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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第十四話 船生歩足という女

 俺の発言は会場を静まらせた。司会の男は流石に気が利く。数秒後口を開いた。「どういう事でしょう?」

「今さっき見せてもらった稚拙な手品の種が分かったという事です」

 俺は態と過激な調子で言った。こういうアウェイの場では少しでも凶暴な言葉遣いをしなければ数の暴力で黙殺されるからである。誰かが俺に構う必要があった。

「一体誰なんだね、君は?」最前列の男が立ち上がって喋った。「君のような若い軽佻浮薄な輩が混じっていたとはね」

「この場にいるみなさんは先ほどのペテンが見抜けないんですか。見抜けた人はいませんか? いないんですね? ならこの空間にいる全員が僕よりずっと間抜けの能無しですよ」

 今の台詞は随分効いたらしく、怒声を上げて前の方に座っていた中年男が立ち上がった。

「失礼じゃないかね。君はまだ若いから前までの発言は目を瞑ってもいいが、今のは訂正したまえ」

「ならまず先ほどのペテンの種を説明してくださいよ。皆さんが、自分はペテンを見抜けなかった阿呆ですと認めるなら、僕が解説します」

 俺は周囲の人間を挑発している。実際、この会場にいる人間は殆どが俺より頭がいい人のはずだ。だから絶対に考えればすぐに幾つかの方法を思いつくはずだ。しかし彼ら彼女らは、船生歩足という美少女超能力者に夢中になっていて、彼女を担ぎ上げるので必死なのだ。だからここで俺の挑発に乗ることは、裏切りになる。俺としては彼らに裏切ってほしかった。大切なことがあるはずだ。女の子に夢中になってないで、もっとちゃんと彼女を導いてあげるべきなのだ。

 もし仮に数年後、その頃の船生よりも若い美少女が超能力者として現れたら、今この会場にいる人間の大勢がそっちへ鞍替えするだろう。そうなったら、船生を誰が世話するのだろう。超能力者として一生生きていけるわけでもないのだ。

 素直にアイドルでもやっていればよかったのにな。俺は舞台で唖然とする船生歩足の顔を見据えた。「本当にいないんですか? とっくに、彼女が超能力者じゃないことぐらい、分かってるんじゃないですか。手品師として売り出すならまだしも、これで超能力者は有り得ませんよ」

 俺は別に、汚い大人から船生を救うだとか、俺の正義に従ってこの腐った商売を打ち壊すとか、そういう気はない。単純にこの空気が気に入らないから半分は衝動的に行動しているのだ。だから俺のいまの行動が誰かの幸せに通じるとは思わないし、道徳的に正しいとも思わない。多分世間の殆どの人間は俺の横暴を非難するし、その非難にはちゃんと筋が通っている。俺は反論することも叶わないだろう。

 それでも俺は自分のエゴを貫くことに決めたのだ。この意志力が俺を夜の山に送ったし、初鹿野の誘惑も断ったし、あの糞野郎をぶん殴れたのだ。それに、沙月を家に連れ帰ったのも、このエゴが原動力だ。これが俺を形作っている。良い面も悪い面も含めて、俺の人生に個性を与えているのだ。だから、俺が俺であるために、船生には犠牲になってもらう。この実験会を俺のエゴというブルドーザーで隅から隅まで均してやる。

「誰もいないなら話しますよ。まず最初のカードを使った実験ですが、あれはいくらでも細工が出来る。例えばカードの裏面に微かな傷や汚れをつけたりね」

「ですからあれは新品でそんなものはないと説明したでしょう。カードを実際に見せもしました」視界の男が不機嫌そうに言う。

「僕は例として挙げたまでです」俺は舞台の方へ歩いていく。「新品のカードならカードの並びは固定されている筈だ。カードを並べたのは確か係員でしたね。その人と協力した可能性は十分にある」

「そんなの証明しようがないじゃないか。悪魔の証明だ」パイプ椅子から立ち上がった頭頂部の毛が薄い男が云った。

「そうです。なので最初の実験は意味がないことがわかりますね?」

 船生を見ると、椅子に座った膝の上で拳を握っている。申し訳ない気持ちが湧くが、ここで容赦したら、それこそ意味がない。俺は俺なりに勇気を出して今ここに立って、この会場にいるどうしようもない男たちと戦ってるんだぞ。結局カギを握るのは船生だ。彼女が自分は超能力者ではないことを認めれば終わるし、自分が超能力者だという主張を押し通しても、別にいいんだ。答えにはなる。俺は実験が始まってからのうだうだした馴れ合いみたいな空気が嫌いだったんだ。やるなら徹底的にやるべきだ。

「次の実験ですが、これも幾らでも細工が出来る。別室へ行った教授がグルの可能性もある」

「なんだと!」教授がパイプ椅子から立ち上がり、俺へ近づいてきた。「私を侮辱するのか?」

「可能性の話をしただけです。なぜ怒るんです? 負い目があるんですか?」いい加減俺も苦しくなってきた。俺は今この部屋中から敵意を向けられているのだ。「今ではペンの中の機械が、そのペンが何を描いたのかデータを取れるものもあるんです。なので、それを係員が船生さんに教えたのかもしれない」

「あれは普通のペンです」部屋の隅に立っている係員が落ち着いて答えた。会場から失笑が漏れる。船生は黙って俺を見ている。

「証明の仕様がないでしょう。ペンはもう誰かが回収して廃棄しているかもしれません。それにペンでなく、机の方かもしれない。網を通して伝わる筆圧を感知して、データを送る機能があるのかも」

「しつこいぞ」客席の中からヤジが飛ぶ。「お前の言ってることは全部でたらめだ。何でもありじゃないか」

「なんでもありな時代なんですよ。みなさんだって幾らでも知ってるでしょう。今は手品師もみんな科学を駆使して奇跡を演出してるんですよ。やろうと思えば簡単なテレパシーだって可能なんです。だから少なくとも、超能力の実験、検証をするのは、こんな場所ではなく、それにもっと限られた人数で行うべきなんですよ。こんな場所じゃ自宅で期末試験を受けているようなものです」

 会場に静寂が降りた。俺は、損な役回りをしている。俺の母さんに云わせれば、こんなことはしなくていいのだ。間違っていると思っても、無視して見て見ぬふりして通り過ぎるのが賢明な生き方なのだ。俺がやってるのは、毎日神社に通って高額な賽銭をしているようなもので、賢くない。報われないし誰も俺を褒めはしないのだ。憐れんだり馬鹿にしたり軽蔑したりするだけだ。俺の生き様は自己愛に満ちた被虐趣味的なものじゃないか。

 こんなのは放っておけばいいのだ。適当に実験会に付き合って、さっさと帰宅すれば、それだけで金がもらえただろう。それが頭のいいやつの生き方ってもんだ。けれど俺は自分を愛しているし誇りに思っている。死んだほうがましだとこの世界に唾を吐いてみっともなく春の夜の山で首を吊ろうとした自分の精神を信頼している。だから俺は立ち上がったのだ。

「いいでしょう」船生が口を開いた。「超能力を証明します」

 そう言って席から立ち上がった船生は係員からマイクを受け取った。

「私は無から有を生み出すことが出来ます。この男の人に証人になってもらいます」

 そう言って船生は俺を指さした。戸惑う俺に構わず彼女はてきぱきと指示した。

「すみませんが、コップを用意してくれますか」係員に言った。「それと、別室の鍵も渡してください。ここはかなり熱が溜まっていて、とてもじゃないですが利用には向いていません。私とこの人、二人きりで別室に入って、超能力を使います」

 係員が硝子のコップを持ってきた。船生はそれを体の前に持った。

「このコップに何もないところから葡萄酒を出して見せます。そうしたら皆さん、私の力が本物の超能力だと信じますね? どうですか、藤堂さん」

 俺は彼女が俺の名字をはっきり告げたことにそこまで驚かなかった。参加者の名簿があるのだ。俺の妹の名前を当てられたら大したもんだが、そんなことは今はいい。

「葡萄酒を出して見せるって? それだって、幾らでも方法はある。科学の力で解説可能ですよ」俺は言った。「マジシャンが空のコップに手で蓋をして、その中を水で満たすと、観客は驚きますよね? このマジックの種を知ってますか? 実は手に細い管を通してあるんです。そして服の下に水の入った袋を隠しておくんです。まさか観客はマジシャンが人体を改造しているとは思わない。だから、何かもっと単純な、思考の向きを変えれば素人でもわかるような明快な種を探してしまう。それで見つからないから凄いと思う。奇跡だと信じる。……大抵のマジックっていうのは信じられないほど手が込んでるし、金がかかってる。派手なマジックほど、壮大な仕掛けがあるもので、閃き問題みたいなのじゃない」

「何が云いたいんですか」

「もしかしたらあなたは服の中に葡萄酒を隠し持っている可能性があるし、手にチューブが通っている可能性もある」

「じゃあ確認してください」船生はそう言って俺に少しだけ赤みの差した掌を見せた。「別室の中でならあなたの前で裸になって身体検査だって受けますよ」

 ざわめく会場の舞台の上で俺はたじろいだ。「しかしですね、例えば別室に入ったら、怖い男の人が待っていて、俺を散々脅迫して言いなりにするかもしれない。あなたが突然豹変して、私の大切なものを人質にするかもしれない」

「私が思うに」船生は俺の眼を真正面から見て言った。「あなたはそんな力に屈するような人には見えません」

 屈するに決まってるだろ……。俺は泣きたい気持ちで胸の中で呟いた。金を持っている連中が少し本気を出せば俺の実家の住所ぐらいわかるし、俺の人生ぐらい何とでもできるのである。もし船生の背後に俺が想像している以上に大きな組織が控えていたり、計画が立てられていたとしたら? 船生は金になる。YouTubeでも人気だしテレビでも人気だ。商才のある人間が上手に彼女を利用すれば、食うに困らない金を簡単に稼げるはずだ。

 本当にあるのかは知らないが、もしあったとしたらば、俺は今その計画を壊そうとしていることになる。脅迫だって可笑しなことではない。いうなれば、絶賛売り出し中の女優やアイドルと結婚しようとしているようなものなのだ。その子の背後に恐ろしい事務所があれば、死に物狂いで俺を消しに来るだろう。

「わかったよ」俺は項垂れた。「葡萄酒が飲みたくなってきた」

 俺たちは係員に誘導されて別室に向かった。司会の男が俺の背中を軽く叩いて「なかなか面白かったですよ」と言った。爽やかな男だ。俺は自分が完敗したのだと悟った。

 別室は物置のような場所で、狭かった。壁に沿って設置された棚には、ファイルや小道具類などが雑然と置かれている。部屋の中央に窮屈そうに置かれた机と椅子。天井付近に小さな窓がある。よく見たら開く大きさが決まっているタイプの窓で、大人が通り抜けできるような大きさではない。通れる人間は、せいぜい生後すぐの赤子ぐらいだ。

 入り口の扉を施錠して、俺たちはそれぞれ椅子に座った。机の上にはコップが置かれていて、歪曲して部屋の光が映っている。俺は溜め息を吐いた。

「どういうつもりなんですか」

「敬語はやめにしましょう」船生が云った。「私の方こそ言いたいわ。どういうつもりなの?」

 俺たちは似た者同士なのかもしれない。今日初めて会ったが、案外出会い方が違ったら、意気投合できそうな感じがした。唯の錯覚かもしれないが。

「俺はあの空気が嫌になったんだ。あんたは感じないのか? それともおっさんたちに煽てられていい気分になってたのか?」

「そんなんじゃないわよ。私だって思うところはたくさんあるけれど、あれは一つの形なのよ。あなたにはわからないでしょうけどね」

「わかろうと思えばわかるさ。だが認めたくないね。あんたには気の毒だが、運の尽きだと思ってくれ。俺が実験会に来てしまったことが運の尽きなんだ」

「本当ね。全部順調だったのに。あの人たちはね、若い女の子にお金を使うことが生活の唯一の刺激であり喜びなのよ。ファンクラブみたいなもの。私にはお金が必要なの。別に高い服買ったり、高級な料理店へ通うためじゃないわ。詳しい理由なんてどうだっていいじゃない。今の時代誰だってお金は稼ぎたいものじゃない? でもまあお金の問題はそれなりに解決してきたのよ。色々あったし、それに私だって長い間活動してきたから」

 船生はコップを手で包むように持って、角度を変えて眺めている。

「普通に働いたって限度があるわ。私みたいな貧乏人が普通に働いてお金持ちになれるのは一体どれぐらいの確率なの? どれくらいの年月が必要なの? 待ってられないわ。人生で一番重要な時間を労働に費やしたくない。だから私は超能力を利用することにした。私には超能力があるから、それを上手いこと使えば稼げると思った。今は便利な時代だわ。経済だとか商業だとかに詳しくなくても、動画を投稿するだけで一攫千金が狙えるんだもの」

 そういう生き様、俺は好きじゃない。そう思ったところで、そんなのは他人へ届ける感情じゃないのだ。好きじゃないからなんだっていうんだ。俺は金より死を選ぶ美学の信者なのだ。世の中には自分の身体を資本として売ってでも、金を稼いで毎日を生きて行こうとする人が大勢いるのだ。そういう人らが間違っている訳がない。じゃあ俺が間違っているのか? それも違うと信じたい。

「あなたにも意地があるんでしょうけど、お願いだから私、いえ、私たちのことは放っておいて。私たちは共存してるの。例え見せかけだけの平和でもね。私だって鈍感じゃないから、向こうがどういう感情で私を応援しているかはわかってるつもり。それでも彼らだって別に悪い人じゃないし、悪いことをやってるわけでもない。あなたは勇気を出してあの場で声を上げたわ。私だって超能力者としてのプライドがある。これは一個の試練だと思う事にする。神様が私の覚悟を試しているのね。だから私はこうするわ」

 そう言って彼女はコップを足元の方へ移動させた。俺はギョッとしたが、どうしようもなかった。動けずにいる俺の眼の先で、船生は椅子を引いて足元で何かしている。

「なあ、そんなにまでして」俺は独り言のように言った。「いや、どうしてそんなにまでするんだ?」

「私のお母さんは超能力者に不幸にされたの」船生は滔滔と語った。「私はその超能力者の娘なの。だから私に流れている血は有効活用したほうがいいのよ。腐らせておくなんて勿体ないわ。お母さんはいつも寝てるの。部屋に籠ってね。お金も全然ないわ。水道が止められたこともあるのよ。弟は私とは父親が違うわ。あの子には幸せになってほしいのよ。私とは違ってね。できるだけ普通の生活を過ごさせてあげたい。友達と放課後に遊んだりね。だからお金が必要なの。私は超能力者が嫌いだけど、超能力は好き」

 どうやら俺は間違ったらしい。椅子から天井を見上ると、窓のサッシに溜まった埃が挿し込む日差しにキラキラしているのが見えた。俺は椅子の向きを反対にして、耳を塞いで目を閉じた。


 俺たちは別室から出て、会場に戻った。幾人かは帰ってしまったようだが、司会が頑張って場を保っていた。船生がコップを胸の前に持って会場に入ると、どよめきと歓声が起きた。コップには赤紫色の澄んだ液体が半分ほど入っている。俺は舞台の上で、掌を上に挙げて降参のポーズを見せた。一番奥の席に座っている沙月が驚いたような顔を見せた。

「どうやら」俺はマイク片手に言った。「僕が間違っていたみたいです。確かに彼女は何もない場所から葡萄酒を出してみせた。これは認めざるを得ません」

 船生が机に置いたコップを俺は掴んだ。葡萄酒が揺れる。俺はそれを飲んだ。船生は椅子に座ろうとした姿勢で固まっていた。俺はコップから口を離した。

「それに安物の葡萄酒じゃないな。深い風味がある。船生さんは超能力者として活動するより、酒造に精を出したほうが、いいんじゃないかなあ?」

 俺は自分の席へ戻った。その後は円滑に進んだ。俺がいなければ世界は平和なのだと思い知らされる。俺は大人しく後ろの席で超能力ショーを眺めていた。沙月が俺に種を聞いた時は軽く説明した。説明しながら、俺は自分が無粋の極みにいると自覚した。俺が最初に裁くべきは俺自身だろう。しかしそれに失敗したから、八つ当たりしていたんじゃないのか?

 実験会が終わる頃には俺は疲弊しきっていた。参加者は次々、船生と握手して解散していく。俺と沙月は帰ろうとした。俺は船生に呼び止められた。沙月にお金を渡して、購買で好きなもん買って待ってろと告げた。俺は船生に連れられて彼女の控室に案内された。

 控室に入るや否や、船生が云った。「どうして葡萄酒を飲んだの?」

「いや、あれをもし専門的なところに提出されたら困るだろ?」

「……」船生は何か言いたげな上目遣いで俺を睨んだ。「やっぱりあなたは信じていないのね?」

「なにをだよ?」

「あなたは信じないかもしれないけれど……」歩足は興奮したように言った。「私は本物の超能力者なのよ。あの密室でだってあなたがどう思ってるかは知らないけど、私はちゃんと無から葡萄酒を取り出したの。あなたが勝手な勘違いをして耳を塞いで目を瞑っている間にね」

 諦めの悪いやつだな。俺はそう思ったが、適当に相槌を打った。「そうか。わかったよ」

「全然わかってないわ。あなたに私が超能力者だって、認めさせてあげる」

「どうやって?」俺は流石に問うた。「今さっきあの場所で起きたことは、すべて俺が解き明かしてんだ。もうこれ以上はやめておけよ。どうにもならないぜ。終わったことじゃないか」

「いいから、なにか好きな単語を頭に思い浮かべなさい。それを当てるわ。単語の種類の指定はしない。好きな、なんでもいい。好きな単語を思い浮かべなさい」

 船生は瞳を潤ませていった。俺は彼女の剣幕に気圧されて頷いた。「わかったよ。本当に何でもいいんだな?」

 誰か彼女の暴走を止めてやれ。船生は和服の肩を怒らせて、俺の両目を真っ直ぐ見つめていた。一発逆転を狙っているんだ。ここで俺の考えた単語を的中させれば、少なくとも俺一人を真面に屈服させたと自分で納得できる。防衛機制ってやつだな。……

 いくつかの案が浮かんだ。普通の単語ではなく、例えば俺が中学生の頃に創作したオリジナルの単語なんかでもいい。妄想ノートにこっそり描いたオリジナルの漫画の主人公の名前でもいいのだ。

 しかしそんな単語を考えるのはフェアじゃないんじゃないか。ただでさえ、いま船生は広大な言葉の砂漠の中で俺が印をつけた一粒の砂を見つける気でいるのだ。そもそも砂漠にそんな言葉はなく、俺がこっそり自分のポケットの中に仕舞い込んでいたら、船生は正解の存在しない砂漠を永遠に彷徨う事になる。

 だが、ここで甘さを見せて俺が『チョコレート』だとか『チワワ』だとかにしたら、それこそ神様の気紛れで的中する可能性もある。俺は別に船生と勝負している訳ではない。これが単純な遊戯ならば、船生が的中させても素直に祝福できるし、感嘆するのだ。しかしこの場で船生が仮に的中させてしまったら、船生を嘘に塗れた超能力者の森へ更に追い込むことになりかねない。勝手に進むならまだしも、俺が後押しするのは困る。

 超能力者として生きていくことを、もう俺は否定しないが、自分が超能力者であるという幻覚を見始めたら危険すぎる。船生にそうはなってほしくない。彼女はまだ幼く、自身の超能力に誇りを持っているのだ。だから俺にいま、勝てるはずのない勝負を仕掛けている。

 仕方ない。認めよう、これは勝負だと。絶対に勝たせてはいけない。なら俺は向こうが的中できないだろう答えをちゃんと考えるべきだ。そもそも単語というのを辞めよう。じゃあ文章か? それも違う。いいや、肩の力を抜くんだ。俺は頭の隅に輝く一つのタイトルを思い浮かべた。それは、俺がこれまでの人生の中で最も面白いと感じたアダルトビデオのタイトルだった。これでいこう。女が当てられるものじゃない。

 俺はてっきり、ここから水平思考クイズのように、船生が俺に幾つかの質問をして、それに対する俺の答えから、単語を導き出すものだと思っていた。しかし、俺が頭の中にアダルトビデオのタイトルを想像しながら「いいぞ。今考えてる」というと、みるみる整った顔を紅潮させた。俺は嫌な予感がした。

「私にはわかったわ」

船生が真っ赤な顔で言った。

「あなたがいま、考えている単語は────」


 既に日は沈んでいた。西の空の端が紫色に染まっている。頭上は既に暗い。一番星が月から少し離れた場所に光っている。俺と沙月は駅から、のんびり家路を歩いていた。

「面白かったのう。しかし一番面白かったのはお主が船生の小便を一気飲みする所じゃったな」沙月が笑った。「結局あやつはペテン師じゃったということかのう」

「いや、それがそうでもないんだよ」

俺は、あの後起きたことを沙月に軽く説明した。俺が何を考えていて、沙月が何を答えたのか具体的なことは伏せた。沙月が的中させると知っていたなら、俺だって別のことを考えたのだ。あれは絶対に外す前提の思考だった。自分の下品さにうんざりする。

「じゃあお主の考えていたことをなんのヒントもなしに当てたのか、あの女は」

「それだけはどうやったのか、わからねえ。わかるか?」

 沙月はしばらく黙っていた。街灯の青白い光が彼女の頭上に差し、被っている帽子が彼女全身を蔭に閉じ込めた。帽子はUFOのような円盤型に、光の中で浮き上がっている。街灯の下を通過すると、顎に手をやって物思いに耽る沙月を、今度は晩春の月明かりに柔らかく包んでいる。世界に愛され祝福されている少女といった雰囲気だ。沙月は道路の先の暗黒に満ちた虚空を見つめて、立ち止まった。

「そういうことか!」沙月は目を丸くして言った。「妾には……妾には全部まるっとお見通しじゃ!」

「マジか。種がわかったの?」

「うむ。しかし……これは反則じゃなあ。それにお主には絶対わかりゃせんじゃろうな。まあ、わからなくてもいいことじゃ。どうせ……」

「どうせ?」

「どうせ、教えたところで無駄じゃからな」

 確かに気になりはしたが、俺はそれ以上は聞かなかった。話してくれそうな雰囲気でもない。何らかの種があるんだろう。俺は、実際は、手品はそれ自体を楽しむのが好きで、種明かしにそれほど興味はない。

 日本人は手品を見るとすぐに種を教えろとせがむ傾向があるし、種の分かった手品には見向きもしないのだ。手品を手品として楽しむ心のゆとりがない。馬鹿にされていると感じるのかもしれない。手品は美しく、誰も傷つけない嘘のはずなのに、傷つく人間がいるのである。

 もしかしたら数年後には船生歩足は美人手品師としてテレビで引っ張りだこになっている可能性も無きにしも非ずだ。彼女には素質があるし度胸もある。頭もいいし、カリスマ性も秘めているのだ。

 船生はこれからも今日のような活動を続けるのだろうか。それとも、なにかが心に芽生えて別の道に進むだろうか。どっちでも俺にはもう関係のないことだが、今日俺が実験会に参加したことで、もしかしたら数人の人生が大きく狂ったかもしれないと思うと、なんだか絶望的な気分になる。黒い矢で心臓を射抜かれたような痛みが俺の寸胴な人生全体に走るのである。

 俺はアパートの前で立ち止まって夜空を見上げた。俺だって、何人かの重要な存在に人生を狂わされてきたのだ。現在進行形で、沙月に狂わされている。彼女を送ってきた星が俺の視界に映る夜空の果てのどこかにあるなら。……

 世界の片隅から、俺はそいつらに向けて中指を立てた。

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