第一話 君と宇宙人
人間は生を選ぶことはできないが、死を選ぶことはできる。
人間以外の動物は自殺を知らない。
最も人間的な行動とは自殺だ。
意味のない自殺こそ、人間さえも超越した究極の行動である。
だから俺は夜中に一人で山を登っている。
葦鹿山は標高100mもない山で、昼間は地元の子供たちが走り回って遊んだり、高齢者の運動不足を解消する場となっている。夏は鮮やかな緑に包まれ、秋には綺麗な紅葉が見られる。紅葉した葦鹿山は、山全体が燃えるように秋色に染まる。
俺の頬を夜風が撫でた。生温い感触だった。季節は初春で寒い冬を越えた。
冬の頃から俺は死のうと考えていたが、流石に寒いので暖かくなるのを待った。
暖かくなり始めて、冬に溜め込んだ気力を全部使って、今日まで生き抜いた。家を出る時に閉まりゆく玄関の扉から電気の消えた部屋を見て、ここにはもう二度と戻らないのだと思うと切なさが込み上げた。
俺の頭上には満月が輝き、皓皓と山を照らしている。足元の斜面には枯葉が黒ずんだ土と混ざり合って、踏むとカサカサと子気味良い音を立てる。近くの草叢から絶えず虫の鳴き声が聞こえている。
午前二時、家の扉の鍵を閉めてからアパートの裏に停めた自分の自転車で山の麓まで来た。自転車の前籠に入れたホームセンターで買った縄と、昨日新品の電池に入れ替えた懐中電灯だけを手に登山している。尻ポケットにハンカチと財布を入れて、スマホは家に置いてきた。
自殺者の心理を一般人は理解できない。俺は自宅のテーブルの上に遺書を置いてきた。遺書がなければ自殺として処理されないらしいのである。俺は他者に必要以上の迷惑をかけたくはない。
仕方なく書いた遺書には、「面倒くさくなったから死ぬ。誰の所為でもない」というような内容の短い文章を書いた。今も電気の消えた六畳間でその遺書は誰かに発見されるのを待っている筈だ。
きっと明日には冷たくなった俺の死体を誰かが発見し、通報を受けた警察がやって来て財布の中身から身元を確認し、俺の家族へ連絡が行くんだ。家族は俺の死体を見て、俺の適当に書いた遺書を読んで、何を思うんだろう。両親や妹が深い哀しみに包まれるのを想像すると、実家に帰りたくなった。もう長い間会っていなかった。
意味のない自殺こそが理想だったが、俺はそんなことができるような偉人じゃない。哲学の為に死ぬなんて真似は出来ない。俺は凡人で、凡人なりの理由で死ぬのだ。将来へのぼんやりとした不安だとか、儘ならない金銭面だとか。
具体的な自殺の理由を俺は説明することができない。複合的に色々な要素が絡み合って一つの矢印となり、俺をこの夜の葦鹿山へ導いたのだ。
一年以上前、通っていた大学を退学して長い期間付き合っていた彼女とも別れて孤独に部屋に閉じこもって生活した。世界は転んだ俺を置き去りにしてぐんぐん先へ進んでいく。しかも世界が進む方向が、俺の嫌いな方向なのだ。馬が合わない。仕方なく乗っている船が俺の行きたい方向とは全然違う方へ進んでいくのだ。船長に行って小舟を借りて大海原へひとり漕ぎだしたものの、結局は途方に暮れてしまった。
俺は先日この葦鹿山へ来て、絶好の首吊りスポットを発見した。道順を覚えておいたので、暗闇の中でも懐中電灯の光芒だけで迷わず進める。
少し前に自殺する時日を決めた。それから世界の雰囲気が変化した。自然を素直に美しく感じられた。俺の中の頑固ななにかが溶解したのかもしれない。歓迎すべき心境の変化だが、死を前にしてしかこの境地に立てないのは人間の絶望ではないだろうか。
夜空は晴れていたが薄雲が疎らに泳ぎ月光によってその淡い輪郭を浮かび上がらせている。微かな影が俺から伸びて斜めの地面へ投影されている。
俺はクヌギの木々が不気味な影を伸ばしている分かれ道まで来た。左へ行けば首を吊るのに最適な木が待っていて、右へ行けば山を下りられる。下りた先には牛丼屋があって、この時間帯なら長距離配送のトラック運転手が席に座って紅ショウガでも牛肉の上に載せている頃だろう。
死にたいわけじゃないんだ。でも死ななきゃいけないんだ。頭の中がぐるぐるして、夜中だというのに心臓が激しく鼓動してからだ全体が爆発しそうな興奮に包まれていた。静かな興奮だった。俺は噴火寸前の海底火山だ。分かれ道を左へ向かう。俺はおれを裁くのだ。俺の人生全体を俺の手で清掃するのだ。
擬木の階段を上がりながら俺は半ば俯いて、電気椅子へ向かう罪人の歩調で目的地へ向かっていた。
俺の視界で何かが光った気がした。雷か何かかと本気で信じた。天は晴れていて、間近で光を目撃したのに空気は振動せずドカンと鳴るわけでもなかった。何かが光ったのだ。大きな蛍のように俺の視界の隅で、木々の幹の合間を縫って黄金色の光が俺の視界を支配したのだ。
顔を上げて立ち止まった。妖精の囁きを耳にしたような気がして、俺は立ち止まったんだ。そうして暫く周囲を見回していると、真っ暗の視界の中から浮き上がるように光が奥から届き、消えていった。俺は夢中になった。
光の方へ向かう為に、擬木に縄を張って整備された道を外れ、木々が生い茂る闇の中へ入り込んだ。柔らかい土の斜面に足を滑らせそうになりながら、藻搔くように俺は光を目指した。
点滅する光は金色の輝きで山を照らした。別にそれほど明るいわけではないが、なんの光もない山の中だとかなり目立った。俺は懐中電灯を地面へ向けて気を付けながら、とうとうその場所へ辿り着いた。
山の中腹だった。葦鹿山は夜の風に騒めいている。俺の呼吸が荒くなった。土を掴んで這い上がるように俺が見たそれは、木々を薙ぎ倒しながら墜落したと思われる円盤──とどのつまりUFOの姿だった。
土が盛り上がり、木々の幹は根元から折れ曲がり、円盤は地面に斜めから突き刺さっていた。開かれた夜空から月光がそれらの光景を青白く照らしていた。俺は地面に縄を置き去りにして円盤に近づいた。
円盤が眼前へ迫った時、上縁の辺りが、黄金色に輝き俺は瞼を強く瞑った。眩しさに後ずさりした。荒い呼吸と心臓が五月蠅かった。勇気を出して一瞬だけ円盤に触れたらかなり熱かった。火傷したかもと土で汚れた俺の指先を見つめた。
スマホで記念撮影でもしようと思ったけれど家に置いてきてしまったのだ。俺はなにもすることがなくなって、立ち尽くしていた。
小学生の頃、宇宙人とかUMAとかが好きだった。親にねだってコンビニの書棚に置いてある怪しげなそういう本を買ってもらった。月の裏側にある宇宙人の基地や、太平洋に沈んだアトランティス大陸、南極の海に潜む巨大な未確認生命体。
UFOといえば円盤型の未確認飛行物体であり、宇宙人が地球を偵察する時の乗り物として有名である。或る一時期からアメリカなどで多く発見されるようになった。一昔前は葉巻型が多く目撃されたが、今は専ら円盤型だ。UFOの造形にも流行り廃りがあるらしい。
UFOは必ずしも宇宙人の乗り物だとは限らない。現に今の世界だって無人飛行機が誕生している。未知の惑星を調査するのに宇宙人がまさか貴重な仲間の命を乗せて宇宙船を運転させるとは思えない。
気付けばUFOは光らなくなっていた。完全に沈黙した円盤と、草木の騒めき。夜風が火照った俺の顔に吹き、俺は二回まばたきをした。
円盤の内部で物音がして、すぐに円盤の一部が開き始めた。上部の球形が口を開けるようにその深淵を覗かせた。月光からちょうど陰になって内部はよく見えない。俺が呆然と立ち尽くしている前で、突然蔭から真っ白い手が伸びた。手はよく見ると素肌ではなく、膨らんでいた。何かを着ているのだ。そう思っていると、更にもう片方の手が伸びて、次第に全身が現れてきた。
それは宇宙飛行士だった。俺がかつて見た月面着陸するアポロ宇宙船の船員が着用していたような、あの独特のシルエットを持つ宇宙服を着ていた。
小柄で、見たところ人間と変わらない。指の本数だって多分両手とも五本ずつだ。頭部に嵌めたヘルメットは外界の光を反射していて、俺から向こうの顔はまったくわからない。真っ黒いヘルメットに俺の懐中電灯の光芒だの月明かりだのが揺蕩っている。
幻覚でも見ているのか? 漠然と浮かぶその思考。夢を見ているとは思えなかった。現実の確かな実感が五感を通して伝わってくる。土や草の匂い。夜風の独特な生温い感触。肉体を内側からガンガン叩く心臓の痛み。寝ているなら俺はこんな憂鬱と付き合いはしない。
宇宙服を着たそれは、緩慢な動作で腕をあげて、両手を自身のヘルメットに伸ばした。そうして首元をカチャカチャといじくる作業音が鳴って、パチッという音が闇夜に響き、俺の目の前でヘルメットが外れた。持ち上げられたヘルメットは宇宙服の手前に置かれた。
金色にも見えた。桃色にも見えた。透き通るような、現実離れした色の髪の毛が絹のように垂れた。宇宙服を着た少女が俺の五歩ほど先に立っていた。恐ろしく美しい顔立ちだったが、地球人的、日本人的感覚として、少女はまだ高校生ぐらいの見た目に見えた。それよりも若いかもしれない。
「妾は宇宙人じゃ」少女が口を開いた。「ここはどこぞ?」
凛とした声だった。涼しささえ感じた。俺は一言も喋れなかった。相手は流暢な日本語を使ったのだ。宇宙船と思われる円盤から現れた宇宙服を着た謎の少女は月明かりに照らされて日本語で自分を妾と呼んだ。なにかのドッキリじゃないのか? 俺は周囲を見回した。カメラを構えた集団が現れて、驚く俺の顔を撮影し、反応を楽しむのだ。そうして後日面白おかしく編集された動画がインターネットに放流され、俺の滑稽な様子は世界中に公開され笑いものにされる。
周囲には誰もいなかった。少女は浅く息を吐いてから俺に話しかけた。
「聞こえんのか? もしかしてこれ壊れたのかのう?」そう言って首元の黒いチョーカーを宇宙服の膨らんだ指で触った。「お主はこの星の住民じゃろ? ここはどこじゃろう? 妾に教えてくれぬか? わからぬか?」
「いや、わかるよ」俺は慌てて返事した。「ここは地球にある日本っていう国だよ」
もっと詳細な住所が頭に浮かんだけれど、云わなかった。宇宙人に「ここは空穂市の葦鹿山だよ!」なんていう馬鹿はいない。
「ここは何県の何市なんじゃ? この山はなんていうんじゃ?」
俺は詳細な住所を教えた。空穂市の葦鹿山です。
「この国の都市なのか?」
「全然だよ。人口も少ないし、そんなに盛り上がってないね」
少女はそうかそうかと頷いてから、一歩二歩と俺に近づいてきた。少女の顔を改めてみて俺は慄然とした。特徴的な髪色の陰で、細く美しい眉が持ち上がり、その下に吸い込まれそうな大きな瞳が潤んでいる。薄桃色の小さな唇が固く横に結ばれて、何か言いたそうに全体の表情がむずむずしている。悪魔のような美しさを孕んだ少女だった。
何かを言おうとしているが、少女は何も言わなかった。俺は少女と向かい合う格好でお互いが沈黙した状況に戸惑っていた。
俺は態勢を変えようとして腕を動かしたら懐中電灯が少女の顔を真正面から照らしてしまった。顔を真っ白な光に染め上げた少女は腕をわたわたさせて言った。
「眩しいのじゃ。その灯かりを下ろして欲しいのじゃ」
「ごめん……」俺は懐中電灯を地面に向けた。少女の顔は再び暗闇が隠した。よくわからない空気が俺たちを包んだ。俺は焦燥感に駆られて喋った。「なあ、あんたは宇宙人なのか?」
「うむ。妾は宇宙人じゃ」少女はそう言って夜空を見上げた。俺は懐中電灯の電源を切った。少女は暫く夜空を見上げていたが首を振った。「妾がどこから来たのかここからじゃ見分けがつかん」
「その宇宙船で来たんだろ? 墜落したのか?」
「妾はこの星に調査員としてやってきたのじゃ」
「調査員? 何を調査するんだ? 人口とか文明発達度とかか?」
「いいや、もっと重大な任務を帯びて──」
そこまで言って少女は口を噤んだ。沈黙の隙間を縫うように夜風が吹いて、静けさが辺りを包む。俺は耳を澄ませた。遠くから何かが聞こえる。何かを叩くような音だ。俺は呼吸を止めて、音に集中した。そしてハッと気付いた。それはヘリコプターの音だった。パパパパパパパと音が聞こえる。
「これはなんの音じゃ?」少女は困惑したように聞いた。
「ヘリコプターだと思う。多分UFOが墜落したのを誰かが見てて、警察に通報したんだろう。それか、航空自衛隊が観測してたんじゃないかな」
「そいつらは何者じゃ? 妾はどうすればいい?」
「どうすればって……。警察とか自衛隊は別に悪い存在じゃないよ。捕まるだろうし色々質問されるだろうけどね。これまでこの国に宇宙人が来たことは一度もないから、どうなるかはわからないけど、悪いようにはならないんじゃないかな」
「お主は何一つ事態を理解してはおらんのじゃ!」
俺は次第に冷静になってきていた。俺は何をしているんだ? そういう想念が背中をつついた。こんなところで少女と戯れて、俺は何をしているんだ? 俺は何のために山に登ってきたんだ? 俺の決意を無駄にするなよ。俺の覚悟を足蹴にするべきじゃない。
「お主は妾を見捨てる気か?」
「見捨てるも何も、初めからあんたとは何の縁もないだろ。それにあんたが想像しているほど悪い方向へは転がらないと思うけどな」
「わかっとらんのじゃ、お主は妾に就いて何も知らんからそう言えるのじゃ」
「なあ、喧嘩する気はないんだ」俺は言った。「あんたの国じゃ、捕まった宇宙人は酷い目に遭わされたんだろうが、この国じゃ、そう酷いことにはならないさ」
俺は一歩後退した。漸く事態の異常さに気付いたのだ。夢見心地から一気に現実感が蘇り、俺の肝を冷やした。目の前の少女は得体のしれない生物で、今ここに警察だか自衛隊だかが向かって来てる。俺は自殺する為にこの山に登っていた一般人で、目の前の少女は俺に助けてもらおうとしてる。なにがどうなっているんだ? 一夜にして俺の人生や価値観がぐるりとひっくり返ってしまいそうだった。
ここで、「俺が助けてやる」と堂々と言えたら格好いいだろう。でも俺は言えない。自殺は現実から逃げ出す手段だ。俺は立派な人間じゃない。
「わるいけど、俺にはあんたを救えないよ。大人しく警察の世話になった方がいい。全然政府が公表しなかったら、俺がネットであんたの情報を流すよ。それが抑止力になって、悪い連中があんたの存在を隠蔽したり解剖したりしないようにしたい」
自分で言ってて馬鹿みたいだと思った。生憎少女もそう思ったらしい。
「わかってない、全然わかってないのじゃ!」少女は泣きそうな勢いで絶叫した。「妾をこのまま引き渡せば明日には人類は滅亡するぞ⁉ お主はそれでいいのか? まだまだ生きたいじゃろう? やりたいこといっぱいあるじゃろ?」
「いや、ないよ。俺はこの山に死にに来たんだ」
「いかれておる!」失礼な言葉を俺に吐き捨てて少女は円盤へ駆けていった。大きめな宇宙服で登りにくそうにしながらも円盤に登って、少女は何かしていた。俺は少女の後ろ姿を眺めつつ、プロペラの音が次第に近づいてくるのを聞いていた。
少女は月明かりの下、円盤から這い出た。両手には白木の箱を持っている。少女の頭より大きな箱だった。それを大事そうに両手に抱えて、俺の方へ小走りで近づいてきた。
「この箱には」息切れしながら少女は俺の顔の前に箱を見せた。「この世のすべてが詰まっておる」
俺は首を振った。「俺はこの世界に興味がもうないんだ。未練がないんだよ」
「嘘じゃ! そんな人間存在するわけがない!」
俺は少女が可哀想になったが、ここで無責任に助けるわけにはいかない。自分を救う事も出来ない奴が、他人を救えるわけがないのだ。
俺がいつまでもだらだら少女の相手をしているから向こうだって諦めきれないのではないか。俺は立ち去ることにした。
「本当に申し訳ないとは思う。でも俺は力になれそうにない。警察には協力的な態度で相手したほうがいい。悪印象を与えると随分陰湿な目に遭わされるぞ」
少女には俺の言っている言葉なんて届いていなさそうだった。呆然と泣き腫らした赤い目で俺を見上げているだけだ。唇が震えて何かを言おうとしているのだろうけれど、出てこないようだった。俺は逃げるように背中を向けて歩き出した。
もと来た道を帰ろうとして最後に振り返った。
少女はその場に蹲っていた。この世のすべてが詰まってるらしい箱は地面に置かれている。遠くから見る宇宙人は、弱弱しかった。
出会うべきではなかった。俺たちは絶対に出会うべきではなかった。。運命の悪戯なんだ。無慈悲な神様が最後に俺の人生にとんでもない爆弾を置き去りにしたんだ。
背後からすすり泣くような声が聞こえた。少女が泣いているのだ。
子供の頃、母が庭掃除しているのを窓越しに見ながら、和室に置かれたテレビで芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の人形劇を見た。俺には衝撃的な話で、恐怖に襲われ、見終わってからひとりで震えた。
当時俺はまだ幼稚園生だったが、それでもその頃には俺は自分が地獄に落ちると理解していた。
小学生の頃、友達が気紛れに蜘蛛の巣を壊し、笑いながら靴裏で女郎蜘蛛を踏みつぶす光景を信じられない思いで見ていた。彼は蜘蛛の糸の話を知らないのか? それとも知っていて信じていないのか? 俺の抱えているのと同等の恐怖を克服した上で今の行動をしたのか?……俺には同じ真似は出来ない。しかし、同じ真似は出来ないことを、誇りに思っていたじゃないか。罪悪感という透明な十字架こそ、俺の持っている唯一の誇りだったはずだ。……
どうせ死ぬんだ。やるべきことをやるべきだ。俺は非現実的な世界の中心でそう決意した。頭上には星々が無感情に瞬いている。
「なあ、宇宙人」俺は蹲る少女の頭上から声をかけた。つむじがあって、何の明かりもない夜の闇の中だと白髪のように見える髪の毛が揺れた。「お前さ、死にたいと思ったことあるか」
宇宙人は顔を上げずに、小さく呟いた。「ある。……今じゃ」
ばらばらと夜気を叩くヘリコプターの音はすぐそこまで迫っていた。
「立つんだ。ここから逃げるんだよ。早く立って走り出さなきゃ」
宇宙人は驚いたように顔を上げて、俺の真意を確かめるように充血した瞳で俺の面を覗き込んだ。
「早くしろって」俺は自分の行動が照れくさくて、気障な台詞ばかり言っている。もし俺が目の前の少女の立場だったらきっと腹が立つだろう。「時間ないんだろ?」
「う……うん」少女はぶかぶかの宇宙服で再び忙しなく動き出した。円盤の内部に戻って、何かのスイッチを押した。円盤全体が、壊れかけの洗濯機みたいに振動し、轟音を立て始めた。少女に頼まれて俺は地面に置かれた宇宙服のヘルメットを持った。
俺たちはヘリコプターから逃げるように下山した。懐中電灯の光は上空から発見されないように消した。少女は真っ暗な視界の中、慎重な足取りで擬木の階段を降りた。俺は度々振り返って少女の姿を確認した。
山の麓の公園で俺の自転車は前輪を傾けて待っていた。まるで俺が戻ってくることを確信していたような傾きだった。
前籠に懐中電灯と白木の箱を入れた。少女は俺に箱を渡すのを一瞬躊躇したが覚悟を決めたらしかった。箱はかなり重くて、中に何が入っているのか見当もつかなかった。
俺は自分が縄を山に置き忘れたことに気付いた。仕方ないさと長く息を吐き出した。
少女を後ろに乗せて、自転車を漕ぎ始めた。ペダルが重くて立ち漕ぎせざるを得なかった。街灯が寂しく照らしている路地に出た時、首だけで振り返って山を見た。真っ暗い空に真っ黒い山が聳えている。プロペラ音は継続していたが、その姿は見えなかった。
俺を抱くようにして少女は乗っていた。ヘルメットの感触が背中に固い。俺は行きと同じ道で行こうとした。しかし行けなかった。人影があったのだ。俺が本来なら通るはずの道の真ん中に誰かが立っていた。こんな夜中にである。
そいつは俺たちを見ていた。俺は目を凝らしたが、月明かりしか頼るもののない道路ではやはりよく見えなかった。
人影は一歩ずつ俺たちの方へ近づいてきていた。少女を連れている罪悪感の為に、俺はハンドルを傾けて、目撃を避けるため別の道へ向かった。遠回りになるし、路地裏を通るから夜中だと少し怖いルートだったが、仕方ない。
幾つかの路地を通り抜け、赤信号を無視して大通りを横切り、誰もいない夜の住宅地を通り抜ける。どこも静けさに包まれていた。町全体が眠っているのだ。
春の夜風が俺たちを包んだ。坂を下って俺の住む安アパートへ最後の道路だった。坂道で勢いがついた自転車のチェーンがジャラジャラジャラジャラと鳴る。
アパートの裏に自転車を停めて少女を下ろした。彼女は不安そうに周囲を見回してから、俺の服の裾を掴んだ。俺たちは足音を忍ばせてアパートの錆びた階段を上がった。
冷たく蒼ざめた蛍光灯が通路の天井に光っていた。床で小さな蛾が羽休めをしている。俺が通ると羽をひらひらさせて闇へ消えていった。
俺はポケットから部屋の鍵を取り出して開けた。先に少女を部屋に入れて、俺も続く。玄関を閉める時、不思議な感慨に浸った。
俺は一時間前に、二度と戻ってくることはないだろうという気持ちでこの部屋を出て鍵を閉めた。しかし戻ってきた。想像もつかない理由で。
玄関を閉めて靴を脱いで廊下の電気を点けた。薄明りの中、少女は宇宙服のまま土足で廊下を歩いているから俺は止めて、玄関で脱ぐように指示した。
俺が少女の着替えを持ってくるために居間へ向かおうとしたら、彼女は俺の腕を掴んだ。俺は振り返った。少女が笑った。
「ありがとう、私を助けてくれて」
桜が咲いたような笑顔だった。
俺は久しぶりに自分が人生の選択肢を間違えなかったことを実感した。そうして自分の行動を少し誇りに思って初心な少年のように赤面した。