第十話 動物園に行きたいんじゃ!
まず第一に、俺は凡人である。これは保険だ。俺の臆病な気持ちの表明だ。俺は凡人だから難しいことはわからないし専門的な知識もない。常識だって欠けてる部分はある。だから沙月から、檻の中の動物の幸福だとか、人間に食べられるために養殖されている魚の尊厳だとかを聞かれても答えられないのだ。しかし俺は沙月という宇宙人を拾った責任がある。だから出来る限り答えようとする。でも、俺は沙月の質問に答えるたびに、なにか亀裂のようなものが自分の頭の中に入るのを感じるのだ。それは神様が俺の間違った知識を間違っているとだけ指摘して去っていくような心細さなのだ。誰か、俺を救ってくれ。
電車に揺られながら沙月の小難しい質問に答えて一息ついた。世の中の子育てをする親というのは、子供の無邪気な質問にきっと尋常でない心労を抱えていることだろう。誤魔化せるならいいが、沙月の場合は、なまじっか頭が回るから、厄介だ。
「そんなに色んなことが気になるなら、今度スマホ買ってやるよ」タブレットは大きいし高価だし失くしてしまったり、壊してしまった場合、俺の心が折れそうだから、外へ持ち出すのを禁じていた。「スマホを契約するのも中々面倒なんだ。それにお前の場合は、色々と手続きが厄介そうだ。俺の名義で登録したほうがいいだろうな」
スマホさえ渡してしまえば「それで自分で調べろよ」という逃げ道が使える。ネットの情報をなんでも鵜呑みにされては困るが、俺がアドリブで答えるよりかはマシだろう。
「この前値段を見たら20万円ぐらいしておったぞ。お主そんな金持っておるのか? スマホの代わりに一年間もやし生活は嫌じゃのう……」
「お前が競馬で稼いだ金があるだろ。慎重に使わなけりゃいけないのは確かだが、スマホは現代の生活必需品だからな。買うべきだ」
電車はゆっくりとカーブした。車体が緩く傾いて、外の景色が大きく開ける。山の傍の自然に囲まれた線路を走っていた電車が、次第に雑然とした街並みの中へ吸い込まれていく。「こんな都会に動物園があるのも不思議だよなあ」
「もし檻からライオンが脱走したらどうなるんじゃろ。専用の警報とか存在するんじゃろうか」
猛獣脱走警報なんて聞いたことがない。そもそも動物が脱走したニュースはあまり見かけない。昔大きな地震が発生した時、ライオンが脱走した情報がネットで拡散されたが悪質なデマだった。
小学生の頃、遠足で動物園に行った。あまり覚えてはいない。大人数での遠足だし、子供なのでそこまで自由行動も出来ず、また動物も子供たちを煩わしがってあまり活発に動くこともなく地味な見学で終わった。俺は友達とふざけ合いながら白熊の水槽の前で駄弁っていた記憶がある。
動物は好きだった。元が人間嫌いなので、動物の純粋さには憧れていたし、愛着があった。一方通行で我儘な愛ではあるが。一度もペットを飼育したことはない。近所のある家族が新しく柴犬を飼い始めたというので幼馴染の初鹿野と一緒に見に行った。ざらざらした舌で俺の手の甲を舐めてじゃれつく柴犬を撫でたのは、確かまだ小学生の三年生ぐらいだったか。……
俺たちは徒歩で動物園の入場口に来た。料金を払って入ると、動物の体臭がすでに臭ってきた。俺は懐かしい気持ちで入り口の近くにある看板を見た。顔を嵌めることが出来るパネルで、そこで写真を撮ってSNSにアップしたりするのだ。沙月は看板に興味を示さず、大きな地図の前に立って、どこから見て回るか一人で計画を立てているみたいだった。
周囲を見たらそれほど混んではないなかった。遠くで聞いたことない動物の鳴き声がした。俺たちは取り敢えず道なりに歩いていくことにした。そうしてすぐに犀に出会った。
実際に目にする動物の迫力は凄まじい。犀も、その皮膚のゴツゴツした感じに感銘を受けた。時々テレビで見たり写真で見るのとは質感が全然違うし、受ける印象も別物だ。
子供連れの夫婦が離れた場所で犀を眺めて、明るく笑い合っていた。俺は沙月の背中を見た。宇宙人が犀を見て何を感じるんだ? それとも翻訳機とかいうので今、犀と会話でもしているのか? あなたはこの狭い空間で一生を終える運命にありますけど、幸福ですか?
人間だって地球という限られた空間の中で生活しているのだ。俺の予想だが、犀だってそこまで不満があるとは思えない。犀から見たら人間はどう思えるのだろう。
「なあ、犀と会話してみたのか?」俺は沙月に話しかけた。
不可解な表情を浮かべて沙月が振り返った。「何を言ってるんじゃ?」
「いや、だからその首元のそれで、犀と会話できるんじゃないのか? もうしたのか?」
「ああ、それは難しいじゃろうな」沙月は首の黒いチョーカーを指で撫でた。「お主が言ってるのは妾がパドックでやったあれじゃろ? 動物の調子を聞くぐらいなら、まあやれるが、それ以上複雑な質問は出来そうにないのじゃ」
「じゃあ犀の気持ちを聞くのは無理なのか?」
「まあそうじゃろ。言語が存在せんもの。単純なイメージ、いくつかのパターンで意思疎通しておるんじゃ。だから、犀に、お主は今何を考えておるのか聞いたところで、それさえも伝わらんじゃろう」
競馬場でのあれは特別だったらしい。犀はのっそりと柵の向こうを歩いて、その冷たい目を遠くへ向けている。ああいう動物を見ていると、如何に人間が野生を忘れているか思い知る。しかしそれは幸福な事だろう。野生の動物の中に、人間以上の幸福を手に入れた動物は存在しない気がする。彼らはいつも何かを警戒して、何かに怯えながら生きているのだ。怒りや不安といった感情ばかり浮かべていて、人間が関与せず、動物が素直に喜ぶシーンを俺は見たことがない。家で寝転がって漫画を読んで笑っているだけで俺は人間以外の動物よりずっと幸福を得ているのだ。
ライオンは分厚い硝子の向こうでつぶらな瞳を俺に向けていた。鬣はボサボサで頭がでかい。岩の上にじっと座って前脚を丸めて、眠そうにしている。
「百獣の王って名称は人間の皮肉なのかのう?」
「いや、そういう訳じゃないって。サバンナとかだと凄い強いんだぜ。もし街中でライオンに出会ったら俺はちびっちゃうね」
「何のために雄のライオンはあんなに顔の周りに長い毛が生えておるんじゃろ」
俺は檻の近くにある看板を見た。「首筋の攻撃を守るためらしいな。それに、自分を大きく見せる為みたいだな」
「面白いもんじゃな」沙月は興味深そうにそう言ってから、ライオンに向けて手を振った。「同じ星で育っても、全然違う形に進化するんじゃな。地球は最高の芸術家じゃ」
前に沙月が言った多様化理論を思い出した。思うに、人間は神になれないだろう。神になる才能がないのだ。狭量で差別主義者だからだ。人間の発想力には限界があるし勝手に美醜の基準を決める。人間なら醜いと切り捨てて創造しないような容貌の動物がこの世界には山ほどいて、神様の度量の広さの一端を垣間見られる。神様は、地球の意思、自然の大きさなのだ。
カンガルーは駄目親父みたいな生活をしていた。日向に腹を向けて寝転がって、細い腕で尻を搔いたりしている。暢気な気性は顔にも表れていて、寝惚けた様な顔で起き上がって客の方を暫く眺めてからまた頭を地面に下ろした。
以前、カンガルー同士で喧嘩している映像を見たことがある。殴り合い、身体のぶつけ合いだった。野生の動物の争いは、いつだって衝撃的だ。普段は可愛らしく顎を撫でられてゴロゴロと喉を鳴らしてる猫も、気の合わない他の猫相手に威嚇する時は、鬼気迫る権幕と威圧感を発するものだ。
今こうして俺の目の前で油断した姿を晒しているカンガルーも、いざリングの上で俺と戦うことになったら、簡単に俺を殴り殺してしまうのだ。……
そんなことを考えていると、カンガルーの檻に飼育員が入って掃除を始めた。そしてカンガルーの傍の砂を道具を使って掃除し始めた。次第にカンガルーの近くまで迫っていく。そして邪魔になった、寝転がっているカンガルーの重い身体を、なんとか横に倒して、彼のいた場所も掃除した。カンガルーは反対向きに身体を倒されてもまだ眠りこけている。口元がむにゃむにゃ動いて、ピンクの舌をぺろぺろさせた。
俺が中学生の頃布団の上で昼寝しているのを、部屋に掃除機をかけ始めた母さんが退かす時の光景に似ていた。なんとなく俺はカンガルーと共鳴し合うものを感じた。
俺たちはそれから色々な動物を見た。大きな熊に水浴びする虎、仲のいいキリンの親子。大きな甲羅を持った亀に、頭のよさそうな顔をしたゴリラと喧しいチンパンジー。食欲旺盛なカピバラと人懐っこい狼。俺たちの服に動物たちの体臭が完全に染み込む頃、大抵の動物を見終えて、植物園に入った。
温室の中で大切に育てられ、成長した植物たちに囲まれながら俺は沙月に聞いた。
「どうだった。来たかった動物園は?」
「楽しかったのう」沙月は丸いサボテンを見下ろしながら言った。「今のところ、この星の文明は悪ではないのじゃ」
「案外お前のところの星は地球と似た倫理観なのかね。質の悪い連中だったら、肉を食ってるだけで悪認定してきそうなもんだ」
「もし、最終的に地球人を滅ぼすことに決定したらお主はどうするんじゃ?」
「どうもしないよ。最初から言ってるだろ? 俺は未練もないし興味もないんだ。勝手にしてくれって感じだ」綺麗な赤い花を咲かせている植物の香りを嗅ぎながら俺は言った。「ただもし人類が亡べば、ここに咲いている花は育たず枯れる運命にあるし、さっき見て回った動物たちは病気になったり餓えたりして死んじまうだろうな」
俺はちょっとした反逆の心算でそういう事を言った。沙月は特に言葉を返さなかった。彼女は無言で植物を目で愛でながら、温室を出た。俺は疲れていて視界がチカチカした。二時間以上は歩いた。俺たちはレストランに入って休息を取ることにした。
シックな内装の店で、お洒落な雰囲気の席に通された。俺は場違いな場所に来てしまったと内心後悔した。メニューを見て目が回る値段の並びに怯んだが、折角遠出してきたのだから贅沢しなければ勿体ないと思い、好きなものを頼むことにした。
制服を上品に着こなしたウェイターが注文を受けた。俺が緊張しながら注文すると微笑を浮かべ、行儀よい動作で立ち去った。背中に流れる汗の量が増えた。店内に流れる落ち着いたクラシック音楽に耳を澄ませているらしい沙月の横顔を見た。こいつは堂々としているな。俺は乾燥してきた唇を舌の先で湿らせて、ぼんやり窓の向こうを見た。
俺の、沙月と出会ってからの日々はすべて、あの日死ななかったから体験できたこと、という属性が付与される。だから俺は何となく、今の日々の中でどんな小さな喜びに出会っても、それを素直に受け止められなかった。生きててよかったと思う事そのものが罪な気がするのである。それに、あの家を出る前や、自殺するまでの長い長い時間の中で孤独と絶望、襲い来る焦燥感に押しつぶされそうになっていた俺に対する裏切りではないかとも思う。沙月と出会ったことは、認める外ないが、幸運だった。沙月に出会ってから俺は人生がぐるっと反転するのを感じた。いままで重たく曇っていた空が晴れた様な感じで、人生案外どうとでもなるといった種類の楽観に目覚めかけているのだ。
料理が運ばれて来た。ショートケーキとフルーツサンドが並べられた。俺たちは特に言葉を発するでもなく、黙々とその絶品な、今まで食べたことのない新鮮な味わいのスイーツを口へ運んだ。甘いだけでなく酸味の効いたケーキが舌の上で溶けた。沙月は幸福に目をキラキラさせていた。
もし明日に沙月を迎えに他の宇宙人がやってきて、彼女がいなくなったら。そうして今まで通りの日常が再び幕を開いたら、俺はきっとまたどん底みたいな気分になって、自殺するまでに長い時間はかからないのだ。
だからこんな幸福に慣れてはいけない。これが普通だと感じてはいけない。己を律しなければならない。この瀟洒な店だって、沙月がいなければ来ることはなかった。知ることのない喜びなのだ。俺の為に俺は高い金を出してケーキを食べさせたりしない。
神様がくれたチャンスなのだろうか。今一度己を見つめなおし、幸福の味わい方を教育してくれているのか。幸せになることを心のどこかで恐れていた俺に最後の慈悲を与えてくれているのか?
『蜘蛛の糸』で、もしカンダタが他人を蹴落とそうとせず、極楽へ上りそうになったら、果たしてお釈迦様は蜘蛛の糸をどうしただろうか。本当にカンダタを助ける気などあっただろうか。もしかしたらあと少しでカンダタが極楽へ行ける直前で、鋏で蜘蛛の糸を切ってしまったかもしれない。そうした予感が、俺にはどうしてもあるのだ。……
会計を済ませて俺たちは帰途についた。駅まで歩く俺たちの肌を西日が橙色に染めている。騒がしい街中の雑音。車やバイクが走り抜ける音、横断歩道の音楽、大人や子供の話し声。動物園から出て、人間たちの社会に戻ってきたのだ。
駅には、椅子の上で新聞紙を広げたサラリーマンや、派手な服を着て髪の毛を染めた女の子や、学校の制服を着た男子、車椅子に乗ったお婆さんとそれを押す眼鏡をかけた女性が電車を待っていた。電車が来て、そこにも大勢の色んな人がいた。この前参加した合コンについて語る社会人の男女や、蛍光色の大きな靴を履いた金髪のラテン系の外国人の男。
目に見えぬ透明な檻が、俺たちを囲っているのだ。俺はこの檻から脱走したつもりだった。しかし、逃げ出した先にもまた新しい檻が構えているのだ。畢竟、この窮屈な檻から出ることを許されるのは、死を通過した人間だけなのである。




