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③ 苦界にたゆたう――2

情愛絡む蔦の山道、男を巡る女の戦い

乙女は密かに秘せる想いのアリアを謳う

 午前の日は燦々(さんさん)として、古びた駅舎、白む舗装路、深緑に猛る山々を色鮮やかに存在感を増さしめていた。船寄山駅の駅前広場には山おろしが吹き付けて、暑気を払っている。頭上に広がる青空は、あくまで高く、雲一つなく、山脈を超えて広がっている。最も近くに山頂を見せているのが船寄山だ。連峰というほど大層なものではないが、それでも重なる山々の入り口となる青い山であれば感慨もひとしお。ここから遠くの山々を眺めれば、人々に娯楽を供しようとて()えて駅を作ったのも然もあらんといった情景。


 かつては役小角(えんのおづぬ)が登ったとの伝説もあるが、この地域の一部の人の口にしか上らぬし、文献もなければ、そもそも伝説の時期と生きていた時期とがあまりにも懸け離れているのだから、ただのデマ、近辺の住人がこの地この山に箔を付けようとして吹聴した法螺話の一つだろう。善意で解釈するならば、登ったのは役小角ではなく別の行者だったのを、伝言するうちに誤ってしまったか。


 もしも信頼するに足るほんの僅かな資料があるか、もしくは地域住民の中だけでも民話と呼べるほど広がっているのなら、復興事業に躍起になっている市議会が大々的に、みっともない看板を厭というほど立て散らかすに決まっているのだが、そうした俗臭芬々(ふんぷん)たる商業的な見苦しさはなく、心得のある者にとっては、例の話が俗説にもなっていないのが幸いだった。もっとも、市議会にとっては地域の自然物をマネタイズ出来ずに悔しいばかりであるのだが。


 さて――


 米彦が駅を出ると、そこには山口姉妹を除いた全員が、紗仲も含めて、既に集まっていた。和也は、


「お、今日はちゃんと来たな」と、彼をからかった。


「何だよ、今日は、って」


「だって、なあ」と光琉が言うのを、


「この間はすっぽかされちゃったし」と朱莉が同意する。それに続けて八重が、


「電車に乗ってから面倒臭くなって途中下車しただなんて。今日もそうならないかと紗仲ちゃんと心配してたところ」


 先日の天体観測に行けなかった理由を、彼はこのように誤魔化していた。ここで紗仲に出会ったということを何となく隠しておきたかった。


 その彼女は今、目の前で、小首を傾げ、くすっと目配せをした。普段と変わらぬ白いサマードレスに黒いベルト、首、手首にも同じ素材のものを巻いている。垂らした片手には彼女が友人達と初めて会った日に被っていた帽子を提げていた。今日になってようやく和也はうっかり持ち帰ってしまったことを思い出し、彼女に返したのだ。


 八重は、「紗仲ちゃんがいれば来るんだねえ」


 朱莉は、「ね、私達だけだったら来ないのに」


 そんな調子の友人達を無視して米彦は紗仲の腕を取って輪から外れて、


「なあ、昨日のことだけど」と小声で。


「昨日?」と、紗仲は少し考え、それから思い当ったようになり、「ああ、昨日も何でもなかったわ。結界に触れただけだった。だから大丈夫・・・・・・」


「そう」


「だけど変よね。一度来て何もないと分かったのだから、もうここを探さなくてもいいでしょうに。気付いていないのに目星を付けたみたいに・・・・・・」


「何か、俺にも手伝えることがあるなら・・・・・・」


 と俯いたのを、


「大丈夫よ。心配しないで。ちゃんと私が守っているから」


 と、にっこりしたのだが、その笑顔は米彦に寂しさを与えるだけだった。彼は思う、やはり自分と彼女は違う世界の住人なのではないか、そして自分は彼女の役には立てない、そして自分達にとって大切なものを守ろうとすることさえ出来ない、近付くことさえ叶わない。紗仲は彼がこのように感じているなどとは露とも知らず。


 朱莉は二人でこそこそしている彼らに向かって、


「おおい、今日は皆で来たんだからさぁ、二人っきりになってないで」


 と口を尖らせて呼び掛けた。


 紗仲は、彼がまた何かを言おうとしたのに気が付きながらも、そうしたものを聞く機会は幾らでもある、今は朱莉の言う通り、皆と一緒に来たのだから、と新しい友人の機嫌はあまり損ねたくなく、米彦の手を取り戻って行って、


「ごめんね。さあ、行こう!」


 と、意気込んだのだが、


 八重に、「あ、まだまだ。もう二人来るから」


 と、気勢を()がれた。光琉が続けて、


「そ、高緒ちゃんと倫子ちゃん」


 紗仲は首を傾げて、はて、といった心持。


 八重は、「あれ、そう言えばまだ会ったことなかったっけ」


 高緒は時々放課後の駄弁りに参加することもあるが、そう言えばここ数日はそれに加わらず真っ直ぐに帰っていた。


「私達と同じ塾に通ってる子だよ」


 と、それから彼女のことを教えようとしたが、はたと困った。さほど詳しくはなかった。まあ、それは仕方がない、中学も違うし知り合ったばっかりだし、そう思いながらも、高緒のことを良く知らせるべく、


「いい子だよ」


 と、実に明快な紹介をした。


 それから待ち合わせの時刻が迫り、それでも中々やって来ずに、和也は、


「米彦、お前がこの前すっぽかしたから」と、粘っこい目付きをし、「お前が何の連絡もなしに急に来なかったから、ああ、この人達にはこういう対応をしてもいいんだって、そう思って来なかったらどうするんだよ」


「いやいや、それは無理があるだろ」


「え、どうしてくれるんだよ」


「馬鹿か、お前は」


「来ないのかな、来ないのかな。山口さんが来ないなら俺も帰る」


 なんて遂には駄々を捏ね始め、八重はその様子にケッとなっている。


 そんな様子には我ら関せずと光琉と朱莉が(むつ)まじく歓談しているのを眺めやり、それから米彦と紗仲を見比べて、


「いいよな、米彦は。紗仲さんがいて。光琉は椎名ちゃんと仲いいし。俺はどうするんだよ、山口さんが来なかったら一人じゃん」


 それに応えて紗仲が言う、


「八重ちゃんがいるじゃない」


 と、不意の言葉に八重は、彼女に似合わずドギマギとし始めたのだが、そのぎこちなさにも気付かぬ和也は、


「ええ」と横目で彼女を見、「俺は女の子がいいの」


「な・・・・・・」と、八重は言葉を失う。


「米彦よ」と、和也は唇をニィと歪めて、「自分だけ幸せになろうたぁ、山口さんが来なかったら二人きりには金輪際させねえ」


 八重は、「お前なあ・・・・・・、いい加減にしろよ・・・・・・」


 そう言って固く握った拳を震わせたのは、彼の情けない嫉妬を見たからか。


 和也は自分で言ったことも鑑みずに余裕綽々であり、紗仲は色々と困っており、米彦は呆れ、八重は黙り込んでいる。どうにも遣り切れない雰囲気を余所に、光琉と朱莉は爽やかな笑い声を上げていた。


 と、この場を収拾させるべく、


「ごめんねえ、待ったあ?」


 と、改札口から山口姉妹が駈け出て来た。高緒はいつも通りにニコニコと。倫子はちょっと躊躇(ためら)いがちに余所余所しく。


「いや全然! たった今集まったばかりだよ!」


 と和也は諸手を上げて迎え入れ、大はしゃぎをした。


 紗仲はそっと溜息を吐き、表情を作って歓待しようとしている八重を横目で見、八重ちゃんは苦労しそうだなあ、などと頭上高くから落ちてくる鳶の声を聞き、それに混じる鴉の声を耳で追った。


 と、ふっと視線に気が付いて、そちらを向けば、自分を不審がっている高緒の黒い瞳にぶつかった。


 彼女は(いぶか)しんでいた。米彦の隣、それも腕が触れんばかりの近さにいる初めて見る女を。それで、ゆっくりと歩み寄り、


「こんにちは」


 と低く硬い挨拶をした。


 立ち塞がるように相対されて気まずくも感じたが、その緊張を相手の分まで解そうと、


「こんにちは」と、紗仲は明朗な良く透る声で応じたものの、高緒の陰湿な目に気圧されて、「どうも、初めまして・・・・・・。えへへ・・・・・・」


 じりじりと額に脂汗の染みてくるのを覚えたのだった。


 妙な緊張が周囲に漂い、八重がその間に割って入り、互いを紹介したのだが、一向に雰囲気は柔らかくならず、それどころか相手が米彦の恋人だと聞いた高緒が一層物凄い気配を滲ませた。どうしたものかと八重は自分の悩みもすっかり忘れて困っている内、


「紗仲ちゃんね」と、高緒は緊張を崩して、「高緒です。仲良くしようね」


 と、親しみを込めて彼女の腕に手をやった。


「うん! 仲良くしようね!」


 そうして和気藹々と紗仲、八重、高緒の三人はお喋りを始めた。天まで届く喧しさだ。しかし男達の目にはそう見えていたのだが、仲介を果たす八重の苦労はどれほどであったか、舌語に尽くせぬ。


 姉の様子を知ってか知らずか倫子はいつの間にやら朱莉や光琉と打ち解けていた。


 そうして一同の和んだ風景に満足をして、


「それじゃあ、皆集まったし、そろそろ行こうか」


 と和也は促した。これが何事もない、楽しい休日になったならどれほど良かっただろうか。中止にするならこの時だった。とは言え、先の見えぬ人の身であれば仕方のない事ではあるのだが。


◆◆◆◆◆◆◆◆


 先日和也達が天体観測をした展望台のある峠まではバスで行った。あの日も米彦以外は駅からバスに乗ったのだったが、米彦はそんなものが通っているのを知らず、自分の脚で向かおうとしていた。結果として山で迷い、紗仲と出会うことになったのだから、無知にも利があると言おうか、縁は奇なものと言おうか。


 峠のバス停で降り、展望台とは逆方向へ向かうと山頂へ続くハイキングコースが口を開けている。舗装のされていない山道であり、三、四人が横並びで歩ける程度には(ひら)けているものの、崖は剥き出しで木の根に貫かれる岩の苔むしたものや、太い枝に絡み付き垂れ下がった蔦が散見される。靴はすぐに土で汚れ、色褪せた落葉を踏み締める。鬱蒼とした山林の中を歩んで行けば、山頂にはちょっとした草原が広がっているが、このような道へ好き好んで入り込み、そこまで行く行楽客はまずいない。紗仲が布いたという人払いの法などなかったとしても、この山を登る者はいなかっただろう。


 山道には所々に梢から漏れた光の斑が落ち、ひんやりとした木陰の風が吹き通っていた。地面は金緑に彩られ、空気には香しい山の気が満ちていた。


 穏やかな森林浴、まさにそのものだった。


 光琉と朱莉は頭上や足下、木立の向うに見える町並を、あちらこちらと指差しながら、山の植物、景色を楽しんでいる。時折、倫子がやって来ては、朱莉と漫画やアニメの話で盛り上がった。


 彼女が一番好きな作品は、とある変身ヒロインもののアニメシリーズで、うっかりその題名を口にした時には真赤になって恥ずかしがったが、朱莉が、「私も見てるよ、面白いよね」と言うと、満面の笑みになって喜んだ。幼女向けを謳っているが、大人でこれを鑑賞している者も多い。単純にキャラデザインが可愛く、戦闘シーンが凝っているために、大きなお友達が沢山いた。とは言え、基本的な客層は子供とその親だが。


 このアニメの商品展開は中々えげつなく、主人公達の人形を揃えようと思っただけでも、まずはメインの味方キャラクターで五体、そして彼女らは場面ごとによって種々様々な職業や属性のコスチュームに変身するため、着せ替え用の衣装が、私服、戦闘服、学生服、アイドル衣装、レーサー、看護師、カメラマン、キャビンアテンダント、消防士、マジシャン、エトセトラエトセトラ、数え切れるものではない、それらを人数分。それから、なりきりグッズで変身アイテムのブローチと魔法のステッキ、子供サイズの衣装もあり、各キャラクターの特徴となるアクセサリーもある。マスコットのぬいぐるみがあり、主人公らは大抵、日常生活ではアイドルとして活動しているため、彼女らの歌う楽曲もある。声優の行うライブもあり、毎年春には劇場版が上映される。子供向け雑誌の表紙を頻繁に飾り、特別なおまけが付く回はいつもよりも高い。それから当然、キャラクターのイラストが印刷されたお菓子やふりかけ、下敷きやノート、筆箱などもある。


 シリーズが始まった頃は、公式グッズの種類も細やかなものだったのだが、年月を重ねる内に、企業として、如何に多くの収益を上げられるのかが考慮され、拡大されていった。いつしか新シリーズが企画される際に最初に考慮されるのはテーマやストーリー、キャラクターではなく、どれだけ多くの商品展開がされるかになっていた。


 この作品の歴史は古かった。そもそもの大元を辿れば、約五十年前の漫画にまで行き着く。如何にこれが有名作品で、朱莉が漫画アニメ好きとは言っても、原案の漫画までは読んでいなかったが、倫子はこのアニメシリーズの大ファンとて、そこまで手を伸ばしていた。しかも彼女が持っているのは当時に出版されたものの初版本だ。この年にしてかなりディープなマニアと言える。


 朱莉は、「凄いね。昔の漫画なのにどうして持ってるの?」


 倫子は、「友達に貰ったんです。正確には、借りたんですけど、そのままで」


 朱莉は笑い、「駄目じゃない。返さなくちゃ」


 倫子は、「そうしたいのは山々なんですけど、もう会えなくなってしまって」


「そうなんだ。・・・・・・」


「いえ、いいんです。もう昔のことですから」


 どういった事情で会えなくなってしまったのか、引っ越したのか、喧嘩したのか、それとも、死んでしまったのか、倫子が自分から言わないのなら朱莉からは聞けなかった。しかし当の本人はしんみりした気分も既に吹き飛ばし、光琉に向かって彼はこのアニメを見ているか聞いた。光琉は見ていないと答え、少女を慈しみに満ちた視線で包んだ。当人としてはそのつもりはなかっただろうが。


 倫子は頬を紅潮させ、口を薄く開いた。彼に見詰められればどんな少女でもこうなるだろう。そして、はっと自分を取り戻すと、姉の方へとちょっかいを出しに駈けて行ったのだが、


 その姉はと言えば――


 米彦にべったりとくっついて、紗仲が何かを言えば割って入り、彼が紗仲に声を掛ければ代わりに応えるといった調子で、


「ねえねえ、綾幡くん、昨日の数学の時間でさ、因数分解やったでしょ。あれって難しくなかった? 立花さんが当てられた問題、高校受験レベルじゃないよね。私が当てられてたら駄目だったかも。綾幡くんは解けた?」


 などと、紗仲には加われない話を敢えてしていた。


「まあ、何とか。・・・・・・紗仲は数学は得意?」


 そう紗仲に話を振ろうとしても、


「すごい。さすがだね。綾幡くんは北高目指してるんだもんね。私なんかは全然で・・・・・・。明後日さ、塾に着いたらノート見せて? あ、そうだ、これからさ、早く塾に行こうよ。それで、朝の時間に勉強を教えて欲しいな・・・・・・」


 なんて、自分の方に持って来る。


 紗仲は最初こそ余裕を持って聞いていたのだが、段々とやきもきしてして来、それがイライラとして来て、目深に被った帽子を更に引き下げ、むっすりとして唇を尖らせた。


 姉に取り付けない倫子が仕方なしに話し掛けに来ても、


「さあね、お姉ちゃん漫画はよく分からないから」


 と、ぶっきら棒に言い放つ。そんな彼女も前世では、倫子が好きなアニメを心から楽しみ、原作漫画は勿論のこと、グッズだってそこそこ集めていたのだが。


 そんな態度に戸惑った倫子が、


「お姉さん、その首に巻いているのは何?」


 と、チョーカーを指差し質問しても、


「ああ、お洒落よ、お洒落。可愛いでしょ」


 などと冷たい応対をする。


 疎んじられた倫子がついに拗ねて、


「全然、可愛くない。変なの」


 と意地悪を言う。すると紗仲は眉間に針を立て、


「怪我をしているのよ。首を怪我。包帯の代わり」


「手首も?」


「そう。いっぱい血が出て貧血気味だから、ちょっと放っておいて欲しいな」


 般若が如き面相に恐れをなしたか、倫子は再び朱莉達の元へと戻って行った。


 不意に高緒が立ち止まり、背伸びをして口元に手を当て、米彦に耳打ちした。そしてクスクス笑い、困惑している米彦を見詰め、腕を取って満足そうに歩き出す。


 彼女が何を言ったのか、紗仲は順風耳で聞いていた。「国語の宿題のプリント、塾に忘れて来ちゃった」そんなことを何故わざわざこっそり言ったのか、米彦は分からず困惑したが、紗仲には明白だった。内緒話のような遣り取りを私に見せ付けたのだ。


 紗仲は悶々とし、辺りに殺伐とした気を流していたのだが、高緒はそれを背に受けて、勝利の笑みを米彦に向けていた。


 一行の最後尾では、ガムをゆっくりと噛みながら、八重がその様子を苦く見ていた。


 バスに乗っていた時、八重は高緒の隣に座り、彼女が米彦を気に入っていることを知りつつも機会がなくて言いそびれていたのを謝り、それとなく彼を諦めるよう伝えようとした。


 しかし高緒は、話をする内に、八重が紗仲について余り知らないらしく、彼女に関する説明が漠然としているのに気が付くと、


「ねえ、まだ私が入る余地があるんじゃない?」


「いや、多分、・・・・・・。もう付き合ってるみたいだし・・・・・・」


 高緒はしばし黙り込み、それから言った。


「だけど、そういうのって、早い者勝ちとかじゃないんじゃない」


 八重は気の毒そうに強く光る瞳を覗き込んだ。高緒は彼女が何を言わんとしているのかが分かったのだろう。


「いやよ。諦めないから。絶対にね」


 そう言って薄く笑った。


 可愛らしい子だと思っていたが、根が深い。実際に色々なことがなければ、どんな人間か分からないものだ、八重は思い、ぎこちなく舌を出してガムを膨らませた。


 だが、彼女の心理を正確に言えば、あの三角関係について意図的に悩み、今の状況を意識しないよう努めていたのだった。


 ガムがはじけて顎にくっ付いた。八重は慌てて剥がすと、口に入れ戻そうとしたのだが、考え直して、脇に捨てようとした。が、指に引っ付いて中々取れず、真赤になって手を振り回した。


「何やってんだよ」


 八重の隣をとぼとぼと歩いていた和也が溜息交じりに言った。


「うるさいねえ。ガムが取れないんだよ」


「普通に紙に吐けば良かっただろ」


「うるさいね」


 八重は緊張していた。和也と二人、肩を並べて歩いている。彼こそは、決して口には出さないが、彼女の意中の男だった。


 他の人達はそれぞれの組から離れないし、倫子ちゃんも自分達の方へはやって来ない。前方に友人達こそ見えるものの、これは、彼と二人きりでいるのも同じだった。


 その和也と言えば、つまらなそうにしているが。


 考えてみれば、和也とこうして二人きりで話をする機会など、小学校を卒業して以来なかったのだ。その小学校にしても、高学年になれば一緒に校門をくぐることもなく、教室では余り話もせず。


 幼馴染であったのに、年を経るごとに疎遠になってしまっていた。想いは募るばかりだと言うのに。中学に上がってからは、言葉を交わすこと自体が稀になってしまっていた。


 中学も三年になったばかりの頃、朱莉ちゃんが佐倉に一目惚れをしたと聞いた時には、しめたと思った。佐倉は藤岡と同じグループだった。


 運命が私に向かって進んでくるような気がした。


 それからは藤岡達と五人で溜まるようになったのだが――。


 ラ・ロシュフコーが言うには、誰も恋の話をしなければ決して恋になど落ちなかったであろう人達がいるそうだ。同じクラスにも彼氏持ち、彼女持ちの人らがいるが、彼らはそうした人種だ。恋なるものがあると聞いたから、伝え聞く恋人なるものを作ってみただけの。それが素晴らしいものだと聞いたから、それのごっこ遊びをしているだけの。彼らがしているのは恋などではない。単なる真似事だ。


 だが、私は違う。私のものは違うのだ。


 ・・・・・・。


 ジッと胸の奥が痛くなる。目頭が熱くなって、今にも涙が零れそうになる。いつでもそうだ。彼と一緒にいることが辛くて、立ち去ってしまいたくなる。だが、五人でいる時には、他の人達に早く帰って欲しくなる。


 何も話さなくてもいい。ただ近くに彼の体温があると知っていたい。彼の側で、心臓が破れるほどの鼓動を感じていたい。


 それならばさっさと気持を告白して、そうした関係になってしまえばいいのかも知れない。だが、それは、死んでしまうよりも怖いのだ。言った結果が、良いものになるにせよ、悪いものになるにせよ、その結果がどうなるか、ではなく、言う事そのものが。


 死というもの。それの何が怖いのか。死んだ後は所詮、無だ。感じることも考えることもない。当然、恐怖という感情もない。死んだ後の体が、いくら焼かれようが埋められようが、一向に感覚しないし、未来永劫することもない。今生きている自分には何の関係もない。死ぬことなど、何物でもない。死など、重大なものにはなりはしない。


 人々が死と聞いて恐れるのは、そのものではない。概念だ。恋と同じくそれが恐ろしいものだと聞いたから、怖い気になっているだけだ。冷静なれば、それは怖いものでも恐ろしいものでも何でもない。


 私は告白が恐ろしい。人がこれを聞けば、清水の舞台から飛び降りる覚悟で言ってしまえば良いと忠告してくれるのだろう。鼻で笑う。そちらの方がよほど楽だ。・・・・・・。


 しかし、もしも彼が私を愛してくれるのならば、それはどんなに素敵なことだろうか。


 たとえば、もしも、仮に一日、彼が私を愛してくれるのならば、その後は永遠に地獄で責めわれたって構わない。いや、仮に一時間でも、五分でも。


 釜の底でも針の上でも、無上の幸せに浸っていられるだろう。


 言えないことが、告白出来ないことが、感情を煮詰め、濃くなっていく。凝固して、(いわお)のように硬くなる。ときはの山の岩つつじ、か。岩石の表面を春嵐がぼろぼろと(こぼ)していく。暗い(おり)が心臓に溜まる。真黒い煤は堪らなく苦く、辛く、舌が痺れる。吐きそうだ。


 夜、一人で眠る時、知らず涙がぼろぼろと(こぼ)れていく。


 だが、私に何が出来るだろう。ただ生ぬるい体を持て余すばかり。


 余りにも実のないことだ。それは分かっている。こうしたものは何時までも続くものではない。いずれは惨めな結末が来る。


――だが、それは、少なくとも、今ではない。藤岡は高緒の可愛さに惹かれてぐにゃぐにゃしているが、その高緒は綾幡に好意を寄せている。それが救いだった。


 八重は息を継ぐのも辛い様子で、ガムを一枚口に入れた。


 和也は大きな溜息を吐いて項垂れた。


「何で米彦ばっかりモテるんだよぉ。紗仲さんも、山口さんも。ああ」


 八重は急く心を感付かれまいと、実に緩慢な咀嚼をした。


「何でなんだろうな。な、山吹」


 名前を呼ばれ、心臓が大きく一つ鳴った。強いて声を落ち着かせて、


「何でだろうねえ」


「俺って、駄目なのかなあ」


 駄目なんかじゃない。もしも藤岡がその気になれば、世界中のどんな女でも惚れさせることが出来るだろう。時代が時代なら、王妃を惚れさせ、国王にだってなれるはずだ。――八重はそう信じていた。


「山吹よ。どう思うよ」


 彼女は喉を震わせて、


「駄目なんかじゃないよ。・・・・・・」


「俺って、魅力ねえもんなぁ」


 そんな風に言わないで欲しい。彼が自分をそんな風に悪く言っているのを聞くと、悲しくなる。


「そんなこと、ない!」


 周りの女が皆、馬鹿なのだ。藤岡がどれだけ素晴らしいのか分かっていないなんて。確かに完璧な人間ではないし、ぱっと見て、すぐに分かるような魅力があるのではない。それでも、世界一素敵な人間だ。歴史上、これまでだって、これからだって、彼ほど素敵な男は現れないだろう。見る目のある女が今いないのは私にとっては幸いだが、いずれは、それに気が付く女も出て来るだろう。そして、彼と付き合うことになるのかも知れない。・・・・・・。


・・・・・・だけど、それは誰なのだろう。


 その時、私は――。その彼を愛する女を許せるだろうか。


 和也の足がふと止まった。八重は横目で見、躊躇(ためら)い、そして自分も足を止めて彼と向かい合った。


 浅黒く年の割には精悍な顔立が、彼女を真向から見据えていた。


 八重はガムを噛むのを忘れていた。その視線に怯えながらも、目を逸らすことなど出来なくて、じっと、和也を見上げていた。


 視線は絡み合い、二人は見詰め合う。


「山吹よ、そう言うならさ」


「なによ」


 喋るのにガムが邪魔だ。舌の上で硬くなっている。唾液が滔々(とうとう)と流れ出てくる。――自分を見詰める彼の褐色の瞳の力強さを、一体どれだけの女が知っているだろう。


「頼むよ」


 そう言って和也は、そっと、八重の肩に手を置いた。・・・・・・。


 体が竦んだ。それを振り払う気力など彼女にはない。両目をいっぱいに見開いて、彼の瞳を見詰めている。


 彼は、これまで見たことがないほど真剣な表情だった。


 唾は口腔に満ちている。早く飲み込まなければ、口の端から溢れてしまうかも知れない。喉を震わせた。


 自分がどんな顔色をしているか、八重には分かっていた。だがどうすることも出来ない。


 和也は内緒話のように顔を少し近付けた。


 私は――。


 八重は喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。口の中が空になると、自然と唇が開き、喘ぐように胸が起伏した。


「な、なによ」


 彼の顔が近い。このような時が来るなんて、これまで思ってもいなかった。願ったことはある。だがそれは飽くまで夢に過ぎない。つまらないくだらない妄想でしかなかったのだ。単なる夢の中のイメージだ。実際に起こることなどとは決して・・・・・・。


 しかし彼は現にこうしている。夢ではない。両肩に彼の掌の温かみが伝わって来る。熱い息までも、私の唇に届くようだ。こらえられなくなる。


 目蓋が震え、落ちそうになる。


 だけれども、私は思うのだ、決してこの瞬間に目は閉じまいと。何一つだって、見逃しはしない。・・・・・・。


 じっと、彼の深い瞳を見詰めていた。


 そして藤岡は、下唇を軽く噛んで湿らせ、言うのだった、


「山吹、・・・・・・俺に、可愛い子を紹介してくれない?」と。


 八重は膝から崩れ落ちた。


「お、おい、どうしたんだ!」


 慌てふためく和也の足元から、八重はすっと立ち上がった。そして哀れみに満ちた眼差しで彼を見詰め、腕をしならせ平手打ちをした。


 素晴らしい破裂音が和也の頬から鳴った。


 八重は息を切らせ、振り切った平手を下げている。


「ああ、ああああああああ、ああああああああああああああああああ、この、バァァァァァァァァカッッ‼ 死ね! 死んでしまえ! お前もう!」


 彼女は満面に朱を注いで歯を噛み鳴らし、山も砕けよといった調子で地面を踏み鳴らしながら、前を行く友人達を追い抜いて行った。


 後に残された和也は片頬を押さえ、なぜ引っ叩かれたのか分からずに涙目になっている。


 平手の音と八重の大声に驚いた光琉は振り返り、


「お前、何をやったんだ」


「な、何もやってねえよ」


 八重は最前列にいた米彦達からも遠ざかり、木立の向こうに隠れてしまった。


「あ、何、どうしたの」


 米彦の腕に(すが)らんばかりであった高緒だったが、八重の様子にぽかんとし、気を取り直してその後を小走りに追って行った。


 友人達は和也の周りに集まって興味津々だった。


「何もやってないって、あんなに引っ叩かれてただろ・・・・・・」


「平手打ちであんな音が出るなんて、今まで知らなかったぞ」


「藤岡君、八重ちゃんに何をしたの?」


「いやらしい事でも言ったのか」


「いやらしい事って、具体的にどんな事ですか!」


「倫子ちゃん・・・・・・、変なことに興味を持たないで」


 しかし和也にも訳が分からないのだから何とも答えようがない。先程の遣り取りを思い出しても、ただ女の子を紹介してくれと言っただけなのに・・・・・・。


 呆れ顔の光琉、目を爛々と輝かせている倫子、(たしな)めようにも困った朱莉、米彦は不審そうに首を巡らせ、あちらこちらを見回していた。


「どうした、米彦」


 和也は頬に手を当てたままで聞いた。まだちょっと痛いらしい。


「紗仲がいない」


 それを聞いて朱莉達もちらちらと探してみたが、辺りに彼女の姿はなく、ただ深とした山緑と涼し気な暗がりが広がっているばかりだった。道の奥は緩やかに曲がり、先に八重と高緒が消えた方へと続くのだが。


「いないな。いつから見てない?」


 光琉に聞かれ、ふと迷い、


「さっき、山吹が通り過ぎて行った時にはいたと思うけど」


「思うけどって」と、朱莉が言った。「覚えてないの?」


「ん、まあ」


 朱莉は溜息を吐き、


「ずっと高緒ちゃんにでれでれしてたから・・・・・・。いくら優しくされて嬉しいからって、それは非道いよ。彼女なんでしょ? 紗仲ちゃん可哀想」


 真っ当な非難を受けて米彦は弱ってしまった。


 しかし、あれは高緒がずっと付きっ切りで紗仲の方へ意識を向ける暇をくれず、会話に入れようとしても無理にでも遮ってきたからだ。わざと放っておいたわけではなし、それに入りたければ紗仲の方から入ってくれば良かったのだ。誘われなければ会話に加われないだなんて、世話の焼ける子供でもあるまいし。別に俺は無視をしていたわけではない――


 そのように内心で自己弁護をしたが、彼は心の片隅で気付いていた。紗仲と話をするよりも、高緒と言葉を交わした方が心が安らぐと。無意識の内に彼は紗仲に背を向けていた。彼女は不思議な力を持って空を飛べる人種であった。


 自分はそうではない。高緒もそうだ。紗仲は別の世界に生きる存在であり、高緒は同じ世界の人間だった。――俺は、こちらの世界の住人だ。いくら好き合っていると言っても、同じ世界に住む人の方が、安心できる。


 高緒はこちら側だ。同じ世界に生きている、同じ価値観を持っている同じ人間だ。紗仲はあちら側だ。だから、すなわち――。


 紗仲は俺を好きだと言ってくれる。俺も紗仲に惚れている。しかし、いくら彼女が自分達を連れ合いだと言っても、所詮は別の――。結局、相容れることは――。


――。


「ああ、あのお姉さんなら」


 倫子がそう言って話に入った。


「あの冷たいお姉さんなら、高緒姉ちゃんの後を追って行きましたよ」


「あれ、そうだったの。倫子ちゃん、よく見てたね」


 朱莉に褒められて得意げになり、


「皆さんが、このお兄さんの方に集まって来た隙に。こそこそと。何も言わずに行っちゃうなんて、陰険な人ですね」


 それを聞いて米彦は、


「ああ、なんだ。それじゃ俺達も先に行こうか」


 と、感慨も込めずに放った言葉に、


「綾幡くん、何か冷たいね」


 朱莉はぽつりと呟いた。


 結局和也が何も言わないので、このちょっとした事件も進展がなく、白けてぞろぞろとハイキングを再開しようとした丁度その時、


 裂帛の悲鳴が山林を貫いた。


 一同は顔を見合わせた。八重達の行った先、高緒の声だった。


 何が起こったのか、灌木の茂る山道を、木漏れ日だけが輝く道を、覚束ない足取りで駈けて行った。


 山林が切れると空は青かった。右手には切り立った崖が山肌を露わに迫っている。二車両分ほどの道幅。反対側には苔と泥とで汚れた木製のガードレール。高緒と紗仲が寄り掛かり、凝然と真下、草木の生い茂り三メートル先も見えない、急な斜面を見下ろしていた。


 その場に八重はいなかった。二人の様子から、道を先へ行ったとは思われない。それではどこへ。


 高緒の顔は蒼白だった。ガードレールの横木を握り締め、崖を見下ろす紗仲の顔には帽子の影が重く落ち、その表情は伺えなかった。


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