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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第十五話 水族館に行きたいんじゃ!

 本当に、完璧な絶望は存在しないのか? 人間を一直線に死へと追いやるような絶望。じわじわと精神を蝕んでいく疾病のような絶望。世の中にはいろんな種類の絶望があり、それらは完璧ではないのだろうか。完璧な絶望の定義が定まっていないから存在していないように見えるのではないか。

 キルケゴールの謂う『死に至る病』とは即ち絶望である。俺を葦鹿山という絞首台へ連れて行ったのも絶望だ。絶望とは家族以上に長い時間を共に過ごしてきた。しかし俺は絶望について未だに詳しいことを知らない。

 前に考えた完璧な正三角形の不在が、完璧な絶望の不在と繋がっているのだろうか。しかし我々は完璧な正三角形を想像することは出来るが、完璧な絶望についてはそのしっぽの形すら知らない。想像できないのである。これは絶望が芸術分野の存在であることを表しているからではないだろうか。絶望とは神様の描く芸術なのである。完璧な芸術は存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。これは結局、デレク・ハートフィールドの正しさを保証する結果となった。

「こやつらは」沙月が水槽に顔を近づけて云った。「生きておるんかのう?」

 俺たちは電車を乗り継いで長い旅路の果てに水族館へ来ていた。薄暗い廊下に、壁に埋め込まれ、綺麗なライトアップが施された水槽。その中でぷかぷかと揺蕩うクラゲの群れ。クラゲは半透明な身体を水の流れに逆らわず、浮かんでいる。

「ベニクラゲってやつは不老不死らしいぜ。つまりどんな生物よりも、生きてるんじゃないかな」俺はピンク色の照明によってピンク色に染まったクラゲの頭を見ていた。頭からは触手が生えている。いつ見ても幻想的で、不気味な姿だ。もし海に潜って、クラゲの群れに遭遇したらと想像すると鳥肌が立つ。そもそも俺は海が苦手だ。

「なあ、沙月。お前は海に行きたいと言ってたが、どうする。ここを見終わって少し歩いたら案外すぐ行けるぞ」

「今日はいいのじゃ。こういうのはもったいぶっておくのが大事じゃ。人生は長い。生き急ぐ真似は必要ないのじゃ」

 人生は長い? 俺は沙月の喋った凡庸な死生観と綺麗に衝突した。人生は長いのか?

「人生は長いのか?」堪らず俺は口にした。クラゲが言うならわかる。人生は長いのだろう。だが人間の人生は本当に長いのか?「お前は本当にそう思うのか?」

「そりゃ長いじゃろう」沙月は至極当然と言った様子で言い切った。彼女はクラゲの水槽から俺へ視線を投げた。彼女の丸い宝石のような瞳には俺の物憂げな顔が凝縮されて映っている。「お主が云いたいこともわかる。考えていることも共感できる。じゃけど人生は長いよ。長くない人生も存在するじゃろうが、それは、ポケットに小銭が全然入ってないからこの世に小銭は全然ないというようなものじゃないじゃろうか?」

 人生は長いなんて、達観ぶった人間の戯言じゃないか。俺はそう言いたかった。だが、この場所にそんな言葉は相応しくないのだ。俺は地獄で生きているような気持ちで物事を考えるが、水族館に来ている人間は、さも自分は天国へ行く資格があると本気で信じている者たちばかりなのである。

 魚たちは綺麗だった。海の中で色とりどりの鱗を光らせて泳ぎ回っている。その動きは不規則に見えるが、きっと規則があるのだろう。神様の人智を超えた複雑なプログラミングが正常に動作して、水槽の中の彼らは俺の視線を奪うのだ。

 沙月は水槽に顔を押し付けんばかりだった。水槽から零れる淡い光を顔面に受けて彼女は水と一体化するように透き通ってきた。遠巻きに見れば、彼女はまるで人魚姫だった。魔女と契約して足を得た人魚姫が、再び魚の世界に憧れ始めているといった感じだ。

 水槽の前には様々な魚の説明があるが、片仮名なので覚えられない。頑張って覚えたところで一週間後にはすべて泡のように忘れてしまうのである。

 水槽の中には岩や海藻や砂が配置されている。よく考えられているのだろう。岩の隙間に大きな魚がむっつりと隠れている。俺はこいつと気が合いそうだと思って暫く睨めっこしている。小さな子供が水槽の前で手を開いたり閉じたりしている。俺の腰ぐらいの背丈の子供だ。彼は魚を脅かして、動かそうとしているのだろう。しかし水槽の中の黄色い鱗の魚は砂に身体を乗せて、子供を見ているのか見ていないのか、微動だにしない。

 沙月はマンボウの泳ぐ水槽の前で立ち止まった。ネットの世界ではマンボウは極度の虚弱という噂が広がっているが、大半は嘘である。高校生の頃、初鹿野と水族館にデートで来て教えてもらった。彼女は水槽を見上げながら言った。「マンボウは結構泳ぐの速いんだよ」

 沙月の目線の先では尾鰭を動かさず、静かにゆっくりと、慣性のままに水槽を横切るマンボウの大きな灰色の身体がある。水槽の前のカップルの男が言った。「マンボウってすぐ死ぬんだよ。ほぼ真っ直ぐにしか動けないらしいよ」

 彼の言った傍からマンボウは優雅な動きで泳ぐ向きを変えた。女の方が彼氏を小突いた。「えー嘘じゃん。いまくるってしたよ。くるって」

 人間が檻に入れられて飼育されたら、それを見に来た人も言うだろう。人間って虚弱なんだよ。少し仲間外れにされただけで、死んじゃうんだ。

 沙月は珊瑚礁の周りを泳ぐ小さな魚の群れを指さして言った。「可愛いのう。飼ってみたいのう」

「こういう魚は飼育するのが滅茶苦茶大変だし金がかかるんだよ。水族館ってのはどこも恒常的にお金に困ってるらしいな。そりゃそうかもしれないが」

「妾よりお金がかかるかのう?」

「さあね。お前も魚も、自分で一応金を稼いでるわけだからな。どうだろうな」

 子供の頃、父親と水族館に行った。無口な父親だった。大勢の人間が水槽を囲んで眺めるイルカショーを、並んで座って、黙って見た。イルカが音楽に合わせて水面から勢いよくジャンプする。水飛沫が上がり、観客から楽しそうな悲鳴があがる。父親は顔色変えずにイルカを見ていた。

 感想も言い合わず、帰りのエスカレーターに乗った。俺は子供で歩幅も狭く、父親の背中に着いていくので精いっぱいだった。父親はお土産屋に入っていって、灰色のイルカのぬいぐるみを買ってくれた。俺はそれを子供の頃はぼろぼろに変色して中に詰まった綿が全部なくなっても大切にした。母親が何度も裁縫セットで直してくれたが、流石に駄目になり、イルカは物置へ仕舞われた。いまもきっと実家の屋根裏にあるかもしれない。もう捨てられてしまっただろうか。……

 俺が追憶に浸っていると、沙月が随分向こうの水槽の前から手を振ってきた。俺は早足に向かった。彼女は通路の先を指さして興奮気味に言った。「トンネルがあるみたいじゃぞ」

 それは上下左右がガラス張りになった、水槽の中を通るトンネルだった。俺は懐かしい気持ちで沙月と一緒に足を踏み入れた。

 夢の中にいるような気分を味わえた。小さな魚の群れが足元を通り抜け、海亀が頭上を泳いでいく。大きなエイがこちらを揶揄うように、目の先で腹を見せつけてくる。

 水面がきらきら光り、その光が水槽の底の砂に反射してゆらゆらと、光の模様を揺らしている。写真を撮る人々の中で、沙月は自分の眼を大きく見開いて、今見えている水槽の景色、全部を吸収しようとしているみたいだった。

 高校生になって、スマホを買ってもらってから暫くの期間、俺はどこへ行っても写真を撮るのに夢中だった。けれどあの頃撮った写真を見返すことはなかったし、俺は写真に夢中だったという記憶以外特に覚えていないのだ。初鹿野とあの期間も、色々な所へ行ったが、結局俺は写真を撮ってばかりいて、彼女に対して十分な気遣いさえ出来ていなかった気がする。

 だからといって写真は悪だとは思わないが、俺の場合は写真を撮る事よりも、自分の五感を活用して今の瞬間を味わった方が、人生にとって有益だというのは確かだった。

 少しだけ沙月の生き方を羨ましく思いながら、俺はトンネル水槽を通り抜けた。

 アザラシやアシカ、ペンギンのコーナーを見た。飼育員に大切に扱われているのだ。彼らはかなり懐いていて、飼育員に甘える仕草をして、客に可愛い可愛いと言われている。沙月と一緒にショーを見ている最中、俺はこの空間で最も不幸なのは自分ではないかと思った。小魚を食べるアシカが俺を軽蔑しているような錯覚をした。しかしアシカは俺の存在さえ知らないのだ。なんてみっともない独り相撲だろう。拍手する沙月の掌の音が俺の中の委縮しきった臆病なな自尊心をいちいち驚かせる。

 自由行動を言い渡し、所定の時間にお土産屋の前のベンチに集合する旨を伝え、俺と沙月はサメの水槽の前で別れた。俺はサメの水槽の前で暫く呆然とその恐ろしい顔を見つめていた。サメは常に獲物を狙っているような目をしている。彼らは太古の地球から生息しているのだ。生存競争が今の時代よりもずっと熾烈だった頃から生き残っているのだ。

 俺はのろのろと様々な水槽の前を歩いて行った。水槽の中の魚が俺を見ている。俺が魚を見ているんじゃない。魚が俺を観察しているんだ。

 オレンジ色の光に覆われた部屋に入った。そこはお触りコーナーだった。俺は小さな水槽に入っているヒトデを、服の袖を捲って触ってみた。生温い水の感触に、ヒトデの堅いざらざらとした感触。疲弊した神経を癒すような触り心地だった。俺は長い間、他者と肌で触れ合っていない。ヒトデと触れ合っただけでこんな、涙が出そうな気持になるのだ。

 込み上げる熱を喉を閉めて我慢しながら、俺は自販機の横のベンチに座った。観葉植物の植わった鉢植えが傍に置いてある。俺の視界を大勢の人間がコミュニケーションしながら横切っていく。不審そうに俺の顔を覗き見て、すぐに立ち去っていく人もいる。こんなに人が沢山いるのに、どうして俺は孤独なんだ。どうして俺はこんなにも死にたいって思ってしまうんだ。

 百回人生を繰り返せたとしても、俺は完璧な人生を歩める気がしない。死ぬときには必ず未練があるだろうし、百回の内の三分の一程は自殺で終わりそうな気がした。少なくとも、今歩んでいる唯一の人生は自殺で終わるのだ。

 いい人生だったと心の底から思ってみたい。愛に満ちた人生を送ってみたい。誰かに必要とされる人間になりたい。優しさに包まれて眠りたい。

 それらの可能性を手放したのは俺だ。自ら絶望の海へ身を投げたのだ。俺の周囲の人間は俺を止めたのだ。だが、俺は彼らの親切心や愛情や気遣いを拒んだ。そうして愚かで未成熟な自分を過保護にしすぎたのだ。自分を突き放す強さが俺にはなかった。今もそうだ。子供の頃の臆病で、一人で泣いてばかりいた頃の自分を愛しすぎている。あの頃の俺の味方は俺だけだった。今もそうだ。だから俺はあの哀れな独りぼっちの少年を捨てられないのだ。

 人間が人間を傷つけるのは罪だが、サメがその白い鋭利な牙で人間を傷つけるのは、彼らにとっては罪では有り得ないのだ。俺はベンチで一息つきながら思った。罪なんて、本当に存在するのだろうか?……

 約束の時間から少しだけ遅れて沙月がベンチに来た。俺を見つけて嬉しそうに笑みを浮かべて言った。「この世界には実に様々な生き物がおるんじゃなあ」

「お前の生まれた星にはこんなにいなかったのか?」

「おらなかったのじゃ」沙月は寂しそうに言った。「妾は人しか見たことがないのじゃ」

「そうか……」俺は立ち上がって、お土産屋へ向かおうとジェスチュアをした。「動物園も水族館も回ったし、今度は昆虫館かね?」

 お土産屋で沙月は恐ろしくでかいサメのぬいぐるみを欲しがったが、家へ持って帰る方法もなければ置く場所も困るから断った。沙月は大きなサメの顔を掌で名残惜しそうにポンポンと叩いて別れた。サメのぬいぐるみは表情一つ変えず、ビーズの目玉に世界の光を灯している。

 俺はこの水族館限定のクッキーやTシャツを見ていた。沙月が持ってきたのは小さなサメのぬいぐるみだった。俺は溜め息を吐いて、それを買うことに決めた。

 買い物を終えて俺たちは帰途に就いた。太陽の下に出ると微かに磯の香りがする。

「なあ、本当に海に行かなくていいのか?」

 沙月は幾何学な形をした銀色のオブジェに寄りかかって、夕陽に照らされている。

「妾は海に憧れすぎておる。もう少し時間が必要じゃ」

 俺は片手に持った袋を見下ろした。中にはお土産が入っていて、サメのぬいぐるみもいる。「そうか。じゃあ帰るか」

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