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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
21/37

第二十一話 葦鹿山に登りたいんじゃ!

「なあ、お主はその日から読む本を知っておるか?」

 沙月が突然言った。俺は顔を上げて聞いた。「なんだそれ。その日っていつだ?」

「そういう名前の本じゃよ。宝くじで確か……1000万円以上の高額当選した者に渡される冊子じゃな」

「なんでそんなマニアックな知識を持ってるんだ? 宝くじねえ……」

「最近よくCMで見ておったから記憶に残っておるんじゃ。妾も買ってみたいのう。夢を買うっていうのはいい表現じゃな」

「アメリカじゃ愚者の税金って呼ぶらしいけどな」

 俺がそういうと沙月は顔を顰めた。「浪漫がないのぅ。現実主義者は自分を賢いと思ってる感じが嫌じゃ!」

「楽観主義者はすぐ開き直るから俺は苦手だね。いくら説得しても思考放棄するからな。私馬鹿だからよくわかんないやって」

「妙に具体的な愚痴じゃな」沙月はタブレットを弄りながら言った。「宝くじは確か未成年は買えんじゃったか。まったく大人の姿にならんと自由を得られないというのは妾にとっては不都合な社会じゃな」

「お前は頭もガキだろうが」俺は台所の方へ歩きながら言った。「大人になって可能になるものごとってのは、基本的に不健康なものばっかだよ。賭博や酒や煙草だ。身を持ち崩すきっかけになりうる危険なものだ。憧れる気持ちもわかるけどさあ」

「お主は宝くじを買ったことがあるか?」

「ないよ」俺は麦茶をコップに注ぎながら答える。「あれはやっぱり俺は信じられない。何がって……宝くじだよ。その運営もだ。きな臭いんだよな。透明性がないっていうかさ。それに、コペルニクスの原理って知ってるか? 要するに俺たちは平凡ってことだ。宝くじが当選する確率をよく考えて見ろよ。特に一等なんて、天文学的なもんさ。自分が特別であると勘違いしなけりゃ、まず買わないね」

「でもお主は特別じゃろう?」沙月は言った。「妾と出会ったわけじゃ。この星で宇宙人と出会う確率というのは、一体いくつじゃろうなあ? お主の唱えるドメスティックだかエイプリルフールだかの原理は的外れじゃな」

 そこまで語彙力があるなら間違えるなよ……と思いながら俺は麦茶を飲んでから反論した。「確率の話だ。しかし俺が思うにだ。あれがある意味での偶然なら、俺だって認めるさ。だがどうも違う気がする。何か他の引力が存在して、要するに作為的にあの場面が演出されたと考えるならば、あれはコペルニクスの原理がどうとかいう問題じゃなくなってくる」

「なんじゃなんじゃ、勝手に飛躍して自問して自分だけで完結しようとするでない!」

「俺だって馬鹿じゃない。なんとなく、なんとなくだが、これは運命じゃないかという直感が働くことがある。お前は前に服を買いに行ったとき、なぜか興奮した様子で俺に言ったな、これは宿命だって」

「そんなこと言ったじゃろうか? 妾の記憶では別にそんな……」

「似た様なニュアンスのことは言ったさ。偶然ではなかったという感じだった。……なあ、お前何か知ったのか? 何かを見たんじゃないのか? それとも誰かから接触があったか? ……だとしたらいつだ。お前が墜落した時は俺について何も知らないみたいだった。でも、次の日……そういや、お前はどうも不審だった。刑事が来る前に布団を畳んで、押し入れに仕舞って便所の中で息を潜めて俺たちの会話を聞いてた。刑事が呼び鈴鳴らした後にそれを行うのは不可能だ。何から何まで用意周到で、あの時は俺は一切疑わなかったが、今となっちゃ、怪しい要素しかない」

「うぅ……お主は妾のことを今更……」沙月はそう言って悪戯がバレた犬のように俯いた。

「俺は別に、そんなことは、そうだな、追求しないよ。追求する気力がわかない。最初に言ったもんな。俺は……自殺したいんだ。死にたいんだ。今更俺がどういう風に利用されたりしようと、興味はないさ」

「……わかった」沙月は静かにそう言った。「あの山に今から行くのじゃ。そうして登って、妾がお主に、妾の知っている真実を話すのじゃ」

「だから俺は別にそんな……」

 沙月は立ち上がって着替えを持って洗面所へ歩いて行った。少し怒っている背中だった。あいつの気持ちも理解できるが、俺だって内心穏やかじゃないのだ。誰しも秘密があって、それを隠して生きている。当たり前だが沙月にもそれがある。俺にだって彼女に話していない過去はいくらでもある。だが俺が話さないのは、沙月には関係がないからだ。それに彼女が俺に本気で知りたいと願えば、話す。しかし、沙月は俺に関係する秘密を抱えている。それは少しだけ、俺を混乱させる。……

 時計は午後二時だった。俺たちは家を出て太陽が眩しくアスファルトを照らす中、葦鹿山へ向けて歩き始めた。

 雑草が舗道の隅に生えていて黄色い小さな花を咲かせている。風が吹くと木々がざわざわとなり、足元の雑草も右へ左へ揺れる。服の隙間に空気が入って涼しい感じがする。俺たちは無言で歩いていた。俺は彼女を懐柔する思惑で言った。

「宝くじの件だがな、前に不可解な奇跡が発生したんだ。ある人が宝くじを買ったところ、5口連続で同じ数字のものが出たんだな。調べればわかると思うけど、超天文学的な数字だよ。宇宙が誕生する確率よりも、遥かに低い確率だ。まあ常識的に考えれば絶対に有り得ない数字だな。どう考えたって不正してる。だがな、最悪なのは、確率が0じゃない限り、偶然同じ数字が五回連続で出たと考えることも可能な点だ。だから頭が弱い人間は、騙される。奇跡を信じているし、奇跡を自分が手に出来ると信じているからだ。ただ、自分は特別だと感じながら生きてるから俺よりかはずっと幸福な人生を歩んでいるんだろうがね」

「……それじゃあ」どうやら沙月の興味は引けたらしい。「宝くじが当選しているのは誰なんじゃろうか?」

「さあね。宝くじを売ってる側の身内とかじゃないの。そもそも売ってる側は、一等の金額の何倍も稼いでるだろうけどね」

 こんな話を聞かせたら地球人らの寿命が短くなりそうだが、俺は気にしない。逆に思うのは、沙月の仲間はいつまで悠長にしているのかという点だ。さっさと彼女を回収に来て地球人を滅ぼして欲しい。幼年期の終わりみたいなのでもいいんだ。

 俺たちは葦鹿山に到着して、自動販売機でスポーツ飲料を購入してから、山道に入った。擬木性の階段を上がる。既に俺は背中に汗をかいていた。今日はほどほどに薄着してきたが、蒸し暑い山中では無意味だった。それに羽虫がそれなりにいるし、多分数日後には虫刺されが手足に発見されるだろう。

 沙月は見た目相応の軽い足取りで階段を上がっていく。細い足腰だが、体力はあるらしい。生きも切らさず階段を上がっていく。俺は自分が順調に年を取り老化していることを、まだ成人したばかりなのに思い知らされる。最近運動していなかったせいかもしれない。昔は俺も駆け上がるように、こういう道を進んで行けたんだけどな。

「お主は厭世家じゃな」沙月は振り返って言う。「そんな思想じゃ、なににもなれんじゃろうに」

「刺さることを云わないでくれよ」俺はぐったりして言った。周囲の木々の緑が美しく映えた。土の香りがする。遠くで鳥の囀りも聞こえる。枝と葉叢の隙間から差し込む木漏れ日の中を俺たちは順調に登山する。

 この時間帯には散歩のルートとして山道を利用する高齢者もいて、俺たちとすれ違うと不思議な顔で挨拶する。頭を下げてすれ違う。沙月のような髪を染めた若い少女が葦鹿山を歩いているのは物珍しいのだろう。

「まだ鳴いてないけどさあ、蝉がそろそろ地面から顔を出す頃だよ」

「蝉って、ミンミンいう虫じゃろ?」

「そうだよ。日本じゃアブラゼミが一番多くて、茶色い羽の虫でさあ、俺は結構子供の頃蝉が好きで親に連れられて山だとか公園だとかに来ては手掴みで、樹木にとまってる蝉を獲ったもんだよ。虫籠に入れて家に持ち帰ろうとするんだけど、母さんに止められて、仕方なくリリースするんだな。懐かしいよ」

「アニメを見てると聞こえてくる音じゃな。なんじゃろうと思っておったんじゃよ。妾は季節を超えるわけじゃな」

「全然迎えが来ないじゃないか。もしかして見捨てられちまったんじゃないのか?」

「そうかもしれんな……」沙月は小さく言った。「けれど、それは有り得ないじゃろう。必ずいつか迎えにくるよ。今すぐって可能性もあるじゃろうな」

「そうだな。……コペルニクスの原理を使えば、迎えがいつ頃来るかわかるよ」

「ほう、いつ来るんじゃ?」

「まあ……暗算だけど、三年以内には来るんじゃないかな。明日から三年経つまでの間に、95%の確率で迎えが来る」

「それは……広すぎるじゃろう。範囲が」

「仕方ないだろ。95%だからな。50%の確率で計算するなら、頭が疲れてくるなあ……まあ半年以内かな。いや、どうだろう。間違ってるかもしれないな。そもそも俺は別に理系じゃないし……」

「適当な奴じゃな」沙月はにやりと笑って俺の隣を歩いている。「しかしこの山はどれだけの高さなんじゃ? お主は知っとるのか? まさかそれもコペルニクスの原理とやらで導けたりしないじゃろうな?」

「葦鹿山は確か標高100mもなかったと思うけどな。そんな高い山じゃないし。もし高い山だったらこんな軽装でこないよ。一時間もかからずに登れるはずだよ」

 時々出会う看板を見て現在位置を知りながら、俺たちは只管歩き続けた。登山と呼べるほど立派なものではないが、久しぶりに山を登るのは身体に堪えた。沙月は汗こそ流しているものの、元気に底がない。

 東屋でスポーツドリンクを摂取しながら俺はスマホで現在位置を確認し、周囲を見回した。色々な木々が伸びている。小学生の頃に課外授業で呼び名や判別方法を教わった記憶があるが、今は薄ぼやけて思い出せない。

 誰か偉い人間の言葉で、学校で習ったことをすべて忘れてそれでも残るものを教育というらしい。俺に残ったのは、自分は集団に馴染むことが出来ない存在であるという劣等感ぐらいだ。親に高い学費を払ってもらって希死念慮を得たというのだから苦笑してしまう。

 宝くじの話題の時も、俺は自分で自分の発言を頭の中で批判していた。利口ぶってないで宝くじを買うのが本当に頭の良い人間の生き方なのだ。全部そうだ。

 東屋を出て俺たちは再び山頂を目指し歩き始めた。登山道に沿って設置されたロープ柵を沙月は指で押して遊んでいた。「あっ」と声を出して彼女が固まった。俺は少しだけ焦って近づいた。「どうしたんだ」

 沙月が右手の人差し指で柵の擬木杭を示した。俺が視線を寄越すと、そこの上に擬木の色と同化した蜥蜴が細身の体を平たくして張り付いている。顔をそっぽへ向けながら俺たちを警戒している。沙月は忍び足で近づいて、蜥蜴に手を伸ばした。彼女の手が三十センチほどの距離へ接近した途端、恐ろしい敏捷さで一気に杭を降りて草叢に逃げ込んでしまった。沙月はがっかりした様子で肩を落として俺に文句を言った。「お主が後ろで変な動きでもしていたんじゃろう。それで驚いて逃げてしまったのじゃ」

「んな無茶なクレームがあるかよ。ああいうのはコツがいるんだよ。背後から近づくべきなんだ。それにあんぐらい近づいたらもう一息に捕まえないとな」

「じゃあお主が捕まえてくれればよかったのじゃ!」

「捕まえてどうするんだよ。あんな蜥蜴、世話できないだろ」

「そんな大きな話じゃない、妾は蜥蜴を触ってみたかったんじゃ!」

「ペットショップに行きゃあ、トカゲでもイグアナでも触れるよ」

「野生には野生の魅力があるじゃろうに、お主はやっぱり鈍感じゃな」

 俺たちはお互いに言葉で応酬し合いながら、とうとう頂上へ続く坂道へ来た。俺は言った。「そろそろ山頂みたいだな。多分、どうせ、大して何もないよ。前に来た時は上半身裸のおっさんがベンチに座って煙草吸ってたよ」

「悲観的じゃのう。それなりの景色は望めそうじゃし、まあいいじゃろう? なんにでも報酬を求めるのはお主の悪癖じゃな」

「報酬がなきゃ人間の脳味噌は発達しないのさ」

 俺たちは縦になって登った。腕時計を見たら午後三時前だった。長い道のりだった。俺の更なる悪癖は、こういう時に帰り道のことを想像してしまう事だ。俺は自縄自縛している。沙月が居なければ俺は殆ど家から出ない。意味がないと思っているからだ。

 意味を求め続けると人は破滅する。呼吸できなくなる。人生から栄養素が失われていく。朽ち果てた荒野で孤独に自死することになる。適度な道草が必要なんだ。効率だけを追い求めた果てに孤独な夜が待っている。孤独は寄り添っちゃくれない。孤独は孤独な人間を置き去りにするのだ。本当の孤独に名前はない。

 山頂は別に絶景ではない。俺たちは辿り着いたが、別に歓声をあげることもなかった。周囲は木に囲まれて丈の長い草が繁茂している。その所為で視界はあまりよくない。何とか見えるのは遠くに見えるビル群くらいで、その向こうに微かにうっすら山が見えるかというぐらいだ。その山だって名前も知らない平凡な山だ。

 ベンチに座ってスポーツドリンクを飲みながら沙月の感想を待ったが、彼女は音場を発しなかった。そういえば、家で彼女は俺に言ったのだ。すべてを話すと。

 沙月が『すべて』と表現した情報の輪郭や範囲さえ俺は知らない。予想する為の情報すら殆どないのだ。沙月は無言で、遠くの風景を見ている。彼女の決意を込めた背中を見ていると学生の頃女子に告白された場面を思い出す。毎回、相手が何を言おうとしているのか、何となく察することが出来る。第六感みたいにだ。突然女子の周囲の気配が変化し、緊張感を孕みだす。そうして彼女が躊躇うような色を浮かべた瞳を俺に向けて、喉が震える。

 苦手な時間だ。小学生の頃校舎の硝子を割ったことがある。家に帰ってきて母親に報告せずに和室でゲームをして遊んでいた。夕方、家に電話がかかってくる。小学校からだと母親は勘付く。「胡桃、あんた学校でなにかやったの?」今更逃げることはできない。俺は和室でゲーム機を弄りながら心臓がバクバクし始めるのを感じる。全身が蒼白になる。一気に背筋が冷え冷えとする。母親が高い声で受話器の向こうと会話する。多分担任教師が俺の割った硝子のことを報告する。母親の声が少しだけ低くなっていく。……

 そのときぐらい苦手な時間だ。俺は沙月に声をかけた。「なあ、俺に話してくれるって言ってたけどさあ……」

「妾は確かに約束したなあ」沙月は困ったように振り向いて笑った。桜色の髪の毛が木漏れ日を浴びて金色に輝く。「何から聞きたいんじゃ?」

「別に俺は……何も聞きたくなんかないよ。どうせそれを聞いたところでだよ」また悪い癖だ、と思いながら俺は言葉を紡ぐ。「俺にはどうすることも出来ないような内容なんだろ。そんなことばっかだ。俺が聞く意味がないよ」

「お主も十分関係しておることじゃ。まあ別に妾が話そうと思っておったことは、お主の関係する部分だけじゃけどな」

「そんなことはもう、この際どうでもいいよ。よくわかんないし……」

「弱気じゃな。怖気づいたのか? どうしてお主はそんなに現実に臆病なんじゃ。一緒にいるとよくわかってくる。お主の考えていることや傾向がのぅ」

「俺には思想があって、だから理解しやすいんだろ。そりゃそこらの他人の方が複雑だよ。思想がないんだからさあ。俺は……」沙月は俺が全然違う話柄へ意識的に路線変更するのを黙って見守っている。「俺は思うけどさあ、世間の連中ってのは、ネットだとかテレビとか新聞で仕入れた他人の思想ってのを、借りてそれを喋ってるだけだよ。だから誰かにそれについて深く聞かれると、よくわからないだとか、別に俺の考えていることじゃないとか言い出すんだ。そうして空っぽな人間が大量に溢れてる。そんな人らの本当に考えていることなんていうのは、無秩序で、気紛れで、感情的なんだ」

「だからなんじゃ?」沙月は重々しい声音で言った。俺はベンチの上で沙月の両目を見た。

「だからなんだってことでもないけどさあ……」

「お主は随分偉そうじゃな」沙月は一歩ずつ俺に近づいてきた。「他人のことを批判するのは普通じゃと思うよ。お主の云ってることも妾は理解できるのじゃ。けれども、お主はお主のことをもう少し世話してやってもいいんじゃないじゃろうか? お主が言うには、お主地震にもその厳しい批判の眼は向けられておると言う事じゃろ。自己批判は苦しいじゃろうな。そうしてお主は自分の『権利』を自分自身で奪ってしまったのじゃ。それがお主の自殺の大きな動機の一つじゃろう。虚無主義になり厭世観を育み悲観的なものの見方をするようになった理由がそれじゃ。お主は自分を批判しすぎて、嫌になったんじゃ。批判しないという選択肢はお主の思想とやらが関係しておるのじゃろう? 近くにいたらわかる。お主は頑固じゃ。考え続けることが人間の在り方じゃといつか言っておったな。そういうことじゃろう?」

「そんなこと、いつ言ったっけか。まあそんなもんだな。……」

「お主は自分を許してやるべきじゃ。自分のことをそんなに罰するべきじゃないのじゃ。お主は自分を極刑に処そうとしておる。阿呆らしいことじゃ。妾の知らないお主の過去があるんじゃろう。お主が度々口にする罪悪感というのも、関係しておるのじゃろう」

「別に、そんな大仰なもんじゃないよ。それに俺が死にたい理由はもっとあるし、複雑なんだよ。マジで」

「お主は死なないよ」沙月は静かに言い放った。太陽が地面に作るまだら模様が少しずつ移動する。雲が陰になる。視界が薄暗くなる。しかしすぐに明るくなってくる。沙月の瞳は透き通っている。「死ぬことはない。少なくとも今年中は生きておるじゃろうな。妾は確信を持って言える」

「そりゃあ、俺が自殺する度胸のない意気地なしって言いたいのか?」

「そう取ってもらって構わないのじゃ。どう受け取ってもらってもいい。お主が死ぬことはない。妾は断言するよ」

「そこまで言われたら、まあ、そうかもな」俺は不貞腐れたように呟いて俯いた。自分の足元を小さな虫が行進している。

「それと妾はお主に──」

 俺たちが登ってきたのとは別の方の道を通って、カンカン帽を被った老人がシャツの襟もとを熱そうに指で弄りながら姿を見せた。沙月はほんのり顔を染めながら照れ臭そうに黙ってしまった。俺は気まずい気持ちで彼女から目を離して老人の方を見た。向こうはこちらを見向きもせず、現れたのとは別の道を通って下山していった。

「なあ沙月。お前は多分、滅茶苦茶いいやつだ。そんで、きっと俺のことが心配だから、こんな風に俺を励ましたり応援してくれたりするんだろう?」

 沙月は何も言わず俺の前に立っている。俺は立ち上がって彼女から少し離れた場所で言った。

「お前だから、本音を言うけどさ」俺は少しだけ火照った喉が震えそうになるのを堪えた。「死にたくないんだよ。俺もさ。死にたくないけど、生きていきたくもないんだよ。俺にだって信念があるし、子供っぽいって百人中百人に笑われるだろうし、誰一人として理解しようともしてくれないだろうけど、意地があるわけだ。もし俺がお前に本気で頭を下げて紐にしてもらってさ、沙月が競馬だので稼いだ金を使って今みたいな生活を、沙月の迎えが来るまで続けることも、可能なのかもしれないけどさ、でもそういうこと、俺はしたくないんだよ。死んでもな」

 涼しい風が木々の幹や、俺と沙月や、その向こうにある景色へ向けて吹き抜けていった。俺は擾乱する心臓に力を込めて言葉を続けた。

「俺の死ぬ理由なんて結局誰にも分らないんだ。実際、俺にだってわからないところがある。完璧に言語化できるほど俺は頭がよくないし表現力もない。それに人間だからそれなりに矛盾だってあると思う。俺が意地だのなんだの格好つけてる横で、突然百億円が口座に振り込まれたら、それこそ俺は調子に乗ったりして、自殺なんて考えも一気に霧散しちまうかもしれない。糞ダサいけどな……」

 沙月は呆けた顔で俺の真意を汲み取ろうとしている。俺は喋り続ける。

「死ぬことで救われる魂もあるんだ。俺は生まれた時から違和感があった。現実と馬が合わないんだ。毎日のように現実と喧嘩して生きてきた。お互いに罵倒や批判をしあってな。そうして結局俺が根負けした。俺は疲れたんだよ。そうして俺は、宝くじみたいな幸運を好まない。沙月と出会ったのは奇跡みたいな確率だ。歓迎するべきことだ。でもだからこそ、俺は好きじゃないんだよ、こういうの。不公平だ。俺は過去の自分を裏切りたくない。俺が沙月との出会いに疑義を呈した契機は、そういう部分が起因しているんだ。俺は都合のいい奇跡を教授することに半端じゃない抵抗がある。そういう奇跡を放棄する姿勢に美徳を感じる。自分に対する忠誠があるんだ」

「わからない……わからないのじゃ」沙月は複雑な感情を瞳に宿して詰問した。「じゃあどうすればお主は死ぬのを止めるのじゃ?」

「そんな時は来ない。死こそ宿命だ。中々格好いい台詞だろ。死が宿命なんだ。自死がな。天寿を全うできるのは普通の人間だよ。認めるよ。俺は特別だ。……日本人の年間自殺者数は三万人ぐらいだ。一億人以上いて、そんぐらいだ。まあ自殺する人間は珍しいよ。つまり、俺は特別なんだ。特別だからこそ、沙月にも出会ったんだろう。俺は自分を特別だと認めることでやっと救われたんだ。今まで俺は自分を普通の人間の一員だと信じようとした。だからこそ社会に融け込もうと藻搔いた時期もあったが、自分が普通ではないと悟った時に、俺は漸く少しだけ自分を許すことが出来たんだ」

 今でも覚えているが、俺は小学生の朝礼の時間に校長先生の退屈な長話を聞きながら、ぼんやりと校舎とその上空に広がる薄水色の空を見上げつつ、自分将来、中学高校へ行き、大学へ行き大学院へ行き、就職しサラリーマンになって働いて適当な時期に結婚して子供を作って、みたいな普通の人生を歩むものだと本気で信じていて、そういう人生に対してつまらないなあという感情を抱いていたのだ。しかしそうはならなかった。大学生になり抑えきれなくなった俺の自我が暴走し、結果退学になり孤独になり自殺を決めた。

 俺が普通でない理由はよくわからない。幼少期に影響を受けたものについて幾つか心当たりはあるが、それより以前の物心つく前の話を親から聞くと、その頃から俺は普通ではなかった。もしかしたら発達障害やADHDなんかに該当するのかもしれない。

 もう誰かを恨む気はないし怒りの矛先を向ける気もない。誰かの所為だという気もない。すべてが俺で完結している。それでこそ人生だ。

「確かに俺は潔くなかった。反省してるよ。でももういいんだ。もう大丈夫なんだ」

「何が大丈夫なんじゃ!」

「なあ沙月。お前は俺に死んでほしくないのか?」

「当たり前じゃ。お主には死んでほしくない。当然の感情じゃろう。命の恩人なんじゃからな!」

 俺はぼんやりとこの瞬間のことを考えた。俺が死ぬときもきっとこの瞬間のすべてを覚えているのじゃないだろうか。呆然とする沙月や、山頂の景色や、太陽の傾きや、草木の香り、土の香りと感触、遠くで聞こえる自動車の音や鳥の声や風の音。

「ならさ。俺たちで百億円稼ごう」俺は言った。「そうしたら俺も、生きていこうって思うよ。それしかないんだ。この世界には」

 沙月は俺の発言の意味を解き明かそうとしているようだった。まるで俺がミレニアム懸賞問題を出題したみたいな表情で硬直していた。

 申し訳ない気持ちだった。こんなのは子供騙しだ。百億円なんて正直俺にはどうでもよかった。俺は兎に角今この瞬間を潜り抜けたかった。その為の適当な条件だった。何様だって話だけど、俺だって必死なのだ。沙月と出会ったのはお互いにとって不運だったとこの時俺は確信した。そうして、悲劇の扉はとうに開かれていたのだとも、看取せざるを得なかった。

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