③ 苦界にたゆたう――1
咎の二筋道は分かたれ、断ち裂かれたる畜生に似て
朝の涼し気な陽光が窓から入り、窓際の列の机を輝かせていた。田舎の町の進学塾の一室。外には瑞々しい緑が見える。ガラス越しに蝉の声。それに負けず劣らず騒がしい中学生がそれぞれの席に着く講義室内は、クーラーがよく効いていた。
米彦は机の照り返しを眩しく思い、目を顰め、腕を伸ばして自分の席が影になる程度にカーテンを閉めた。あと十五分で一時間目の講義が始まる。
「おい、聞いたか」
米彦が熱くなった机に手を置いて、その熱が掌に伝わって来る具合を面白がっているところに、隣の席の和也が声を掛けて来た。
「今日さ、この近所の人が散歩していると犬の死体を見付けたんだってさ」
「ふうん」
「それが」と、身を乗り出して、「犬の死体は二つだったんだけど、両方とも首がなかったんだと」
「え」
「しかもだ、その内の一体は、真っ二つに斬られていて、それも、胴を横に、じゃないんだ。縦に、こう」と、揃えた指先を鼻先で上下させ、「そんなんだから、当然、辺りは一面血の海になっていて、近所の人とかは大騒ぎだよ」
と、そこへ、いつの間に近くに来ていたのか、
「えぇ、何それ、怖いね」
と、高緒が話に入って来た。和也は鼻をうごめかし、
「だろ? 明らかに事故なんかじゃない。誰かが、刃物でやったんだろうって」
「だけど」米彦は酸鼻な話に眉をひそめる。「何でそんな」
「ここだけの話なんだが」と、和也は小鼻を動かして、「その犬っていうのが、怖いところに飼われていたんだってさ。だからそれが原因なんじゃないかと、警察も動いてる」
高緒は身を乗り出して、
「怖いところ?」
「そう。聞いたことあるか」と、和也は声を潜める。「指定暴力団、英彦山会傘下、坂鉾組の前組長、杉田政之丞、その人の家に飼われていたらしい」
「じゃあ、ヤクザ同士の抗争ってことかな?」
「きっとそうなんだろう。ただ」
「ただ?」
「その政之丞という人は、少し前に死んでるんだよ。不審な事故死で。それで組の実権は他の家に移っているから、今更その人の家が狙われるはずはないんだけど」
「それじゃ、組長に選ばれなかった人が恨んでやったんじゃない?」
「いやいや、隠居したんじゃなくて、突然に死んだんだから、今の組長を選んだのはその人じゃないんだ」
「そうなんだ」
「それに、継承はスムースに行ったらしいから・・・・・・」
和也はこうした話を粛々と続け、高緒は真剣に聞いている。
米彦は飽きて、講義の準備を始めた。しかし意外だ。――と、高緒を見た。ちょっとふわふわした所のある女の子なのに、こういう裏社会的なゴシップが好きなのか。彼女の濡れたような黒髪が朝の日差を吸い込んでいる。夢中になっている話題とは裏腹に、清浄な印象を受ける横顔だった。
と、ふと講義室の出入口を見ると、そこには細身で小柄な女の子が自分達の方を見ていた。小学校の高学年か、今年中学に入ったばかりか。少しだけ前髪を垂らした以外は総ての髪を後ろに撫で付けた彼女は、目の大きく、鼻筋の通り、ふっくらした小さな唇が梅のように淡く染まった、可愛らしいお人形さんのような女の子だった。肉の薄いすらっとした手足が、涼し気な衣服から伸びていた。
彼女は片手を口元に当て、不安そうにおずおずと、三人の方へ歩いて来た。米彦は自分の方へ近付いて来る女の子を、見るともなしに眺めていたが、彼女が彼の視線を意識して、恥ずかしがって挙動がぎこちなくなったのを知ると、ちょっと目線を外してやり、それからまた、何だろう、と観察した。
彼女は年長の少年に見詰められて頬を桃色に染めていたが、彼らのすぐ近くまで来て、高緒の肩をトントンと叩いた。
「え、なに」高緒は振り返ったが、その少女を見ると舌打ちでもしそうな顔になり、「今、大事な話をしているんだけど?」
と、冷たく言い放った。米彦達が知っている限りではいつでも愛想が良くてニコニコしている高緒には似合わないことだ。しかし女の子はそんな口調に怯むこともなく、
「姉ちゃん」
と、彼女を呼んだ。
「英和辞典貸して」
高緒はそれを聞いて眉を顰めた。
「なに、あんた、忘れたの?」
少女は肩を竦めて、「重いから持って来なかった」
「忘れたんでしょう」
と、高緒はこれ見よがしに溜息を吐いたが、女の子は口を尖らせて、
「どっちでもいいでしょ、貸してよ」と。
「駄目」
「どうしてさ」
「忘れたんでしょう? だったらちゃんと、忘れたらどんな苦労をするかを経験して、それが嫌なら次からしっかりと忘れないようにしなさい。だから貸さない」
「ケチ」
「ケチじゃない。あんたのためを思って言ってやってんの」
「私に恥ずかしい思いをさせるのが私のためだって言うの」
「そう」
「そんなわけないでしょ。いいから貸してって。もうすぐ授業が始まっちゃう」
「駄目って言ったでしょ」
高緒と女の子は喧々囂々と貸す貸さないと言い争いをした。
米彦はそれを見かねて鞄を探り、
「どうぞ」
と女の子に英和辞典を差し出した。
彼女はきょとんとして、借りていいのかどうか迷っていたが、高緒が何か言い出しそうな気配を察すると、慌てて受け取り、
「ありがとうございます」
と軽く礼をし、ばたばたと逃げ出した。なお、講義室から出て行く際に、高緒に向かって、ベッと舌を出してから立ち去った。
高緒は困った顔をして、
「綾幡くん・・・・・・」
「困ってるみたいだったし、今回は叱らないであげたら?」
「困ってるって言ったって、自業自得なんだから」
迷惑だとでも言いたげに顔を歪めていた。米彦達は彼女のこうした不快感を顕わにしたところを見たことがなく、また彼女がこんな表情をするなどとは想像したこともなかった。
「まあまあ、いいじゃない」と、藤岡が割って入った。「妹? いたんだね」
「まあねぇ、恥ずかしいところを見せちゃって」
「何て名前? 何年生?」
「倫子。今年中学に上がったばかり。なんだけど、もう、本当にだらしがなくて。すぐに忘れ物をするし・・・・・・」
と、考え込む様子をした。するとその時、チャイムが鳴り、
「綾幡くん、次に来ることがあっても貸さないでね。あの子、すぐに甘えるから」
と、自分の席へ戻って行った。藤岡はその後姿を目で追って、声を低めて言うのだった。
「山口さん、すっかりお姉さんだったな」
何故だか嬉しそうな表情をしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
昼下がり、綱留駅の東屋では、昨日と同じ顔触れが暑い暑いと言っていた。何の我慢大会なのか、さっさと帰ればいいものを。しかし彼らにとって友人との集まりは何物にも代えがたいらしい。この日は前日よりも気温が高かった。朱莉でさえもへばっていた。朦朧として、
「あれ、高緒ちゃんがいない・・・・・・?」
八重は火照った顔を扇ぎつつ、
「講義が終わってすぐに帰ったよ。家の用事だって」
「ふうん、ふう」
「朱莉ちゃん、溜息吐かないで、余計に暑くなる」
「ああ、昨日も家の用事だって帰っちゃったし、忙しいのね、高緒ちゃん、あいみすゆー」
朱莉は卓に突っ伏した。
と、和也が唐突に、
「あ、そうだ。今度の土曜日さあ、皆で山行かん? 山」
「山ぁ?」と、八重が如何にも怠そうに言う。「何しに行くの」
「ハイキング。山口さんが行こうってさ」
「またあんたが無理やり誘ったんでしょう」
「いや違うって、山口さんから誘ってきたんだよ。なあ、米彦」
卓に両肘を突き、両手の上に顎を乗せて目を瞑っていたのだが、片目を開けて、
「ああ」
と肯いた。そして暑さで眠くなっているのか、また目を閉じた。
「ほらな。どうする。俺と、米彦と、山口さんと、それから山口さんの妹も来るってさ」
「へえ、高緒ちゃんって妹いたんだ。知らなかった」
「俺らも今日初めて見たんだけどな。可愛い感じだったよな、米彦よ」
「ん」
「ふん。ま、いいけど。船寄山?」
「そう。一昨日行って、気に入ったんだって」
「ふうん。朱莉ちゃんと佐倉はどうする」
「「何もやることないし、行こうかな」」
偶然、同じタイミングで声が重なり、何となく気まずくなって俯いたのだが、その動作も同時だったので八重が爆笑した。こんなことで笑えるくらい暑さで思考がやられていた。
「あのう、そのハイキング、私もご一緒して宜し、・・・・・・よ、・・・・・・良いですか?」
ふいに臆ず臆ずとした声が聞こえ、驚いて顔を上げると、米彦の後ろに紗仲がおっかなびっくり立っていた。昨日と同じ服装をして、少し気まずそうにして。
「ちょっと、声を掛けそびれてしまって」と、言い訳のように。
彼女を見付けた米彦は、先程までの眠そうな様子はどこへやら、すっかり目が覚めていた。昨夜別れる前に今日はここで待ち合わせをする約束をして、そわそわしながら待っていた。眠そうに見えていたのは心と体の震えを押さえる為に強いて落ち着こうとしていたのだ。
藤岡は彼女を見て、「あれ、いつの間に」と驚いた。彼は駅前広場を見渡せる位置に座っていた。その彼が全く気付かなかったのは不思議でもあったが、暑さで集中力も途切れていたのか。しかしそんなことを一々疑問に思う性格でもなかったので、
「別にいいよな、なあ」と、他の面々を見回した。
「うん、来なよ」と、八重は言う。「というか、是非、一緒に行こうよ。仲良くなりたいしね」
朱莉も頷く、
「そうそう、色々知りたいしね。ね、そんな所に立ってないで、ここに座ったら? あ、だけど、やっぱり綾幡くんの隣がいいかな?」と、二人の様子に興味津々で、「ねえねえ、どう? 綾幡くんの隣がいい?」
「ええ、そう、そうですね」
と、好奇心に溢れ返った彼女の雰囲気に引け腰になったが、米彦の方が気にも留めずに少し動いて、彼女の座る場所を作った。
友人達も一晩を経て初対面時の動揺が治まり、まあ、そういうものだと彼女を受け入れる気持になっていた。突然に米彦が恋人を作って、それが現れた上、随分な進展の速さだったので驚いただけで、別段彼女に悪い印象を持っていたのではない。新しい知人、それも友人と恋愛関係にある相手とあっては気持の上では仲間内も同然だった。
彼らは取り留めもない会話をした。改めて自己紹介をしたが、紗仲が言うには、彼女はこの辺りに住んでいて、この地区の公立中学に通っている、学年は三年とのことだったが、おそらくは嘘だろう。特筆すべきこともないどこにでもいる中学生だと装っていた。口調も初対面時とは打って変わって普通のものになっていたが、まさか八重でもその理由が昨日の米彦からの電話を盗み聞きされていたからだとは思いもすまい、何かを思ったとしても、せいぜい米彦からそれとなく指摘されて直したのだろう、とその程度。
今日は何をしていたのかと聞かれれば、少し恥ずかしそうにして、米彦をちらっと窺ってから、
「さっきまで寝ていました・・・・・・。夜更かしをしてしまって」
昨夜は夜通し本を読んでいたとのこと。それから趣味の話に移ったが、彼女の好きなことは色々と。本も音楽も映画も既に一生かかっても見切れないだけ作られている、夜はどれだけ長くとも長すぎることはない。
朱莉は、「趣味人だね」と笑った。彼女もまた小説、漫画、映画、色々と見るので、気が合いそうだと感じていた。それで、最近読んだり観たりしたもので、何か面白いものはあったか聞こうとした瞬間、紗仲が急に立ち上がった。
「どうしたの」と、朱莉が聞く。
「いえ、あの、ちょっと」と、自分の動作に紗仲自身も驚いたように。口籠り、それから、「あの・・・・・・、ごめんなさい、ちょっと、用事があったのを今、思い出しました」
申し訳なさそうにしながらも、落ち着かない様子は隠せない。そして慌てて別れを告げると、彼らの返事も待たずにバタバタと駅構内へ駈け込むのだった。
呆気に取られて見送った友人達は、
「凄く慌ててたね。何だったんだろう。綾幡くんは知ってる?」
「いや、・・・・・・」
彼とても正確な理由は分からない。だが、それは彼女と自分の秘密であり、深い因縁を持つという例の韋編に関することではないかと直感していた。
そしてそれは当たっていたが、そうだと知る術を今の彼は持ち合わせていない。
◆◆◆◆◆◆◆◆
翌日、この日もこの日で彼らはまたこの駅前でのんべんだらりとしていたが、そうしている内に前日のように紗仲が現れ、一行に加わり一緒になってだらけ始めた。友人達にとっては真新しい関係ではあったが既に慣れ、すっかり馴染んで旧来からの付き合いのように、よれよれになって他人行儀な礼儀も見栄もなくなってしまった。
昨日はもちろん、一昨日も、その前からも、ずっと前からこんな日々を過ごしていた気がする。昼下がりの虚ろな時間を彼らは無碍に、贅沢に浪費していた。こうして悔いることもなく時間を無駄にすることほど幸福なことがあるだろうか。
紗仲もまた新しい友人達との自堕落な時間にうっそりとして身を浸した。白濁した平和な一時だった。こうしたものが続けばいい。彼女は米彦に感謝をしたい気分だった。仮に短い時間であっても、こうしたものを味わえるのだから。
だが、彼女にはやらなければならない事があった。この空間から離れるのは惜しい。良き人々と別れるのは本当に惜しかった。だが、
「ねえ、米彦さん」
と、そわそわとして訴えたげな視線を投げた。
「どうしたの」
「あの」と、少し言いにくそうに、「皆には悪いけど、これからどこか歩かない?」
「いいよ。やることもないしね。お前らはどうする」と、米彦は友人達に問い掛けるが、
「あ、出来れば、二人きりで・・・・・・」
それを聞いて他の四人はにやにやした。米彦の頬が染まったのは、暑さのせいばかりではなかっただろう。
「妬けるね」
「熱いな」
気のいい彼らは散々からかい、冷やかし、皆々内心、羨ましがって二人をデートに送り出した。
米彦は笑い声を背に受けて恥ずかしさに身悶えして立ち去ったのだが、その実まんざらでもないのだった。横で静かに歩みを進める少女こそは、彼とても惚れ切っている、二世以上に渡る縁の、生を共にする女なのだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆
住宅街の路面からも陽炎は立ち昇り、邸宅の建ち並ぶ通りであっても人気はなく、東屋のあった駅前よりも暑さは弥増し、左右を挟む石塀土塀の上に覗く濃緑の枝葉、それから連想される閑静な庭だけが涼しそうだった。通りを歩む二人組。
紗仲は翠玉を思わせる晴朗な声を楽し気に弾ませていたが、米彦は時折黙り込み、悩み迷った。彼女と二人きりになったことで、一つの不安が顕在化し、胸を詰まらせていたのだった。紗仲も彼が悩んでいるのを察したが、それが何かが分からない、自分自身にも生じ始めた不安を跳ね返すように一層声を明るくした。
米彦は遂に意を決し、
「なあ、昨日のことだけど」
「なあに」
「昨日、あんなに慌てていたのは」
「急用よ」
「万巻韋編に関することか」
「大丈夫だったわ」
「そうなんだろう」
「大丈夫よ」
紗仲からすれば、昨日のことを話して彼を不安にさせたくない、そうなれば彼は記憶を取り戻していないというのに何かの役に立とうとするかも知れない、それは余りにも危険すぎる、だからその話はしたくない。
米彦からすれば、あれは自分達二人に深く関わるものなのだから、それの安否が知りたくなる、自分だって当事者であり、あれに何かがあれば二人の関係も危機に晒されてしまうかも知れない、だから不安にもなる。
「そうなんだろ。今は覚えていないけど、俺は君の」夫と言うには気恥ずかしく、「連れ合い、だったんだろ。それなら、その、思い出した時に困らないように、すぐに状況が把握出来るように、何があったのか、知っておいてもいいと思うんだけど・・・・・・」
両人共に俯向いてじっと思い入れ、そして、
「そう、そうかも知れない。詳しくは言わないけど、どうだったかだけは。一言でいえば、何もなかったわ。本当よ。ただ誰か、人間が一人、結界に触れていた。あの草叢の周りに張ってあるのだけれど」
「それじゃあ、あそこが見付かったのか。秘密基地だって言ってたけど」
「いいえ、そうじゃないわ。その人は結局、結界をかすめただけで何処かへ行っちゃったから。中にも入られなかったし、結界の存在にも気付いていなかったはずよ」
彼女曰く、その結界には、周りに近付く生き物にそこを認識出来ないようにする仕掛けを組み入れているという。結界が張られた場所そのものがそこに在るとは分からなくなるように、一種の特殊な造園術の秘奥を用い、視覚を始めとした五感に錯覚を引き起こさせている。
たとえば人は、ものが目に映っただけでは見たものを認識したとは言えない。と言うのも、人は視覚を通して得た情報を脳で処理して初めて見たものを認識するからだ。つまり、目で見ていても、脳がそれを意識しなければ人は見ているものに気付けない。
紗仲がそこに張っているという結界とは、すなわち、たとえすぐ傍まで来て結界内部を目に映したとしても、その光景を脳で正しく処理出来なくして、見たとしてもそれをそのまま認識出来なくするものだ。人は誰でも普通に生きていても見間違いをしたり遠近感が狂ったりすることがある。あの結界は、木の配置や石の置き方を工夫して、そうした見落としを意図的に作らせている。言わば空間的な騙し絵であり、騙し絵のアッパーバージョンだった。前述の通り、その秘術は視覚だけでなく、他の感覚にもまた錯覚を引き起こし、正常な認識を阻害するように仕組まれている。
これが結界である以上、術者かもしくは許されたものが結界の一部を扉のように開いていなければ内部に侵入することは出来ないのだが、こうした技術が使われているからには、近寄る者がいようとも、そこに結界があるということや、周辺の違和感すら察知することは出来ない。だから決して気付かれることはない。
もしも誤認を引き起こす術を解かずに内部にまで入り込みたければ、目で見えるものも耳で聞こえるものも鼻で嗅ぐものも肌に触れるものも舌に感じられるものも一切信じず、その上でその先に何かがあるという信念のみを固く維持して、身体感覚を捨て去って進むか、もしくは、周りがどうなっているのかすら分からない状態で迷い込むしかない。
米彦があの夜あの草原へ辿り着けたのは、意識が朦朧として目も耳も五感が全て働かなくなっていたからだ。もしも意識や感覚があれば、錯覚に惑わされ決して到達出来なかったに違いない。
「だから、大丈夫よ」と紗仲は続けた。「それにあの山にはあの場所を中心に人払いの法も布いてあるからね。理由はなくても何となく人がそこには来たくないと感覚させるようなものを。意志をもって来ようとしなければ、わざわざ寄り付こうとしなくなるもの。昨日の人は結局、結界の外縁までは来たけれど、何も気付かずに行っちゃったから」
「じゃあ、何もなかった、心配はないんだね」
「ええ、もちろん。韋編は無事よ。結界の縁まで来られたのが不思議なくらい。あんなに人が近寄ったのは、私が記憶を取り戻してから初めてのことよ。だから、ちょっと、びっくりしちゃって」
それを聞いて米彦の不安は軽くなった。
しかし、それでもまだ、どこかで何かが引っ掛かっている。それは昨日のことや万巻韋編に関わることではなかった。彼自身でもはっきりとは分からないが、何か、どこか、紗仲との関係に落ち着かなさを感じていた。彼は彼女に惚れ惚れられている。それに疑念の余地はない。だがその状態にある程度慣れた今、彼は何か根本的な不安に駈られていた。
何だろうか、それは一体何だろう。彼女には同じ不安はなさそうに見える。自分だけが抱いているその不安とは何なのか、答えられないだろうと思いつつも、米彦は笑いで誤魔化しながら、それが何か紗仲に問い掛けようとした。丁度その時、
「あ、ここよ」
と彼女は立ち止まった。それで質問の切っ掛けを失った。米彦は紗仲が目で指した家を眺めた。
豪邸というものだった。一区画をそのまま囲んだ土塀、黒木の勝手口、上方には松が枝を伸ばしている。瓦屋根の付いた正門は四輪馬車でも潜れそうなほど大きく、古びた分厚い木材で作られた扉は内に開かれ、その奥には松笹楓の植えられた築山、大きくうねる玉砂利の道が覗いていた。黒ずんだ扉は黒鉄で縁取られて威圧感を発し、屋根の裏には防犯カメラが睨むようにこちらを向いていた。
「ここよ。ここが、杉田さんの家」
そう聞いて米彦は先日の老女を思い出した。彼は常々これほどの邸宅に住む人のことを、あんなに大きな家に住んでいるのだからどうせ悪いことで稼いでいる連中だろう、などと思っていたが、あの老女を思い出しても悪人だとは到底思えず、理由なき偏見を抱いていたことを反省した。
あのどこかおっとりとした、のんびりとした雰囲気は、どんな悪事とも結び付けられない、そんなものとは一切の関わりのない、世の中に悪いことが存在するなどとは想像もしたことのない幸せな生涯を過ごして来た人のものであって、そうした人生を送れるだけの優れた人品の持ち主であるからこそ、こうした立派な邸宅に住めるのだ、などと、今度は別方向に極端な偏見を持った。
紗仲は杉田さんと仲良しだから、ついでに俺も仲良くなって高級な感じのお菓子でも貰えないかな、と厚かましいことまで考え出した。
米彦の邪まな思いは露知らず、紗仲がインターホンを鳴らそうとした。その瞬間、
「ああ、ちょっと」
と、重く低い男の声が紗仲の指を止めた。
米彦は背の低い方ではない。既に成人男性の平均に達し、中学生としては高いくらいだが、そこにいた男は米彦が見上げなければ顎も見えないほどに大きかった。体格もがっちりとしてスーツを筋肉が押し上げていた。首も太く、髪を短く刈ったその顔は、脂の滲み、頬に裂傷でもあればよく似合っていただろう、凄愴の気を帯びていた。
彼のたじろぐ内心を見透かしたように、男はふっと笑い、親しみを込めた表情とでもいうものを作って見せようとしたが、その目は暗く据わっていた。
「君達、この家に何か用かな」
男が問い掛けた。
「用って、別に・・・・・・」と、口籠る米彦とは対照的に、
「この家の犬と遊ばせて貰いに来たんですよ」と、紗仲は明るく何の気もなしに答えた。「ちょっと前から伺っているんです」
「俺は、初めてですけど・・・・・・。あの、すみません、この家の方ですか」
「まさか!」男は大袈裟に驚いて見せ、それが急に重苦しい気迫を発し、「ああ、警察だよ、警察」
と、胸ポケットから手帳を取り出した。指はごつごつとして皮膚は荒く、胸倉を掴まれれば服など紙のように破られてしまいそうなほど太かった。手首は筋肉で埋まり括れがなかった。
「ええと、君、女の子、ちょっと前からって、具体的にいつ頃かな」
「一ヶ月前、くらいだと思います」
「一ヶ月前ね。ふうん。それより前は? 犬が目的じゃなくても、遊びに来たことはあるの?」
「いえ、ありませんが」
「あっそう。この家の人とは遊びに来る前からの知り合いなの?」
「いえ」
「それじゃあ、何が切っ掛けで来るようになったんだい? どこで知り合った」
「一ヶ月くらい前に、この家の前を通り掛かった時、このお家の方が犬の散歩に出掛けるところだったので、それで、可愛い犬ですね、と声を掛けて」
「ふうん、犬好き?」
「ええ、まあ」
「君の家でも飼ってるの?」
「いえ、飼っていませんが」
「ペット禁止のアパートとかかな?」
「そういうわけでもないんですが・・・・・・」
「住んでいるのはこの近く?」
「いえ、あの」
「あの!」米彦は、警察に威圧される紗仲を見かねて口を挟んだ。「何か、問題でもあるんですか。こんな尋問をされるような覚えはありませんけど」
男は米彦に視線を落とした。眼の底が暗く見えたのは逆光のせいばかりではなかっただろう。
「今日も、この家の犬と遊びに来たんだよね」
「そう言ってるじゃないですか!」
男は疑わし気に、
「ここの犬が死んだって、知らないのか?」
「え」
米彦と紗仲は同時に声を上げた。その二人の反応を観察しながら、
「そうか、知らなかったのか。この辺りじゃ噂になっているんだがな。まあ、いい。二日前に殺されたんだよ。残虐な手口でね」
「残虐な・・・・・・」米彦は息を飲んだ。
「二匹いたとは知っているだろうが、両方とも首を切り落とされていた。一匹などは腹を裂かれて内臓を道路にぶちまけてな。首は現場からなくなって・・・・・・。ああ、本当に聞いていないのか?」
米彦は聞いていた。それを思い出した。そう言えば、そのような話を和也がしていた。そしてそれには続きがあったはずだ。ここまでは、いくら紗仲が懐かれていたとは言え、残酷な殺され方をしたとは言え、犬の話でしかない。もっと、何か、重大な続きが。
「だけど、犬が殺されたのだって事件ですけど、何か、もっと、他に」和也は何かを言っていたはずだ。
男は青褪めている紗仲を無視し、米彦をつくづくと眺め回した。
「君は、この家のことを彼女から聞いて遊びに来たのか? 知らなかったのか?」
「この家のことって」
「住人のことだよ。ヤクザだってこと」
ああ、そうだ、和也が言っていた、殺された犬は怖いところに飼われていたらしい、指定暴力団、英彦山会傘下、坂鉾組の前組長、杉田政之丞、その人の家に。だけど少し前に死んでいる、不審な事故死で。そして、先日の杉田という老女もまた、少し前に夫を亡くしているとのこと。
「杉田、杉田って、それじゃあ、あの。紗仲。紗仲は知っていたのか?」
彼女は涙に溢れる目をいっぱいに見開き、怯えたように首を振った。
男は日に焼けた手を顎に当て、ずんぐりした指で唇を撫でながら、黙り込んだ彼らを光のない眼で眺めて思考を巡らせていた。
と、
「何も知りませんよ、その子達は」
その声に振り向くと門の内側にいつから居たのか、先日の老女がすっと立ち、若い友人達と警察へ透徹な瞳を据えていた。
歩を進ませて閾を跨ぎ、彼らの前に頑として立つと、
「あら、麻倉さん、お勤め御苦労様です。それで、犯人は見付かったのか知ら」
「これはどうも。こちらも全力を挙げて捜査しているんですがね、中々、手掛かりも」
「真面目にやって下さっているの? 早く解決して頂かないと、善良な市民は怖くて夜も眠れないわ」
「善良な市民ね」
男の鼻笑いも風に流し、
「善良な市民ですよ、私は。しかし、犬が殺されたくらい。たかが器物破損でしょう。今回の件はそれ以上でもそれ以下でもないのですから、貴方は部署が違うのでは?」
「それが、急な配置換えがありましてね」
「そうですか」
「慣れない事ばかりでまったく困っていますよ」
「それはお気の毒なことですね」と、思い入れ、「紗仲ちゃん」
「は、はい・・・・・・」と、急に名前を呼ばれた彼女の声は震えていた。
「紗仲ちゃん・・・・・・。ごめんさないね、怖い思いをさせちゃって。・・・・・・家のこと、隠していたわけじゃないんだけれど、言わなかったものね」
「いえ、その・・・・・・。私も、聞かなかったですし・・・・・・」
「ふふ、紗仲ちゃん、こんなこと、普通は思いも及ばないでしょう?」
「あの、でも・・・・・・。杉田さんさえ良ければ、また、遊びに・・・・・・」
「いいのよ、気を使わなくても。それにね、もしも紗仲ちゃんがどうしても来たいって言っても、私は止めるわ」
「あの、それは」
「もう来ちゃ駄目よ。本当は、これまでも来て貰っていては駄目だった。紗仲ちゃんに甘えてしまっていたのね。ごめんなさい。今まで短い間だったけど、楽しかったわ。ありがとう」
「あ、あの」
「お達者でね」
紗仲は俯き、ぐっとして、
「ありがとうございました。私も、とても、楽しかったです」
「そう言って貰えると嬉しいわ。彼氏さんも、この前、話を聞いてくれてありがとう」
「いえ、そんな」
「ほら、お二人とも、お元気でね。いつまでも仲良く」
「はい・・・・・・」と紗仲は思い入れ。
「さようなら」老女は柔らかく言い放つ。
「杉田さん、さようなら。杉田さんも、お元気で」
そう口にしても紗仲は中々立ち去ろうとはせず、それを知った老女はきっぱりとして、
「さ、麻倉さん」と、彼女らに背を向け、あたかもそこには警察しかいないかの素振りで、「積もる話もあるでしょうから、中でお茶でも如何かしら」
「そうですね、それでは頂きましょう」
と、少年少女をそこに残して、門を潜って邸宅の方へと玉砂利を踏んで行った。
紗仲は彼女らがいなくなったのを感じ取り、面を上げて、
「残念ね。お友達が一人、減っちゃった。仕方のないことだけど」
と、麻倉と呼ばれた警察と同じ眼をして空を見上げ、
「分かっていても、別れはやっぱりつらいものね。さ、私達も帰りましょう」
と、米彦を促した。
それから暫くは黙って歩いていたが、杉田邸の角を過ぎ、もう一区画行った頃、
「なあ、紗仲」
と、米彦は彼女を慰めようとした。
が、突然、
「ああ、もう! どうして!」
紗仲は頭を掻き毟り、乱れた髪もそのままに、ある一方をきっと睨んで、
「貴方、ごめんね。急用が出来た。今日はさようなら。また明日ね」
それだけ言うと走り出し、一瞬大きく気を張り巡らせて米彦以外に自分を見る者、見える位置にいる者がいないことを感じ取ると、胸元から羽衣を取り出し、路面を蹴って空高く飛んで行った。
米彦は、既に胡麻粒ほどの小ささになった彼女を呼んだ。だがその声が届くはずもなく。
後には一人、見えなくなった彼女の影を目で追おうとする米彦が残された。彼はただの名もない少年に過ぎなかった。特別なことなど何もない、ただの中学生でしかない自分に虚しさを覚え、何だか無性に寂しくなった。紗仲は彼の身を案じていたのだとは言え、自分達の危機から彼を遠ざけた。それは一種の拒否であり、関係性の断絶だった。
米彦は、自分が紗仲や杉田、どちらの世界の人間でもないのだということを、ひしひしと感じた。超常的な世界でもなく、週刊誌の世界でもない、そのどちらにも属していない自分は、たとえ彼女らと言葉を交わしても、結局はこうして、ただ白日の下に取り残されるしかないのだ、と。