける。男たちは沙月が自分の前を通るたび声をかけたり手を振ったりするのだ。

「話を戻すんじゃけど、つまり電車の中で、広告があるじゃろう? 妾の立っている正面に、脱毛の広告があったんじゃな。それは別にいい。最近流行ってるらしいからのう。それで、少し振り返って見ると、どうも妾の背後には育毛の広告があるんじゃな。可笑しな光景じゃったな。生やしたり、抜いたりと忙しいのう、お主ら人間は。にしても、脱毛というのは、最近の流行じゃろう。大変じゃけど、本当にそれは必要な事なのかのう? へえ……介護の時に、毛が生えていると面倒? はああ。そういう理由もあるんじゃなあ。妾の知らないことがいっぱいあるわけじゃ。面白いのう……」

 色とりどりの投げ銭が下から上へ次々流れていくのを目にしながら、俺は連想せずにはいられなかった。俺だって貧窮していた時分、金が欲しかった。世の中にはそういう人が沢山いるのだ。誰かが沙月に五万円を投げ銭する。沙月は軽く感謝の言葉を呟いて雑談を再開する。

「みんな妾にスパチャをくれてありがたいのじゃ。みんなもお金が必要じゃろうに、こんな沢山もらってしもうて、妾は幸福じゃ。貰ったものは妾のものじゃ。次の配信で妾が実は小汚いおっさんの見た目じゃと判明しても返金は受け付けてないからのう。……冗談じゃ冗談。逆になんでそんなものを真に受けるんじゃ。にしても今は、音声をリアルタイムで調整する機械やソフトもあるそうじゃねえ。そりゃ文明の進歩じゃろうけど、みんなは大変じゃな。砂漠の中から妾のような本物を見つけなければいけないんじゃからな。ああ? 妾は本物じゃよ。宇宙から来た、飛び切りの美少女が私だよ」

 道端に五体満足の美少女とそうでない老いた男がいる。男は路上に座って寂しそうな目をしている。美少女は明るい笑顔と可愛い声で、箱を持ってわいわい道行く人と歓談している。男の前に置かれた箱には全然お金なんて入らないのだ。美少女の手に持った箱には次々と紙幣が投入されていく。

「『ロズちゃんの故郷はどんな星だったの?』か……。妾の生まれた星について話すのは、いけないんじゃけどな。禁則事項ってやつじゃ。お主らも仕事で守秘義務があるじゃろう? 妾だってこの星に来ているのは仕事みたいなものじゃ。チャンネルの説明欄に書いてあったじゃろ。妾はこの星の住民の文化を知るために、配信活動を始めたって。ただそうじゃな。折角金を払って質問してくれたのじゃから、妾もほんの少し話してもいいかな。妾の生まれた星は、まあこの星よりずっと清潔な星じゃったな。多分文明が進んでいたのじゃ。だから、汚れが排出されることもなかったのじゃな。それで妾は大切に育てられたんじゃけど、まあ汚れがなければ汚れが気になるというやつで、お主らのようなな、脂ぎった顔でキーボードを叩いて妾のような幼い女の子に近づこうと企む連中が大勢いるようなこの地球に、邪な好奇心という奴をぶら下げて、堂々来たというわけじゃ」

 狂気に満ちた光景だ。俺は辟易した。富める者は生きているだけで富んでいくのだ。そこには善悪はない。自然の摂理で出来上がった仕組みなのだ。胸の中で羨望や嫉妬が交錯した。こんな世界で絶望的な感情と向き合いながら真面目に長生きを目指すなんて、馬鹿げているという思いをより強固にした。

「そういえば、妾が前に競馬で大勝ちしたという話をした時に……、一部の視聴者が『あーあ』だの『言っちゃった』だの『お疲れ様』だの言ってきたのが不可解で、あとで自分で色々調べたのじゃけど、あれは税金関係の話なんじゃな。要するに、万馬券、それも百万馬券だのは税金で半分程度持っていかれるけれど、口座にも入れず現金として持っておけば、税務署を誤魔化せるということじゃろう? それで妾が高額馬券の報告だの自慢だのをしたから、税務署に目をつけられるだろうから、勿体ないとみんな言っておった訳じゃろう? なんというか、……せこい人間もいたもんじゃな。税金を払うのは国で生活するうえで当然の義務じゃろう。どうしてお主らは税金を払わない前提でいるんじゃろう。脱税は犯罪じゃろう。妾はきちんと納税して、残ったお金を大切に使うんじゃ。妾に下らない言葉を向けた者らは情けない奴らじゃ。それに犯罪者予備軍じゃな。反省したほうがいいと思うのじゃ」

 けれど俺も結局同じ穴の狢じゃないのか? 少なくとも、あそこで宇宙船から現れた存在が男でも女でも、風采が上がらなくても、俺は助けたと思う。しかしその後の面倒をここまで看られただろうか。沙月が美少女だから俺は今もこうして狭い部屋で暮らせているんじゃないか。そう思うと自分を気色悪い偽善者だと感じてくる。

「この前別のVtuberを見に行ったら、ASMRという奴をやっておってな、あれは面白い仕組みじゃな。妾が思うに次世代の映画というのは、あれが採用されると思うのじゃ。背後から声がして画面に登場人物が現れる、みたいな。何て説明したらいいのじゃろう。きっと臨場感は段違いなのじゃ。……それに音楽だって、最近は自由度が増して来ておるじゃろう? ASMRを駆使した音楽も主流になってくるじゃろうな。右と左で音が違ったり、囁き声だったり、切り替わったり近づいたり遠ざかったり。色んな工夫が出来るじゃろうな。……どうじゃ、妾の先見の明は? きっと五年後十年後になってな、妾の予言通りの世界が広がっていて、お主らは呟くわけじゃ。ああ、ロズウェルちゃんの言っていたことは、すべて正しかったんだ、って。え? 妾の星は文明が発達しているのに、そういうのはないのかって? そういうのってつまりは、今妾が説明したような娯楽か? ないのう。妾の故郷は娯楽が乏しかったのう。多分あらかたを楽しみつくした果てに待ってる空漠とした時代じゃったんじゃろう。妾は地球の文化、娯楽が大好きじゃからな。地球人は面白くていい。お主らも、面白いのじゃ」

 段々と俺の意識は霞の奥へ隠れていく。視界の見えない深い海の底に沈んでいくように意識全体が暖かな感触に包まれる。

 滑らかに眠りに落ちる意識の中で俺は先日の葦鹿山山頂での出来事を思い出していた。結局山頂ではあの後は何も起きなかった。沙月は困惑に満ちた表情で心配したように俺を見た。病的な状態の俺は押しつぶされそうな思いで笑顔を向けて、話題を反らした。流石に沙月は拘らなかった。

 自分よりも年下の見た目の少女に気を遣わせているのが情けない。遣る瀬無い思いで俺はいた。百億円という小学生が考えたような金額を口にした自分は余りにも滑稽だ。俺はそんな言葉を言う為に今日まで生きてきたわけじゃない。

 大切な場面で暴走するのは俺の悪い癖だ。昔からそうだ。初めて女子から告白された時も、友達に裏切られた時も、両親と揉めた時も、初鹿野が危険に曝された時も、俺は恣意的に暴走したのだ。そこには純潔がなく誠実さも欠けていた。

 俺を心底心配してくれる沙月の姿勢が俺には苦しかった。彼女の真っ直ぐな純情の気持ちは余りにも俺と相性が悪かった。俺には彼女の気持ちを受け止める度量がなかった。

 沙月と一緒に生活し始めて既に二カ月ほどになるだろうか。色々な体験をしたし、少し前までの引き籠っていた俺の人生から一転した。沙月は自分の好奇心の為にそういう場所に行っているのだろうけれど、必ずのように俺を連れて出かけるのは、きっと俺の希死念慮への特効薬になりうると想定しての配慮じゃないのか。

 ……だが、俺は沙月と一緒にいる時だって、必ずしも幸福じゃないんだ。本人には絶対に云えないが本気で苦痛の時もあるんだ。俺は沙月と一緒に普通の人々が生活している空間に参加すると上手く息が出来なくなるんだ。居た堪れなくて自分を今すぐ殺してしまいたくなるんだ。

 俺は去年ずっと、毎日自殺について考えていた。今年もそうだ。沙月が現れてからも俺は毎日自殺について一度は考える。何も変わっちゃいないんだ。

死にたいわけじゃない。普通に生きていきたい。でもそれが出来ないんだ。俺が歪んでいるからだ。俺が俺である限り、俺は永遠に自殺志願者なんだ。俺という人格に限りなく自殺という観念が浸透しつくしているんだ。なんなら、……自殺に一途に恋してるんだよ。

ある国の政策では鬱病患者に自殺防止としてペットを与えるらしい。自分が死んだら、ペットは殺処分されてしまうから、餌代を稼ぐためにも働き始めるし、気持ちも次第に生きる方へ向いていくらしい。

沙月は俺にとってのそれだ。天が与えた生きる理由だ。俺がいなくなっても沙月は平気だと思う一方、俺がいないと駄目なんじゃないかと感じてしまう。もし今ある貯金がなくなったら、俺はどうするんだ? 沙月を手放すのか。彼女を然るべき施設に送ったり、信頼できる人に預けてサヨナラするのか? 俺にそれが出来るのか?

沙月……、お前はなんなんだ? 俺は沙月をどうしたいんだ。沙月を通じて俺自身をどうにかしたいのか。沙月、お前は俺の……、……。


 俺が異変に気付いて目を開けた時、沙月が正面で驚いた表情で振り返っていた。唇を半ばほど開いて瞳は真っ直ぐ俺を見ている。俺は自分がいつの間にか転寝していた事実に寝惚けながら気付いた。沙月の反応的に涎が口から垂れているのかと思い拭ったが乾いている。「なんだ? どうしたんだ? ……あッ!」

 確か配信中だったか。喋ったらまずかったか。俺が焦りつつフォローしようと無言でもぞもぞ動いていると沙月は呆れたように首を振って言った。「もう配信は終わったのじゃ。お主が……変な寝言を言うから心臓がプチトマトぐらいに縮んだのじゃ」

「寝言? 俺がなんか言ったのか?」

「それよりも謝ってほしいのじゃ。お主が寝言を言ったせいで当然視聴者らが、妾のほかに部屋にいることに気付きかけたのじゃ。言い訳はいくらでも思い浮かぶがのう!」

「そうか、悪いことをしたな。にしても言い訳ってなんかあるか?」

「例えば実は猫を飼ってますとか、親が乱入してきたとか、女の子と同棲していますとか……。なんなら強盗が家に押し入ってきたと言っても通用しそうじゃな、この界隈は」

 彼氏という可能性さえ低くできればなんでもいいのだろう。俺は凝った体で伸びをして言った。「本当に悪かったよ。今後の活動に支障をきたすだろ。やっぱ別の部屋を借りたほうがいいんじゃないかな。配信部屋っていうかさ。それなりに稼げる目途があるんだろ? それなら、投資すべきだよ」

「……妾はぁ」沙月はそっぽを向きながら言った。「もうVtuberは辞めるのじゃ」

「はあ!?」愕然とする俺の叫びが部屋に反響する。隣の部屋から壁ドンされて少し声量を落とす。「辞めるって、……これからじゃないのか? 漸く収益化も通って、登録者数も増えて、何もかも順調だったじゃないか」

「今日まではの話じゃ。お主が変な寝言を言うまでのなあ!」

「悪かったって。……それに、その件は致命傷じゃないんだろう? お前が言ったんじゃないか」

「それとこれとは別じゃ。妾はもうやらん。なんだか面倒くさくなったのじゃ」

「んな適当な……。でも滅茶楽に金を稼げる最高の方法だったじゃないか。勿体ないよ、これで終わりなんて。沙月は働いたことがないからわからないと思うけどさ、金を稼ぐってのは本来すごい大変な事なんだよ。なのに沙月はパソコンの前に座って雑談してるだけで俺が人生で稼いだ額を平気で跳び越えちまった。嫉妬したし複雑な気分を味わったけど、凄いと思ったよ。才能がある。誰でも同じように出来るわけじゃない。沙月の天職なのかもしれないぜ? だからこんなところで、辞めちまうなんて──」

「それじゃあ、お主が妾に続けてくださいとお願いするなら、引退を撤回しても構わないのじゃ」

 お願いだあ? 俺は沙月の正気を疑った。それともこれは先日の葦鹿山での出来事への軽い復讐なのだろうか。俺が彼女の誠意に対していい加減な形で返答したことへの……。

「わかったよ。じゃあ、お願いするかな……」

 俺は彼女に言おうとした。Vtuberを続けてくれと。そうしてもっと金を稼いでくれと。だが、理性が告げるには、それは俺の本心ではない。ここ最近夜になると彼女がパソコンに向かって一人で喋り続ける。いつもはその時間は俺たちの穏やかな寛ぎの時間だった筈だ。お互いにこの六畳間の壁に凭れてそれぞれのリラックスした時間を過ごしていた筈だ。なのに今ではどうだ。……

「なんじゃ? 早く言わねば妾は聞かぬ。それともまたお主お得意のはぐらかしかのう?」

「だから俺は、別に、……いや、そうだな」俺は言った。「お願いはしない。Vtuberは辞めてもらって構わない。いや、辞めてほしい。俺はもっと沙月と二人の時間を過ごしたいよ」

「は……はあ!?」沙月は吃驚した様子で少し俺から距離を取った。「なんじゃいきなり! 意味が解らん。全然解せん。どういう心の働きじゃ? なんで突然お主がそんな……はぁあぅ」

「大袈裟なリアクションだな。俺はただ、なんというか今まで通りの関係でいたいだけだ。なんかお前がVtuberとして活動してる時、怖いんだよ。俺の知らない人になったみたいに感じてさ。素直に言うけど、苦手だったんだ。だからさ、ちょっとVtuberってのは、もう俺としちゃ、辞めて欲しいな。他に稼げる方法も、あんまし、思いつかないけどさ。唯の俺の我儘な感情から出た言葉だよ。これで許してくれないかな……?」

 沙月は無言で立ち上がって洗面所へ行って暫く水の音を響かせてから、戻ってきた。「まあいいじゃろう。合格じゃ。お主にしては、中々真面目じゃったな」

「言っとくけど俺はいつだって真面目だからな。真面目だからこそ不真面目になるというか、不真面目を気取るというか」

 沙月がジトッとした目を俺に向けて唇を尖らせて呟いた。「お主は、やっぱりまだ死にたいんじゃろう?」

「……まあな」

「決めたのじゃ」沙月は澄んだ声で言う。「妾がお主の命を買うのじゃ。百億じゃろう? 妾にとっては容易い金額じゃ。さっさと稼いで、お主の命をいただくぞ!」

 部屋の中心で前髪を湿らせ潤った若い肌をほんのり赤く上気させながら沙月は高らかにそう宣言した。俺は彼女を見上げる事しかできなかった。そうして、俺が何か言葉を発する前に、やはり隣の部屋から壁ドンされたのだった。

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