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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第十二話 藤堂胡桃の一日

 正しい解釈は知らないが、俺にはトロッコ問題の答えがわかる。トロッコ問題の答えは自殺することだ。一人の命と大勢の命を選択するなど不可能だ。例えレバーに触れずに自分が関与しない選択をしても、選択できたという事実が存在する。

 結局誰かから責められるし、大きな十字架を背負うことになる。その後の人生で味わう幸福は黒い色をしているだろう。自己だろうと自業自得だろうとそういう状況に陥ってしまうぐらいならば、やってきたトロッコだか列車だかに自分がまず飛び込めばいいのだ。レバーの操作などせずに自分が最初の犠牲者になればいい。そうすれば後のことは勝手に誰かが処理するだろう。

「それじゃ図書館に行ってくるのじゃ」沙月はバッグを片手にそう言った。「昼飯は外で食べてくるのじゃ」

 俺は一人で部屋に取り残され、カーテンを開いて窓の外を見れば路地の奥へ歩いていく沙月の後ろ姿が見える。なんだか不思議な気分でその背中を見送り、俺は脱力感に襲われた。布団の上に横になった。少し毛布が汗臭いか。

 それから俺は布団をベランダに干して、軽い朝食を取り、今日何をしようかと考えた。

 沙月がいたから生きているのだ。やりたいことなど存在しなかった。金の使い道もない。タブレットで映画でも見て過ごそうかな。折角の素敵な晴天だったが、俺にとっては眩しくて暑いだけだ。散歩をするのも面倒くさい。

 運動不足な気がする。以前より少しだけ腹回りが太くなった。お金が入って、それで沙月に付き合う傍ら俺もかなりの量食べている所為だろう。沙月の方は太る気配もなく痩せていて、時折寝相が悪く寝間着の服がめくれて白い肌が見えるが、綺麗なもんだ。神様が丁寧に調整したみたいに陶器のような艶と曲線を保っている。あれぐらいの年頃、俺も確かに何もしなくても丁度いい体形を維持できていたのも事実だ。

 年を取ったんだな。俺は何となく黄昏て、財布を尻ポケットに仕舞ってから家を出た。

 五月も終盤に差し掛かり、少しだけ空気の湿度が高くなっている。その内台風だとかが発生して、雨も増えるだろう。……未来の心配をするのは、俺の性に合わない。いや、逆だろうか。未来の心配をし過ぎて俺は未来が嫌いになったのだ。未来は憂鬱の象徴だ。

 俺の住むアパートの近くには目立った店は殆どない。自然が豊かなのはいいことだが、虫も多いし、夏は彼らの鳴く声で朝も夜も五月蠅い。

 沙月は屡々図書館へ向かう。俺の部屋にある本はあらかた読了したのだろう。そうして貪欲に、知識を得ようと図書館の本を今度は片端から読み漁っているのではないか。沙月の学習速度は尋常ではない。まるで人工知能のようなスピードで次から次へと学んでいく。俺の稚拙な予想では、沙月は一年経たずに俺よりずっと賢くなって、俺に対して質問ではなく、軽蔑を与えるようになるだろう。被害妄想だろうか。

 しかしそうなれば俺の家を出て行けばいいだけだ。最初からこんな田舎のアパートの六畳間に収まる器じゃない。もっと東京大学の教授とかに世話されて人類文明の発展に寄与するような人材だ。……もしかしたら今だって、答えの分かってる質問をして、それに答えるために俺が目を白黒させてるのを見て揶揄っているのかもしれない。だからといって、どうしようもない。

 俺は中古屋に来た。外に並べられた古い家具の列を縫って店に入る。涼しい店内に明るい音楽。セール中の情報をわざとらしいテンションでテンポよく伝える店内放送。俺は硝子ケースに入った暗緑色の茶器を見た。釉薬がシンプルだが美しい模様を描いている。茶器の下に貼られた値札を見た。やれやれ、なんつー値段だ。ゼロの数がおかしい。

 中古屋には様々な商品が並んでいる。服や靴、本やゲームに一眼カメラ、CD。マニアックな商品も多い。ジグソーパズルに壁掛け時計。狭い通路に立ち止まって俺は木彫りの熊を手に取った。新い削りだ。素人の作品だろう。そう思って台の下に貼られた値札を見たら、一万円越えだ。やはり世界全体が倒錯してるな。俺は阿呆らしい確信を強めて、階段を上がった。

 今日ここに来た理由の一つとして、テレビを買いたいという欲求があった。沙月は最近テレビに興味を持ち始めた。俺はテレビ番組にそれほど興味がないから部屋には置いてなかったが、あった方が何かと便利だろう。

 中古でもテレビは中々高い。平気で一万円を超えてくる。そんな余裕は我が家にはない。なんとなく、子供の頃俺が両親に様々な事をねだっていた記憶が思い出された。新しく発売したゲームが欲しいと自分のことしか考えずに言っていたが、うちの家庭だって裕福ではなかったのだ。色々な細かい部分を切り詰めて捻出した金で買ってくれたゲームも、一か月も遊べば飽きて二度と触らなかったりしたのだ。寂しい気持ちで見つめる俺の視線の先には、テレビの液晶に反射した俺の虚像が、ムンクの叫びみたいに歪んでいる。

 今日購入しても持ち帰る算段がない。箱が大きいし、基本的に店員は購入後は手伝ってくれない。頼めば配送サービスもあるかもしれないが、そんなに家まで離れていないのに、業者に高い金を払いたくない。これは吝嗇だとせせら笑う人間は人生で金に困ったことがないのだ。俺は母親がスーパーで買い物する時、二十円ぐらいの僅かな値段の差で迷っている姿を何となく残念な気持ちで眺めていたが、今思えば、俺の母親はずっと賢いのだ。

 時計は正午を過ぎて、俺は中古屋を出てハンバーガー屋に入った。今は限定でセットが安い。少しだけ混雑している店内で床に立てられた置き看板型のメニュー表を見て、注文する内容を決めた。店員は若い女性で、数学の問題を解くみたいに客を素早く捌いている。

「店内でお召し上がりになりますか?」

「いえ、持ち帰りで」

 会計を済ませてまた列に並び、商品を受け取る。それを持って店を出た。太陽は頭の上でキラキラ輝いている。アスファルトは白っぽく光、俺はその上を迷子の子猫みたいな足取りで家まで帰っていく。

 沙月がいない部屋は静かだった。静寂と安寧はセットだ。俺は落ち着いた気分で机の上にハンバーガーとポテトとドリンクを並べて、食事を始めた。俺の咀嚼音だけが部屋に響く。ポテトの塩味を味わいながら、静かなる舌鼓を打っていると、突然携帯が鳴った。

 誰からの電話だ。俺は苛つきと不安を抱えて画面を見た。矢島からの電話だった。

「もしもし? はい。なんですか?」

「お前今平気か?」相変わらずの矢島の声だ。「あ? なんか食ってんのか?」

「ポテト食ってます」俺は片手で電話を持ちながら、もう片方でポテトを食べ続けていた。

「そうか……」電話口で一度矢島が咳払いしてから言った。「なあお前いまお金に困ってないか?」

「生憎困ってないですね」強がりでもなく、本当に困っていなかった。矢島はがっかりする溜め息を受話器の向こうで吐き出して言った。

「それでも、バイトする気はねえか? やりがいは十分なんだがな」

「今年聞いた単語で一番胸に響かなかったな。やりがいって、ブラック企業の頻出単語ですよ」

「そうでもないさ。よし、バイトの内容を教えてやる」矢島は意気込んで言った。「お前には、或る超能力者を調査して欲しいんだ」

「はあ?」流石に素頓狂な叫びが出た。「何言ってるんですか? 天下の警察官が。……確かに、俺はあなたを優秀な刑事として尊敬していたかもしれない。でも今さっきまでです。今の俺にとってあなたはもう……」面倒くさそうな話になって来たから俺はさっさと離脱したかった。超能力者だって? 既に俺は宇宙人と関りを持っているんだぞ。

「まあ待て、本気で超能力者だと思ってるわけじゃない。そうだろ? そんなのはいるわけがない。だが、世の中には超能力者を騙るペテン野郎が大勢いるんだ。警察の仕事の一つとして、そういう連中を取り締まらなくちゃいけない。何故かわかるか? そういうペテン師は最初の内はただの手品師みたいな言動だが、次第に神様気取りになってきて、偽りの効果を宣伝する商品を高額で信者に販売するんだよ。これは違法だ。そうして今回も、新しくペテン師が現れたわけだ。ところがこいつが中々切れ者で、しかもまだ若い姉ちゃんときてる。確かお前よりも若い。聞いたことあるか? 船生歩足っていうんだが」

「フニュウホタル? 芸名ですかそれ」

「どうも本名らしい」矢島は俺が興味を持ち始めたことに勘付いたのか勢いを増した。「今度本格的な実験会が開かれるんで、お前も参加して、船生のインチキを解明しろ」

「それこそ矢島さんが自分で参加すればいいじゃないですか」

「そんな場所に警察が参加していいと思ってるのか? 俺の代理として、なんの先入観もないお前が参加することに意味があるんだよ。もしかしたら船生はお前以外の参加者全員を買収して奇跡を起こしたように見せかけるかもしれないんだぜ」

「……バイト代はいくらくらい出るんですか」

「それは電話口じゃ言えねえな。これは非公式なんだ」

「いいんですか、警察がそんなことして」

「お前に依頼するのはただの矢島さ。警察官矢島じゃない」

「実験会はどこで開かれるんですか。俺は車も持ってないし、あんまり遠出したくないんですけどね」

「それに関しては大丈夫だ。それなりに近いよ。多分だが、県境すら越えなくて済むだろうさ。まあ追って知らせるよ」

「それと、もしかしたら俺のほかにもう一人連れていくかもしれないんですけど、それは可能ですか?」

「ああ? もしかして初鹿野さんの娘と復縁したのか?」

「カオルとはだからもうずっと話もしてないですって。全然別の人です」

「まあ、いいさ。部外者は多ければ多いほどいい。船生ってのは俺も写真を見たが中々凛とした和風美人だったぞ。あんな子がどうしてこんな真似をしているのかはよく知らんが、多感な時期だからな。ああいうことに手を出してしまう子もいるのかもしれない。もしかしたら誰かが裏で糸を引いてるのかもな。考えすぎかもしれないが……」

 小学生の頃、大抵の女子が俺に言うのだ。「私、霊感があるんだよ」霊が見えたとかどうとか、そんなことを囁き合ってきゃあきゃあ言っていた。今思えば全員噓吐きである。しかしもしかしたら彼女たちはあの瞬間、本気で自分には霊感があると信じていたのかもしれない。

 船生歩足という女も、本気で自分を超能力者だと信じているのなら、俺が若し仮に彼女の嘘を暴いたら、世間から大笑いされ、軽蔑されるのではないだろうか。本名で活動しているのだ。相当なリスクがある。

 しかし、誰かが彼女の夢を終わらせなければいけないのだ。夢から覚めて社会に適合できなければ、俺のように朽ち果てていくだけである。……

「わかりました。バイト受けますよ」

「よし来た!」矢島は嬉しそうな声で言った。受話器の向こうで小躍りしているかもしれない。「それじゃあ詳しい日程や場所なんかはあとで資料を送るから、楽しみに待っててくれ。期待してるぞ」

 電話が切れた。机の上には空になったポテトの容器だ。ドリンクをストローで飲みながら、今さっき教えられた船生歩足について調べる。その女は簡単に検索で出た。

 一番最初に表示された画像は宣材写真のように整っていた。凛とした目の上の濃い眉毛が強い意思を感じさせる。黒髪を束ねて、服は高価そうな和服を着ている。成程、超能力者のような普通でない風貌だ。

 若くて美人なのでそれなりに人気があるらしく、公式のTwitterはそれなりのフォロワー数を誇っていた。YouTubeでも活動しているらしく、俺は最新の動画を見てみた。古臭い和室で船生が視聴者からの質問に答えていく。涼やかな声で聞き心地がよい。話し方もはっきりしていて知的だった。男からも女からも人気が出るタイプだ。使っている化粧品を教えてくださいという質問も来ていた。

 俺は次に、船生の一番再生されている動画を見た。船生が透視能力を使って泥んこクイズをするというもので、二択を次々正解していく。「問題制作者の祖母の名前は『信子』か。マルかバツか」。こんな問題は五割の籤を引くようなものだ。しかし船生は迷うことなく、女性らしい走り方でマルの描かれたボードに体当たりし、見事正解する。カメラが船生に近寄った。和服が少しだけ乱れて、顔を火照らせ息切れしている。この動画が一番再生されている理由が分かったような気もする。

 玄関の鍵が回って、沙月が帰宅した。俺のタブレットからそこそこの音量で船生の息切れしている声が漏れている。沙月は表情をギョッとさせ、気まずそうに言った。「なんじゃ。お取込み中じゃったか?」

「いや、いや。違うって。矢島からバイトの誘いが来たんだよ」

 俺は事情を説明した。沙月は表情を明るくして、タブレットを使って船生についての情報を見ていく。「超能力者って実在するんじゃろうか」

「宇宙人がそういうのを聞くかね?」

「うぅむ……。考えてみれば、妾のいた星の住民は地球人基準じゃと超能力者みたいなもんじゃな」

「船生ももしかしたら、お前と同じ星の住民かもしれないな。調査員仲間かもしれないぞ」

「それは……」沙月はまごまごしながら呟いた。「ないじゃろうと思うんじゃけどなあ……」

 沙月はそして机の上に広げられたハンバーガーの袋なんかを目敏く見つけて叫んだ。

「ああ! 妾がいない間にそんなものを食っておったのか!」

「別にいいだろ何食べたって」俺はゴミを片付けながらぼやいた。「お前だってなんかいいもん食ってきたんじゃないのかよ?」

「妾はうどんを食ってきた。箸の持ち方も上達して、食べられるものの選択肢がぐっと広がったのじゃ」

 箸が扱える宇宙人か。そして遠くない未来、超能力者と対決する仕事が待っている。一体どうしちまったんだ、俺の人生は。宇宙人、超能力者と来たら次は未来人か? 

 取り敢えず、涼宮とかいう苗字の女が登場したら、要注意なんだろう?……

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