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灰桜  作者: 砂糖千世子
第一部 超常の章
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第十一話 釣りがしたいんじゃ!

 沙月は偶々日本担当だったらしいが、もし治安の悪い国や地域に落下していたらどうなっていただろう。もしかしたらもう人類文明は存続していなかったかもしれない。

 こんな日本の片田舎みたいな場所で、人類の善悪など見定められるわけがない。ここでもインターネットがあれば、人類の恥部を知れるだろうが、実際に目で見て肌で感じないとわからないものも多い。未だに世界中には差別が蔓延っているし、悲惨な戦争は行われているのだ。同じ空の下で手足や両親を失って泣き叫ぶ子供たちがいるのに、俺たちは近所の釣り堀に来て、魚釣りに興じているのだ。

 麦藁帽子を被った老人が俺たちの向こう側で大きな鮒を釣り上げた。そうしてそれをすぐリリースする。俺は自分のレンタルした釣り竿の先を見つめた。濁った水の中に沢山の鮒だか鯉だかが泳いでいるが、俺の雑に餌をつけた釣り針に見向きもしない。俺は工夫を凝らしてふよふよ針を動かしてみたが、魚は全然気が付かないのだ。魚にすら無視されている俺を尻目に、沙月は新しく鮒を釣り上げた。「これで三匹目じゃ!」

 あいつは宇宙人だぜ? 地球人に贔屓してくれないかね。俺は鮒に心の中で頼んだ。負けたほうが帰りにアイスを奢る約束をしたのだ。俺は未だ一匹も連れていない。流れさえ来れば異常を疑うほど釣れるのが釣りだと思うが、どうやら今日の胡桃君は点に見放されているらしい。

 俺は釣り針を水面から出して回収し立ち上がった。沙月は夢中で再び餌を針の先につけている。俺は釣竿を脇に持って、先ほどから抜群の釣果を誇る麦藁帽子の老人に話しかけた。「先ほどからすごいですね。僕全然釣れなくて、コツとかあるんですか?」

 老人は日焼けした肌に笑みを浮かべて言った。「お兄さん慣れてないの?」

「ええ。前に一回だけ釣りはやったきりで、殆ど初めてです。全然釣れないんですよ。こんなに魚はいるのに……」俺は釣り堀の底を泳ぐ数えきれない魚の影を見下ろした。

「釣り針にはこんな感じで餌をつける」老人は指の先で小さく餌を丸めて、針に刺して更に形を整えた。意外にも俺が今までつけていた餌の量より少ない。「多いと針に引っかからないからな。それで釣り竿は肘に当ててこんな風に構える。それで、結構遠くまで針を飛ばすんだ。魚がいっぱいいるところに投げるわけだ。女と一緒よ。数うちゃ当たるのさ」

 俺が今まで手首だけで持ってた姿勢とは違う。身体全体で支えているし、それでいて力が籠っていない。自然な脱力である。そうして釣り針は手前ではなく奥の方へ投げてある。

 老人はじっとしていた。一分も経たずに、ウキが小さく揺れた。鮒が餌に食いついたのだ。老人は焦らずに、確実に鮒の口に針の返しが引っかかるタイミングを待ってから、竿を持ち上げた。鮒は尾鰭を暴れさせたが、抵抗虚しく水面から全身が浮き上がり、老人の網に入った。老人は笑いながら鮒の口から針を抜いて、「あげようか?」と聞いた。俺は首を振って礼を言った。自分の持ち場に戻った。

 沙月は帰ってきた俺に「なにをこそこそしてたんじゃ?」と聞いた。

「アドバイスを貰ってたんだよ」学んだことを活かして、再び俺は釣竿を構えた。

 長い時間が経過した。俺の指に少しだけ、見知らぬ力が加わった。本当に小さな感触だった。俺は意識を集中させて、釣竿に力を込めた。運よく針が鮒の口に引っかかったらしく、俺が釣竿を上げると、小さな鮒がくるくる回りながら姿を見せた。網に入れて手に取るとぬるぬるしている。鮒の眼は動くことなく、一切の感情を俺に見せなかったが、全身が激しく痙攣して掘りに帰りたがるので、俺は沙月に鮒を見せつけてからリリースした。

 結局俺は鮒を二匹釣り上げ、沙月は四匹釣り上げた。勝負は彼女の勝利だった。

 俺たちが帰る時、アドバイスをくれた老人が俺に言った。「釣りは結局時の運だからな。それにあんたは俺よりよっぽど上手いよ。あんな素敵な彼女さんがいるんだからな」

 老人くらいの年齢からみれば、付き合っているように見えたのだろう。俺は再びアドバイスの礼を言って釣り堀を出た。

 俺たちは帰り道にコンビニへ寄った。アイスのコーナーは冷えていて肌寒かった。沙月と同じ棒アイスを買って、二人で公園のベンチに座った。公園は頭上に広がった桜の木の緑が綺麗で、子供たちが遊具で遊ぶのを、主婦たちが談笑しながら見守っている。

「平和じゃな、この国は」沙月はアイスを齧りながら言った。既に溶け始めている。

「そうなのかね。わからんよ。もしかしたら、あの主婦の内の誰かは家計が火の車だったり、夫の浮気を探偵に調べさせていたりするかもしれんよ。浮気してる人もいるかもしれない」

「無粋な妄想じゃな」

「俺ぐらい若い奴でも、どうしたってそういう現実を知るんだよ。綺麗ごとだけじゃ生きていけないし、疑う事を知らなければ利用されつくして捨てられるだけだ。知らないことが幸せだというのはそうかもしれないが、それを推奨し始めたら本格的に終わりだろ」

「この国は、推定無罪じゃないのか?」沙月は揶揄うように言った。「信じるのも勇気じゃ。信じることから沢山の幸福が始まるんじゃなかろうかのう」

「人生経験の差だな」俺はそう言ったが沙月が誤解しそうなので詳しく説明した。「つまり、運の差だよ。みんな同じ人生を送るわけじゃない。信じることで幸せを手にしたり、得をしたことがある人間は、その美徳を貫けるだろうが、信じることで恥をかいたり損をした経験のある人間は奥手になるし疑い深くなるもんだ」

 虐待されて人間嫌いになった猫が、善良な人間を威嚇する姿を見て、その猫に非があると指摘するような歪みだ。指摘するのが幸福な家庭で世話されている太った猫なら尚更だ。

「それでも勇気を出さなければ、いつまで経っても新しい幸福は掴めないんじゃなかろうか?」

沙月の言う事はもっともだった。

「その通りだよ。裏切られたり騙されるのが怖いといって他人を避けてたら恋愛も出来ないし結婚も出来ない。でも世の中には一定の確立で浮気されたり金を騙し取られたりする人間もいて、そのリスクを覚悟しなけりゃいけない」俺はアイスを全部食べ終えて棒をビニール袋に仕舞った。沙月の齧っているアイスの棒も取り上げて袋に入れた。「どっかの国の哲学者が言ってたが、生きることは狂ったように賽子を投げ続けることなんだ。毎年日本じゃ交通事故で3000人だか4000人だかが死んでる。みんな自分は死なないと思って運転しているが、かならずそれだけの数は死ぬわけだ。貧乏くじを引かされてるわけだよ。人間関係も同じさ。不倫だとかの数は最初から決まってて、恋愛している人間の中から適当に選ばれてるわけだ。もしかしたらあそこにいる主婦たちか、子供たちか、彼らの父親かもしれないが、誰かが貧乏くじを引かされる可能性はあるんだ」

「引かない可能性も勿論あるじゃろうな。で、お主が言いたいのは多分、そういう可能性を意識せずに、生きていける人間と生きていけない人間がおるということじゃろ?」

「そうだ。それを俺は不公平だと、思うわけだ」克服する障害の高さが違う。分かり合える時は来ないだろう。しかし、世の中は最初から不公平なのだ。どれか一つの不公平を潰したところで、ほぼ無限の数、不公平は生まれる。この世界に本当の公平は成立し得ないのだ。正三角形と同じである。

 完璧な正三角形は頭の中にしか存在しない。コンパスや定規を使っても人間の手で書くので微小な歪みは顕在する。コンピューターが画面に表示する正三角形だって、拡大していけばモニターの画素の集合でしかなく、繋がってはいない。

「こういう話が行きつく場所を俺はもう知りすぎるほど知ってるんだ」

「ほう? どこに行きつくんじゃ?」

「俺の人生へのダメ出しだ。結局、みんな不公平な人生だけど頑張って生きてるんだ。だから俺は甘ったれなんだよ。文句言わずに普通に生きればいいんだ」

 もうこれ以上俺はこういう面倒くさいだけのことを考えたくなかった。人生だとか世界だとか、俺みたいな落ちこぼれが考えるものではない。

 俺は足元の地面を見た。白い砂の中から、小さな穴が俺を見つめている。そこから蟻が顔を出して触覚をきょろきょろ右左に動かし、そそくさと大地に姿を見せた。次から次へと蟻が出てくるし、探索に出ていた蟻が小さな粒を顎で咥えて巣穴に帰ってもいく。

 働き蟻の法則によれば、全体の内でよく働く蟻が二割、普通に働いている蟻が六割、サボっている蟻が二割いるらしい。よく働く二割の蟻が、大部分の食糧を集めてくる。ちなみにサボっている蟻だけを集めると、その中で2:6:2に分かれるという。実はサボっている蟻は普段働いている蟻が疲れた時の交代要員なので組織が円滑に回るためには重要な存在らしい。だが、中には本当に一生働かない蟻も存在する。ある学者はその蟻たちのことを『社会の癌』と呼んだ。

 顔を上げて、遊具で遊んでいる子供たちを見る。あの中の誰かが将来俺みたいな葛藤を抱える可能性も無きにしも非ずだ。彼らが結婚して生まれた子供が、同じように葛藤を抱える可能性もある。人類が誕生して二十万年以上経過するというのに、まだ俺のような社会の癌が存在する。誰か優秀な医者を雇って切除してしまえばいいのだ。

「自殺する癌細胞か……」

 俺は何となく滑稽で、奇跡的な響きを感じてそれを呟いた。沙月は退屈そうに座ったまま伸びをして、身体を揺らし、その勢いで立ち上がり言った。

「お主は鬱病なんじゃないか? 病院に行って適切な薬を処方してもらった方がよさそうじゃぞ」

「前に一回通ってた時もあったんだけど、金がかかる割に薬の効き目も悪いから、やめちゃったよ」

 俺たちは並んで歩きながらだらだらと会話した。空は陽気で、町も人も静かに回り続けている。微かな呼吸さえ聞こえてきそうな、午後の小径を並んで歩く。沙月はポケットに手を突っ込んで道端の小石を軽く蹴りながら言った。

「あーあ。妾の箱の中身さえあればお主の心の不安も全部吹き飛ぶんじゃけどな」

「じゃあくれよ」俺は横断歩道の押しボタンを押した。「あの時はくれるって言ったじゃないか。契約反故だぜ?」

「それはそうじゃが、あれは最終兵器なんじゃ。そう気軽に渡せるものじゃないのじゃ」

「兵器なの? それはちょっとやばいな。警察に届けたほうがいいかもしれない」

「そんなことをしたら言語に絶する大変な未来が待っておるのじゃ」

「気になるなあ」俺は独り言として言った。「気になることだらけだ」

 気になるけど、答えは知りたくない。そういうものが俺の周囲にいつの間にか積み重なっていた。最初の頃は、楽しんでいたが、その内俺一人では支えきれない量と高さになり、その懊悩の塔はゆっくりと重心を傾け、こちらへ倒れかかってくるのだ。積み木遊びのような気持ちで初めた謎々が俺の人生全体に影を落とし、今まさに、俺を圧死させようと崩れかかってくる。しかし塔はUFOにぶつかり、少しだけ俺のいる場所とはずれたところに倒壊した。煙が濛々と立ち込める中、塔と衝突して墜落したUFOの中からは、驚くほどの美少女が……。

 墓地の横を通り過ぎ、沙月は小走りで遠くに見えた俺たちの住むアパートへ駆けていく。その後ろ姿を見送りながら、俺は、あの時俺が沙月を救ったのか、沙月が俺を救ったのか、愈々わからなくなったぞと、困ってしまった。

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