精霊の実
白き石の斧に、苧麻の弓。黒き石で作った鋭い鏃を付けた矢が五本。そのうちの一本には、カナイのお婆が特に呪いを込めてくれた。
「行くのか、チガヤ」
長の言葉に、日焼けした浅黒い肌の青年は頷く。
「日の出に発つのが最も良いと、カナイのお婆が」
「そうか。勇者に精霊の加護のあらんことを」
精霊の名を唱えながら長が差し出した祭事の器には、嗅ぎ慣れぬ匂いの液体がなみなみと注がれていた。
両手で受け取ったチガヤは、それを口に含む。
ぴりっと舌が痺れるような感覚。
「魔を祓う実をすり潰してある」
液体を飲み干したチガヤに、長は言った。
「これで、魔物の呪いにも惑わされはしまい。だが、もしもそれでも力及ばぬときは」
そう言って振り返る。
長の背後に控えていたのは、カエルバの娘ヒユだった。ヒユは赤黒く乾いた果皮の欠片をそっと差し出す。
「これを齧れ。精霊の力満ちたこの実を」
長の言葉に頷きそれを受け取ると、チガヤはヒユを見た。
「戻ったら、俺と夫婦に」
その言葉に、ヒユは頬を染めて頷く。
「では、行ってくる」
チガヤは身を翻す。
朝日の昇る方角へ。
精霊の加護の途切れぬうちに。
東の狩場に魔物が現れてから、すでに月は二度満ちた。
キランの一家がまずそこで命を落とした。それから今日まで、合わせて何人が犠牲となったであろうか。
シカやウサギといった獲物たちも、そちらへ逃げれば人が追っては来ぬと察し、狩りの成果は目に見えて減っていた。
女たちの採る木の実も、そこに生っているものは遠目に見るばかりで手に取ることはできぬ。そのまま冬が来たら、精霊の加護を受けたこの氏族とて、滅びる以外にないであろう。
だから、魔物を討つ勇者が選ばれた。
腕の立つ男は三人いたが、精霊が選んだのはチガヤだった。
お婆にそれを告げられて以来、チガヤは川辺を丹念に歩き、石を集め、研いだ。
精霊の歌を歌い、火に晒し、呪いの力を編み込んだ。
久しぶりに足を踏み入れた東の狩場は、チガヤの記憶の中の景色と相違はなかった。
変化といえば、人が踏み込まなくなったがために、いつも使っていた通り道を草が覆ってしまっていたことくらいであった。
人以外の生き物は、景色を変える力を持たぬ。
それは、いかに強い力を持つクマであろうと、オオカミであろうと、同じことであった。
狩場を奥に進むと、やがてそこに恐ろしい魔物が現れた。
七つの首を持つ、天を衝かんばかりの大蛇。
チガヤの姿を認めるや、大蛇の全ての頭が同時に鎌首をもたげ、裂けんばかりに口を開く。
精霊の戦士は、恐れてはならぬ。
チガヤは精霊の名を口にしながら弓を引き絞った。
狙いすました黒き石の鏃は、中央の蛇の両目の間を貫いたかに見えた。だが、精霊の加護を得たはずの矢を受けても、蛇はまるで意に介さなかった。
七つの首が激しく上下し、チガヤに迫る。チガヤは身を翻し、距離を取って矢を放つ。だが、蛇の身体に吸い込まれた矢は、やはりその巨躯を傷つけることがなかった。
狩場の中を追い回され、五本のうち四本の矢を虚しく射たチガヤは、とうとう崖の上に追い詰められた。
魔物に追われた他の者たちも皆、この崖から落ちて死んだのだ。
チガヤは冷たい汗にまみれた手で、最後の一本の矢を手に取る。
最も硬く、鋭い矢。
チガヤが特に鋭く研ぎ澄まし、お婆が精霊の呪いを込めてくれた矢。
迫りくる七首の大蛇に向かって矢をつがえようとして、チガヤはヒユの顔を思い出した。
ヒユから手渡された、赤黒い果皮のことも。
精霊の力満ちた実。
腰に括り付けていた麻袋からそれを取り出し、精霊の名を唱えながら齧る。
鼻に抜けるような爽やかな香気と、痺れるような辛味。
チガヤの視界がいっぺんに晴れた。
目の前に迫っていたはずの七首の大蛇が、消え失せていた。
代わりにそこにいたのは、年経た一匹の小さな猿であった。
猿はにやにやと人のように笑いながら、身体を揺らしていた。まだ、己の呪いが破れたことに気付いていないようであった。
チガヤは精霊の名を唱え、真っ直ぐ猿に向けて弓を引き絞った。
異変を感じた猿が表情を強張らせたときには、その心の臓を黒き矢が貫いていた。
椒。
チガヤは、いつかヒユがこの実のことをそう呼んでいたことを思い出す。
猿の死骸を前に、チガヤは精霊の加護に感謝した。
縄文時代から山椒は食されていたようで、山椒の付着した縄文土器が見つかっているそうです。そこから着想を得ました。
歴史考証はザルですので、ご容赦を。