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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第十六話 眠れないんじゃ!

 六月に入って頻繁に雨が降り始めた。傘マークが並ぶ天気予報をスマホで見ながら、俺は溜め息を吐いた。そうして沙月に言って、部屋の電気を消した。時計は既に午前一時を過ぎている。

 布団に横になって、暫くして沙月のいる方でガサガサ音がした。俺は気にせず目を閉じて呼吸を意識して落ち着け、頭の中を空にしようと努めた。視界が真っ暗になったり真っ白になったりしているうちに意識が遠ざかり、深い深い深淵へ吸い込まれていく。睡眠の渦が俺の肉体全身を包み込む。一個の石ころになった気分で俺は意識を手放した。

 しかしすぐに俺を呼ぶものがあった。俺は幻聴だと思った。夢でも見ているのだ。誰かが俺を呼んでいる。「もう寝てしまったのか? 胡桃」

 沙月の声だった。俺は重たい瞼を持ち上げた。頭の中は奇妙に熱に侵されている。怠い身体を持ち上げて、真っ暗であまり視界がよくない中、沙月に小声で訊いた。「どうした?」

「うぅ……」沙月は二三度呻いてから零した。「眠れないのじゃ」

「なんだよ。なんで俺を起こしたんだ? 布団にずっと横になってれば自然と眠れるって」

「無理じゃ。自分でわかるんじゃ。妙に頭が冴えておってな。それで横になってもぐるぐるぐるぐる思考が堂々巡りしておるんじゃ。堂廻目眩よ」

 俺は戸惑い面喰った気分で返事した。「なんでそんな頭が冴えてるんだ。普段と何か違う事をしたのか?」例えばコーヒーを飲むとかだ。俺は高校生の頃テスト勉強中にコーヒーを飲んでいたが、飲んだ日の寝付きは格段に悪かった。世の中にはカフェインの錠剤を飲んでいる人間もいるらしいが、危険極まりない。「どうしても眠れないなら、冷蔵庫に入ってる牛乳を温めて飲むといいんじゃないかなあ」

 沙月は部屋の中で立ち上がって、何度か紐を引っ張り常夜灯を点けた。俺は少しだけ痛む目を何度か瞬きをして、布団から体を起こし彼女に指示をした。沙月は指示通り、コップに牛乳を入れて、ラップをし、電子レンジで温めている。

 一時期俺は牛乳に砂糖を入れて飲むと美味しいと気付き、愛飲していたが、体重が一気に増えたので、やめてしまった。沙月に砂糖を入れると美味いぞと教えた。沙月はシュガースティックを一本、コップに注いでスプーンで混ぜた。

 台所で沙月が飲んでいる。妙に彼女が牛乳を嚥下するゴクゴクという音が鼓膜に響いた。

 俺に礼を言って彼女は再び電気を消して横になった。俺は重苦しく痛む頭を優しく抱えるように腕を、頭を支える形に曲げて、枕に休めた。

 暫くして沙月がまたガサガサと布団の中なのか上なのかで身体をもじもじさせる音が聞こえた。俺は今度は眠らずに目を閉じているだけだった。沙月は起き上がってトイレに行った。俺は何となく気まずい気持ちだった。いちいち耳を塞ぐわけにもいかない。沙月がトイレットペーパーをからから鳴らしてから水を流し、トイレから出てきた。部屋の中を一瞬明るい光がよぎったが、沙月がパチンとトイレの電気を消して扉を閉めたら、再び闇に包まれた。

「起きとるか?」沙月が言った。「ぜんぜん眠れないんじゃけど」

 無視しようかと思ったが、可哀想に思ったので俺は返事した。「そんならもう起きてるしかないだろ。明日何があるわけでもない。俺たちには予定がないんだぜ」

「それもそうじゃが……健康的な生活が一番じゃろ? 一度崩れた生活リズムを元に戻すのは長い時間がかかるもんじゃ。妾はそういう面倒な苦労をしたくないのじゃ」

「贅沢な考え方さ」俺は立ち上がって常夜灯を点け、台所で麦茶を飲んだ。「そういう苦労をしたから、俺はお前に牛乳のアドバイスやらができるんだ。もし将来沙月が誰か小さな子供にいまの俺と同じような状況でアドバイスを求められてみろ。そこで何も教えられなきゃ尊敬は集められないのさ」

「妾は別にお主に尊敬を集中している訳じゃないのじゃが」沙月は常夜灯の下で腕を組んで部屋の隅を見ている。

「少しぐらい尊敬してくれてもいいだろ? 俺はそれなりに頑張ってるほうだ。お前もこの星に来て長いじゃないか」俺は自分の布団の上に胡坐で座り込んだ。

「まだ一か月も経っとらんじゃろ」沙月は首をぐるりと回した。パキリと音が鳴った。

「それでも、分かって来たんじゃないか? 俺がどれだけ優良物件だったかを。世の中には恐ろしい奴らがうようよいるって知り始めただろ?」

「そうじゃけど、優しい人間も大勢いるのじゃ。なんだかお主と妾の立ち位置が逆な気もするがのう。地球人を悪と見做したら、滅んでしまうのじゃぞ?」

「そんなことはどうでもいいのさ。俺は沙月に本当のことを知ってほしいまでだ。地球人の存亡を決断するためには、ちゃんと地球人について知ってもらわないと駄目だ。宇宙人にだけいい顔してやり過ごそうなんて俺は思わないね」

「そういうのを馬鹿正直というんじゃろうな」沙月は首を右左に振ってから、憐れむ様な目つきで俺を見た。「損をする生き方じゃ」

「非合理性に人間が宿ると俺は思うけどな」

沙月は呆れたように天井を仰いだ。「駄目じゃ駄目じゃ。こんな話をしていてはとても眠れん」

「じゃあ大人しく静かに布団に横になっていろよ」俺は腰を浮かして紐を引っ張り常夜灯を消した。

 沙月はわざとらしい寝息を立てた。寝息の擬態である。狂人の真似をして大路を走らば即ちそれ狂人である……だったか。眠ってるふりをしていれば、眠れると無邪気に信じているのか。俺は暗闇の中目を開いて、仰向けに寝転がり、天井を見つめた。闇に眼が慣れてきて、部屋の輪郭がぼんやりと見える。

 幼少期は幽霊が怖くて、部屋の隅に青白く恐ろしい形相の、髪が長い女の首が浮かんでいるような気がしたものだ。俺がインフルエンザに感染して発熱した時、たくさんの幻覚が見えて泣き叫んだことがあった。家族は俺が見ているものが幻覚だとわかっているから、適当に宥めるようなことをいう。「そんなものはいないんだよ」母親の言葉だ。

 しかし俺には見えていたのだ。確かに俺の腕を這い回る大きな蜘蛛が見えていたのだ。俺は両親にその蜘蛛を退治して欲しかった。

 俺にだけ見える蜘蛛は脅威だ。そんなものはいないと家族は言うが、俺の世界には存在していて、こういうことは世の中に結構あるのではないかと実感する。自分には恐ろしいものが他の人間には恐ろしくないし、存在さえしない。しかし確かに俺には恐怖の対象で、無視できないし容易には克服し得ないのだ。

 沙月がまた布団の上で暴れ始めた。擬態に失敗したのだ。眠りの王国へ繋がる扉の門番の前では無意味だったらしい。彼女は手厳しく追い返されたのだろう。「まったく、これっぽっちも、眠くないのじゃけど……」

「これは米軍式の睡眠法だが、足の先から頭のてっぺんまで順に力を入れていくんだよ。そうして力を抜くんだ。筋肉を緊張させてから弛緩させると、眠りやすくなる。そうして脱力した体で、考えるんだ。自分は今春の湖でも池でもいいが、その上に浮かんだボートの上で横になっていると。穏やかな天気の下、目を閉じて、水面の微かな揺れがボートに伝わっている」

 沙月はそれを実践しているらしい。呻くような声と微かな息が聞こえる。そんな本気で筋肉に力を入れているのか。電気がついていたらホラー映画みたいな光景が見れたかもしれない。闇に慣れてきた目で沙月の方を見たら、黒い影が布団の上で硬直したり倒れたりしている。

 彼女が全身をリラックスさせ終えて、布団の上で春のボートに揺られていると、家の外でぼつぼつと音がし始めた。それは次第に大きく、規則的になり始めた。雨が降ってきたのだ。俺は天気予報を思い出した。明日は一日中雨で、今日の早朝から降り始める予定だった。もう降り始めたのだ。

 沙月は言った。「全然穏やかじゃないのじゃ」

「仕方ないだろ。運がなかったんだよ」俺は失笑した。「筋肉は解れただろうし、のんびり大人しく布団に包まれるんだな。何も考えずに、自分の呼吸に耳を澄ませるぐらいがちょうどいいんだ。そうだな、イメージとしちゃ、頭の中に川があって、頭に浮かんだ雑念を、次々そこへ流していくような感じだ」

「雑念の不法投棄じゃな」沙月は減らず口を叩いた。「やってみるのじゃ」

 集中し始めた彼女の呼吸と夜の町に振る雨の音。俺は壁の方を向いて横になった。

 俺の日常的な憂鬱はすべて、俺が人生の大切な儀式に参加しなかったことで悪霊のように憑りついたものじゃないだろうか。俺は成人式に参加しなかった。先日知らせがきた高校の同窓会にも不参加だった。大学だって中退した。

 普通の人間なら経験するようなことを俺はやらずに生きてきた。だから俺は健常な精神を育むことができなかったのではないか。彼女はずっといたのに、普通の恋愛をしなかった。友達が彼女と家で性的な初体験をしたと俺に自慢してきたのを聞きながら、俺はそれを卑しんでいた。しかし人間が普通の人生を送るためには、そういう体験が必ず必要になってくる。処女懐胎など人類の歴史上、たった一人しか成し遂げていないのだ。

 いま初鹿野は何をやっているのだろう。あいつとは喧嘩別れのようになってしまった。会わない時間が大きければ大きいほど溝が深まる気がした。幼馴染で、同じ町……というか村で育った。一緒に過ごした時間は家族よりも長いかもしれない。確かな絆があった。しかし恋愛という要素がそのバランスを崩した。

 普通に生きたいなら、社会的な足並みを揃えなければならない。俺は自分自身のことを天使みたいに育てようとしたのだろう。そうして落下したのだ。……

 暗い部屋の中で横になって、机の上に置きっぱなしのスマホを手に取った。沙月の入眠を妨害しないように、身体を壁にして画面を見た。俺は初鹿野とのメッセージ画面を開いた。去年のお互いの誕生日にメッセージを交わして終わっている。

 いま彼女にメッセージを送るのは、未練がましく、女々しい気がして俺は指を止めた。しかしそれは誰の感想なんだ。未練とか女々しいとか、世間一般の視点であって、メッセージは俺と初鹿野、二人だけの秘密世界じゃないか。

 別にいまからまた関係性を戻そうとか言う話じゃない。昔みたいに、俺たちが共通の理解者として気軽に会話できる仲に戻りたかった。俺は最近強い孤独に苛まれてる。それは沙月が家にやってきて、人と交流する楽しさを俺にもう一度味わわせたからだ。禁忌の美味を俺に思い出させた。だから俺は自家中毒を起こしたのだ。

 じゃあ今からやろうとしていることは、病気なんじゃないのか。初鹿野にメッセージを送るべきじゃないんじゃないのか。向こうはとっくに新しい彼氏や交流関係を築いて、俺のことなんてとうに忘れているかもしれない。それに、俺との記憶が彼女にとっては嫌な物として堅く封印されているかもしれない。

 俺はスマホを机の上に戻した。こういう思考回路が続く限り俺は先へは進めない気がする。しかし先とはどこだ。今更俺は何を望んでいるんだ。死のうとしていた人間が、それに今だって死にたいと思っている人間が、なにを宣っているんだ?

「妾がこの星に来たのは」沙月は唐突に暗闇の向こうから話し始めた。「罰という意味もある。妾の住んでいた星じゃあ、この星のような文明は一種の穢れなんじゃ。だから調査員になることは、不名誉なことなんじゃ。しかし妾は調査員になれてよかったと思っておる。この星の文化は好きじゃ。勿論歓迎できないものもあるが、それでもそういうものを含めて築かれた文明じゃ。尊敬しておる」

 雨の音は次第に弱まってきた。小雨が一日中続くだろう。

「お主と出会えたのはこれ以上ない幸運じゃった。もしあの山にお主がおらず、一人で妾が宇宙船から脱出して降り立ったとしたら、どうなっておったんじゃろう。それは妾にもわからん。もしかしたらお主の言うように警察だとか自衛隊とやらに保護されて、それなりに手厚く世話されたかもしれんが、今みたいな自由はなかったと思うのじゃ。動物園に行くこともなかったし、回転寿司を食うこともなかったじゃろう。少なくとも、眠れない妾の面倒を見てくれる人はいなかったじゃろう。そうして、妾はいまとは違う感想を人類に抱いたじゃろう。それは決して悪印象というものじゃなかろうが、いまのような広いものでもなかろう。妾の観念じゃ、いま抱いてる感想の方が、ずっと尊い」

「どうしたんだよ、急に」俺は窓の外に降っているのは雨ではなく、センチメンタリズムの涙ではないかと思った。「なにが云いたいんだよ」

「だから妾は、お主に感謝しておる」沙月は真っ暗な部屋の隅から言った。「お主には、死なないでほしい」

 それだけ言うと沙月は口を閉じた。そうして二度と喋らなかった。五分も経たないうちに寝息が聞こえ始めた。本物の寝息だった。俺は布団の上で寝返りを打った。

 もしこの世界に神様がいるならば、俺に少しでも優しさを向けてくれた人たちをみんな、幸せにしてあげてほしい。彼らを不幸から守ってあげてほしい。心の底からそう思った。

 机の上に置いてあるスマホを手に取って、初鹿野にメッセージを送った。

『夜分遅くにすみません。眠れないんですけどどうしたらいいですか』

 十秒で既読がついて、十秒で返信が届いた。

『牛乳を温めて飲んだら?』

 俺は苦笑して目を閉じた。痛快な気分だった。

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