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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第十八話 テレビが欲しいんじゃ!

「おい、沙月。テレビ買いに行くぞ」俺が言うと沙月は散歩を告げられた犬のような敏捷さで起き上がった。

 前に行った中古屋に俺たちは向かった。俺は自転車を押した。テレビを自転車の後ろの荷台に紐で結んで持ち帰る。落ちないように沙月にも支えてもらう計画だ。

 中古屋は相変わらず中古屋だった。店の前に並べられた家具類を見て沙月は無邪気にはしゃいだ。座椅子なんかが結構な安値で置かれている。沙月は両手を振って欲しがったが、買ったところで置く場所がないのだ。俺は無慈悲に首を振って、店に入った。

 涼しい店内と気怠そうな店員の挨拶。沙月は入り口に置かれた狸の置物を撫でながら言った。「ここにはなんでもあるんじゃな」

「なんでもはないだろ」俺は見回した。「あるものだけだ」

「哲学的じゃな」沙月は狸の置物の値札をちらりと見て目を丸くした。「こんな高い値段を払って、これを買う物好きもおるんじゃろうなあ」

 濃緑色のジャケットを着た男が棚に並んだギターの前で腕を組んでいる。店員が傍を無言で通り抜ける。俺たちは彼らの後ろを通って階段を上がった。二階にはゲーム機などが置いてある。俺はテレビの置いてある方へ向かった。沙月は物珍しそうにきょろきょろ田舎者っぽい仕草でひとつひとつの棚を見物していた。

 魅力的な商品が沢山並んでいるが、いま衝動的に買い物したところで、結局使わないものばかりなのだ。俺は昔、子供の頃に好きだったゲームが安値で売っていたので、気分に任せて購入したが、結句一度も遊ばずにいまも薄暗い場所に放置されてあるはずだ。

 俺はテレビが並んでいる台の前に立って、先日気に入った商品がまだ売れていないことにほっと安堵しながら、振り返って沙月に言った。「これを買うぞ」

 それは24インチのテレビで、二万円ほどの値段だった。ポケットから財布を取り出して中に入っている金額を再度確認し、俺は店員を呼んだ。紺の制服を着た店員が顔を出して、テレビを確認しに来た。そうして諸々の手続きが終わって、俺は金を支払った。沙月はどこかへ行ってしまった。テレビを台車に載せて俺がエレベーターに乗って一回へ降りると、沙月は古本の棚を見ていた。「なにか欲しいものあったか?」

「どれも欲しいんじゃけどな」沙月は棚から一冊の文庫本を抜き取って云った。「これが欲しいのう」ドストエフスキーの『死の家の記録』だった。

 俺は財布から金を出して買ってこいと合図した。彼女が立ち去ると俺は一人で本棚を物色した。あんまり数は多くないが、中々名著が揃っている。まあ名著ほど売れているわけだから、中古として出回る本も多い。夏目漱石に太宰治や東野圭吾が並んでいる。基本的には大衆小説が散見される。俺は手を伸ばして阿部公房の『カンガルー・ノート』をパラパラと見た。その後に海外のミステリーも見た。登場人物紹介のとある娘の名前に鉛筆でマルが囲ってある。俺はこの小説を既に読んでいたので、この娘が一連の事件の犯人であることを知っていた。とんだ地雷である。

 沙月が本を片手に戻ってきた。俺がバッグにそれを仕舞って、店を出た。駐輪場に止めた自転車の荷台に白い紐でテレビを結ぶ。だいぶ不安定だ。空は晴れていて、湿度が高かった。汗をかきながら俺は作業した。沙月は売り物の座椅子に座って足を組んで俺を見ている。俺は手招きした。沙月が素直に近づいてくる。テレビを結び終わったので出発するが、沙月には後ろでテレビを支えてもらう。

 自転車を押しながら長い道のりが始まった。取り敢えず段差に気を付ける。坂道を避ける。中古テレビの運搬クエストだった。俺たちはフォーメーションを組んで、大通りの歩道をたらたら自転車を押しながら歩いた。

「まるでシーシュポスじゃな」沙月は額に汗の粒を浮かべて云った。「知っとるか、お主?」

「ギリシャ神話の話じゃなかったか? 岩を延々と山頂目指して運んでるんだろ。賽の河原みたいな感じで。お前はテレビを運ぶのを罰っていいたいのか? だとしたら、労働には向いてねえな」

「疲れるのは苦手じゃ。力仕事もな。見てみよ。妾の肉体を。まだうら若い乙女じゃ。こんな子供に仕事させるべきじゃないのじゃ」

「都合のいいやつだ。誰の為にテレビを運んでいると思ってるんだか」

 俺たちは出来るだけ舗装された道を通って家へ向かう。滑らかなコンクリートの上を舐めるように自転車の車輪が回る。テレビを結ぶ紐は張り詰めて、少しでも裂け目が入ったら一瞬でバラバラになってしまいそうだ。俺は緊張しながら出来るだけ衝撃を与えないように慎重な足取りと手さばきで自転車の舵を切った。

「この自転車に名前を付けようかな」俺は言った。「船みたいにさ」

「博光丸はどうじゃ? 今の状況にうってつけじゃないかのう?」

「蟹工船の船じゃねえか」俺は溜め息を吐いた。「アトラス号ってのはどうだ?」

「天空を背負ってるギリシャの神様じゃろ? ヘラクレスが羨ましいのう」

 俺たちがぐちぐち言い合いながら、結局アパートまでたどり着いた。背中に汗が溢れ、服が肌に嫌な感触で張り付いている。着替える必要性を感じながら、俺たちは自転車の荷台の紐をほどき、テレビを担ぎ上げた。二人で端を持って階段を丁寧に上がり、家の前まで運んだ。鍵を開けて部屋に縦向きに持って居間へ運び置いた。

 床に座って俺たちは熱い息を吐いて倒れた。テレビは堂々と部屋に鎮座している。長い苦しい夢を見ていた気分だ。終わってみれば、一瞬で過ぎ去ったように感じるが、俺の流した大粒の汗が、決して短くない時間だったことを証明している。

 こういう日でも窓の外、遠い場所で引っ越し業者なんかが重い荷物を迫る制限時間と戦いながら運んでいると思うと畏敬の念が湧く。気軽に配達を頼むのも考え物だが、頼まなければ彼らは職を失うのだ。兎角に人の世は住みにくい。

 箱を開封してテレビを床の隅に設置する。コードを繋いで付属のリモコンを操作する。電源が入り、大きな音で番組が映った。動物の映像に芸能人が大声で突っ込みを入れ会場が笑いに包まれている。俺たちは呆然とその映像を眺めながら、冷蔵庫から出した麦茶を飲んだ。

 沙月が番組表を見ているのを横目に俺は洗面所へ行き着替えた。服を籠に入れて、顔を洗う。汗が洗い流される。シャワーを浴びてもいいが、時間が早すぎる。

 洗面台から出て、居間へ戻って沙月の後ろからテレビを見た。久しぶりに見るテレビだった。子供の頃はそれなりに見ていたが、実感を出て一人暮らしするようになって、テレビのない生活に馴染んだら、別段必要性を感じなくなった。今はスマホがある。

「お笑い芸人という職業は面白いのう」沙月は振り向いて言う。「妾たちもコンビを組んで挑戦してみてもいいんじゃないかのう?」

「黒歴史になるだけさ。それに、お前みたいな容姿のいい女ってのは笑いの分野じゃお呼びじゃないのさ。どうしたって顔で選ばれる機会も増えて、アンチがいっぱい湧いてくるよ」

「相変わらず悲観的な奴じゃな。お主の正体は」沙月は俺のバッグから先ほど買った文庫本を取り出した。「ドストエフスキー的憂鬱ってやつじゃろう?」

「そんな大層なものじゃない。もっとどうでもいい類のものだ」

 沙月は暫くテレビを見ていた。俺は疲労からか欠伸が止まらず床に横になった。窓の外は穏やかな気候だった。ベランダに干した洗濯物が風に揺れている。眠気がじわじわと俺を包み込んだ。

 起きて顔を洗って洗濯物をこんで畳んで仕舞った。一息ついて、俺は部屋の隅で読書している沙月を見た。集中して本を読んでいる。桃色の髪の毛が帳のように垂れて彼女の表情を隠している。精巧な人形のようだった。

 俺は引き籠っていた一年間、自分の憂苦を親の所為に感じている部分もあった。勝手に親が俺を産んだのだ。子供には責任がない。子供の犯す過ちや、受ける苦しみはすべて親に責任がある。そう思っていた。しかし云わば沙月という子供を俺が拾って育てることになって、親のような立場になってみれば、俺の両親がどれだけ力を尽くして俺を育ててくれたかがわかる。

 少しずついい方向へ俺の人生が向かっているのを実感している。しかし……。

 俺はタブレットで調べ物を終えて、時計を確認してから台所で夕飯の支度を始めた。今日は塩ラーメンである。俺が麺を茹でていると沙月が傍に寄ってきて鍋を覗き込んだ。

「今日はラーメンじゃな」

「そうだ。塩ラーメンだ」

 意味のない会話だった。少し前の俺ならこういう会話を馬鹿にしてたかもしれない。意味のない会話。形だけのコミュニケーション。しかし俺たちは動物なのだ。毛繕いみたいなものだ。この短いやり取りを蔑ろにした結果、俺は孤立し、自分自身も好きではなくなったんじゃないのか。

 完成したラーメンを器に入れて盛り合わせ、机の上に置いた。部屋の中心で湯気が立ち昇る。俺たちは手を合わせて「いただきます」と唱え、箸を片手に啜り始めた。

 こういう日常が続くなら、もう少し生きてみてもいいんじゃないかと、魂のどこかで、誰かが言っていた。

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